在りし日の平山郁夫画伯

在りし日の平山郁夫画伯

日本画壇に数々の業績を遺した平山郁夫画伯(1930-2009)。とりわけ出世作の《仏教伝来》以来、仏教東漸の道と日本文化の源流を求めてのシルクロードの旅は168回を数え、その作品の多さは他の追随を許さない。「シルクロードを世界遺産に、そして平和の道へ」と口火を切った平山さんの思いが、昨年実現したのを機に、大阪・守口の京阪百貨店で「~悠久のシルクロード~平山郁夫展」が10月8日から18日まで開催。被爆画家として平和への祈りを込めて描いた本画や素描など約60点により、画業を回顧する内容だ。生前からシルクロードの指導を受けた筆者はこの企画展に関わった。シルクロードを描いた平山作品を中心に紹介するとともに、平山さんの足跡をたどる。

 

何度も現地を訪ね、幻想的な作品に昇華

大阪・守口の京阪百貨店での展示会場

大阪・守口の京阪百貨店での展示会場

平山さんは東京藝術大学の調査団の一員として1966年にトルコ・カッパドキアを訪れてから、40年以上にわたってシルクロードへの取材を重ね、壮大なロマンに溢れる数多くの作品を描いた。その一方で、戦乱や盗掘などで失われていく文化財を守るために「文化財赤十字構想」を提唱し、文化化財保護活動の先頭に立ってきた。今回の展覧会は広島県尾道市の平山郁夫美術館と、山梨県北杜市の平山郁夫シルクロード美術館の両館が連携して実現し、朝日新聞社も主催に加わった。

 

主な展示作品としては、現在も戦火の絶えないアフガニスタンをテーマにした作品が並ぶ。《アフガニスタンを行く・日》と《アフガニスタンを行く・月》(いずれも2007年、平山郁夫シルクロード美術館蔵)がある。ともに高さ1メートル71センチ、幅3メートル64センチの大作。中央に白馬に跨る男性、後方に6頭のラクダに乗る男性の構図は同じだ。しかし昼と夜の砂漠の光景がエキゾチックな雰囲気を醸す。行進の向きは、太陽の下では右向き、月下では左向きに対照的に捉える。夜の作品は月とともに星空が瞬き、「平山ブルー」が鮮やかだ。

 

03-アフガニスタンの砂漠を行く・日

04-アフガニスタンの砂漠を行く・月

 

平山さんは1968年、仏教伝来の道を訪ねる旅でアフガニスタンに赴いて以来、73年にはアレキサンダー大王東征の道を辿る旅でも現地入り、翌74年にも隣国のパキスタンとともに訪問。2001年にタリバーンによってバーミヤンの大石仏が破壊されるが、その翌年にアフガニスタン文化遺産復興ならびにバーミヤン大石仏調査・保護活動のため出向いている。

 

06+07

 

《バーミアン大石仏を偲ぶ》(2001年)と《破壊されたバーミアン大石仏》(2003年)は、いずれも平山郁夫美術館蔵。玄奘三蔵も仰ぎ見た大石仏は爆破されてしまったが、平山さんは在りし日の姿に思いを馳せ、前作を仕上げた。後作は破壊後の姿を描いた。ユネスコ主催の国際会議で、画家は破壊されたバーミアンの仏教遺跡の復元に強く反発。広島の「原爆ドーム」のように「負の遺産」として、そのまま後世に残すことを提唱したのだった。この作品からも、人間の愚かさに対する、画家の哀しみと怒りが伝わってくる。(筆者注=バーミヤンの表記については、平山さんは「バーミアン」としている)

 

08-アンコールワットの月

 

《アンコールワットの月》(1993年)は平山郁夫美術館の代表作だ。1991年にアンコール遺跡調査団団長として約20年ぶりに訪問。その後も、ユネスコ親善大使や、個人的にも現地を訪れ、アンコール遺跡を時間の推移や角度を変えて数多くの作品に残している。煌々と輝く月の光が、寺院を聖地の水面に鏡のように映す様を捉えている。カンボジアでも長く内戦が続くが、崩壊を免れた素晴らしい遺跡を夢幻の世界に導くような名作といえよう。

 

09-亜剌比亜の翁

 

出品作にはシルクロードの旅すがら知り合った民衆の表情を描いた作品も数多い。 《亜羅比亜の翁》(1972年、平山郁夫美術館蔵)もその一つ。メソポタミア地方のチグリス・ユーフラテス河が合流したシャットゥルアラブ河を背景に、アラブ人の長老をモデルにしている。年輪を感じさせるしわと白いひげを蓄え、哲学者のような穏やかで悟った表情が特徴だ。また《タジマハール》(2007年、平山郁夫シルクロード美術館蔵)は若いインド女性の端正な顔立ちの背景に、美しい白亜の世界遺産の霊廟が浮かぶ。

 

10-タジマハールインド

 

平山作品が見るものに感動を与えるのは、風景を歴史として捉える点にある。いかに美しい風景でも、そこに歴史がなければ感動を呼ばない。風景はただ見るものでなく、そこにかつて生き、また現在も生きている人びとの姿から、悠久に続く人間の営みの真実を見るものであるからだ。

 

12-敦煌A_2

 

このほか中国の《敦煌A》(1980年、平山郁夫美術館蔵)はじめイラクの《ウルの神殿》(1974年、平山郁夫シルクロード美術館蔵)やイランの《シャーモスク イスファハーン》(2007年、平山郁夫シルクロード美術館蔵)、《イスタンブール トルコ》(1976年、平山郁夫シルクロード美術館蔵)など、シルクロードの風景が一堂に出品された。

 

13+15_2

14-シャーモスク イスファハーン_2

画家の原点が広島での被爆体験

平山さんは1930年、広島県豊田郡瀬戸田町(現・尾道市)の瀬戸内海に浮かぶ生口島に生まれた。穏やかな自然と風土に恵まれ、裏山に向上寺の三重塔(国宝)もある。旧制広島修道中学(現:修道中学校・高等学校)に進んだ3年在学中の1945年8月6日、勤労動員に駆り出されていた広島市内の陸軍兵器補給廠で原子爆弾投下により被爆した。

 

戦後は実家に近い旧制忠海中学(現・広島県立忠海高等学校)に転校する。卒業後、祖母の兄で彫金家の清水南山さんの熱心な勧めもあり、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学し、前田青邨氏に師事する。藝大で副手を務めていたころは、放射能障害の後遺症に苦しめられながらの画家生活だった。「明日の朝日を迎えることができないのではないか」といった不安がよぎり、画家としても行き詰まっていた。

 

転機となった作品は《仏教伝来》(1959年、佐久市立近代美術館蔵)だ。白血病と宣告され死に脅え、生活苦に悩まされる日々、「一枚でも心に残る絵を描きたい」と思いあぐねていた。そんな時、ふと小さな新聞記事が目に留まった。「東京オリンピックの聖火をギリシャからシルクロード経由でリレーして運んではどうであろう」といった内容だった。

 

インドへ命がけの求法の旅に出た唐僧・玄奘三蔵の姿が、あたかも天の啓示を受けたかのかのように浮かび上がってきた、という。玄奘がオアシスにたどりついた場面の着想につながった。

 

白馬にまたがる玄奘が天竺からの帰途、西域のオアシスに着く姿を祝って、樹木が瑞々しく茂り、足下に草花が咲き乱れ、小鳥がさえずり、犬も駆け回っているという構図で、平山さんはその年の第44回院展に出品するも、賞は逃した。

 

ある日、朝日新聞に掲載された展覧会評を読むと、美術評論家の河北倫明氏が《この絵には、群青(ぐんじょう)全体の色調が独特で、朱、金、白の滲むような輝きが含まれ、老成の中の若々しさ、みずみずしい静けさ、爽やかな情熱といったものが印象的である》と評価していたのだ。平山さんは布団の上で飛び上がるほどうれしく、何度も読み返したそうだ。

 

それまで生まれ故郷の瀬戸内の風物や風俗を具象的に描いていたが、「仏教伝来」は一変し、歴史的な事象を幻想的な作品に仕上げた。画想も描き方も、新境地を拓いていたのだった。

 

その後も《天山南路(夜)》(1960年、佐久市立近代美術館蔵)や《入涅槃幻想》(1961年、東京国立近代美術館蔵)、《求法高僧東帰図》(1964年、平山郁夫美術館蔵)など仏教や仏伝をテーマとした作品に取り組み、画壇で高く評価される。

 

トルコに始まってトルコに終わる

平山さんのシルクロード人生は、トルコに始まってトルコに終わった、ともいわれる。なぜならトルコは、1966年に東京藝術大学の中世オリエント遺跡学術調査団のメンバーとして訪れた最初のシルクロードの地だった。また亡くなった2009年の第94回院展での出品作は、カッパドキアをモチーフにした《文明の十字路を往く―アナトリア高原》(平山郁夫シルクロード美術館蔵)だったからだ。

 

トルコでの壁画模写の体験はすぐさま活かされることになった。帰国翌年の1967年には師の前田青邨氏とともに法隆寺金堂焼損壁画の再現事業に1年がかりで取り組み、73年にも文化庁から高松塚古墳壁画の現状模写を委嘱され、約9カ月携わる。さらにこの年6月には東京藝術大学のイタリア初期ルネサンス学術調査団の一員としてアッシジのサン・フランチェスコ寺院でも壁画模写に取り組んだのだった。

 

これより先、法隆寺金堂の第3号壁の観音菩薩像の再現を担当したこともあって、玄奘がめざした仏教伝来の道を訪ねる旅をしたいと願うようになった。1968年にインドを経由してアフガニスタン、カザフスタン、ウズベキスタン、パキスタンを歴訪する。この時、バーミヤン石窟で大石仏を目の当たりにして、「山を削って仏像を造ってしまう人間はすごい」と感銘を受ける。

 

翌年にはインドのブッダガヤやアジェンター石窟からスリランカ、タイ、カンボジアの仏跡めぐりをする。カンボジアではジャングルの中に埋没していたアンコール・ワット遺跡群を回り、榕樹(ガジュマル)が石造寺院を抱え込むタ・プローム遺跡を見て、驚異の景観に感動する。

 

さらに1970年にはイランのペルセポリスやイラクのウル、ニムルド遺跡へ、71年にもシリアのパルミラ、ヨルダンのペトラ遺跡などを回る。73年にはアレキサンドロス大王東征の道をたどる調査団(江上波夫団長)に加わり、インドからアフガニスタン、イランの遺跡を見学しトルコをめぐった。

 

シルクロードの旅へ毎年のように出向いた。そこは、これまでの日本画家が取り上げてこなかった画材の宝庫でもあった。平山さんにとって、風景は歴史として映った。いかに美しい風景でも、そこに歴史がなければ感動を呼ばない。風景はただ見るものでなく、そこにかつて生き、また現在も生きている人々の姿から、悠久に続く人間の営みの真実を見るものであった。シルクロードを描き続けた平山芸術の意味もそこに求められよう。

 

画期的な文化財赤十字構想の実践

私が平山さんに初めてお会いしたのは1993年秋に遡る。朝日新聞社主催の「アンコール・ワットの保存救済」のシンポジウムで、記念講演をしていただいた。97年7月、初めて鎌倉の平山邸を訪ねた。99年の朝日新聞創刊120周年記念プロジェクト「シルクロード 三蔵法師の道」の企画推進のための協力要請だった。展覧会、学術調査、シンポジウムの三本柱からなり、総監修やシンポの基調講演などを依頼し、快く引き受けていただいた。

 

平山さんは薬師寺に奉納する玄奘三蔵をテーマにした「大唐西域壁画」を制作中だったこともあり、天竺へ命がけの旅をした玄奘の姿をモチーフにした「仏教伝来」のことや、「玄奘三蔵の道」の追体験をしてどれほど厳しい道のりであったかなど、多くの助言と指導を受けた。

 

平山さんが玄奘の足跡をたどり始めた1960年代は、旅行社のコースにもない秘境の地を訪れることが多かった。不審者に鉄砲を突きつけられたり、粗末な宿で体調を悪くしたり、何より食べ物に苦労し、下痢と闘いながら旅をした話などをお聞きした。そして別れ際に、「私にとって、まさに菩薩行でした。玄奘をテーマに取り上げているわけですから、それなりの信念と覚悟で乗り切ってください」と励まされた。

 

亡くなった翌年の2010年夏、平山さんの故郷に1997年に設立され、実弟の平山助成さんが館長を務める公益財団法人平山郁夫美術館から、今後の顕彰活動について、相談を受けた。「できれば具体案を」とのことだった。私が平山さんから数々の薫陶を受けていた事情を先方が知っていたためだ。

 

次世代への継承につながる地道な活動を提案した。平山郁夫美術館では、私の提案を受け入れ、企画展コーディネーターを委嘱された。私の郷里の新居浜をはじめ名古屋、瀬戸内、明石、京都、南陽などで開催し、没後5年の2014年度には八王子や長崎、熊本を巡回し、今年も田辺、朝来に続いて大阪での展覧会となった。

 

今回のシルクロードを描いた数々の作品からは、文明への深い洞察力が感じられる。こうしたシルクロードの旅で、自然災害だけでなく戦禍や盗掘などの人災によって危機に瀕している文化財や遺跡の荒廃は見過ごすことができず、文化遺産を風化や紛争から守る「文化財赤十字」構想の提唱にたどりついたのだ。

 

敦煌の継続的な文化財保護のため1988年に文化財保護振興財団を立ち上げた際、発起人代表の平山さんは、その役割について「文化財赤十字」の構想の実践を表明したのだった。当初、「敦煌財団」ともいわれたが、その後の展開は、敦煌だけでなく広く世界に向けられた。

 

敦煌への取り組みからスタートした文化財保護活動は、アンコール遺跡群の調査から保存・救済に向けられ、アフガニスタン文化遺産復興ならびにバーミヤン大石仏調査・保護活動、中国と北朝鮮にまたがる高句麗壁画古墳群の世界遺産登録への貢献、イラクの文化財支援事業など、シルクロード各地へと広がった。日本人による国際貢献の一つのあり方として、大きな成果を挙げながら、没後もその精神は受け継がれている。

 

とりわけバーミヤンの大石仏爆破には衝撃を受け、平山さんは、「一度破壊されれば、二度と同じものは生まれてきません。優れた文化財は継承されることによって生き続けるのです。それは古くなっても美しいのです。その『美』を赤十字の心で救済することは、国境や民族、宗教の壁を乗り越えて急務なのです」と訴えていた。

 

「シルクロードを世界遺産に」との提唱も、平和への熱い思いが込められている。平山さんが資金を出してシルクロードのウズベキスタンの首都タシケントに建設した「文化のキャラバン・サライ(隊商宿)」は、考古学研究、展示施設を中心に、文化芸術に志を持つ全世界の若者が宿泊できる施設で、運営・管理は現地で実施している。私も2008年に訪れたが、平山精神はしっかり根づき活動中だ。

 

今後はユネスコやJICA(国際協力機構)などの協力を得ながら、「21世紀のキャラバン・サライ」がシルクロードの沿線に次々と建設されれば、平和と文化の大公道になるであろう。平山さんがひるむことなく貫いてきた平和を希求する精神に、時代は応えていかなければならない。

 

バーミヤン大石仏をスケッチする平山画伯(1974年、平山美知子さん撮影)

バーミヤン大石仏をスケッチする平山画伯(1974年、平山美知子さん撮影)