地元の宝塚で開かれた写真展会場での西垣敬子さん(2017年)

地元の宝塚で開かれた写真展会場での西垣敬子さん(2017年)

紛争が続くアフガニスタンへ渡航42回、20年余りにわたっての難民支援に取り組んできた「宝塚・アフガニスタン友好協会」(兵庫県宝塚市)代表の西垣敬子さんは、3月で会活動に幕を下ろす。81歳の高齢に加え、治安の悪化で入国が難しくなったためだ。アフガニスタンへのソ連軍侵攻の写真展を見て活動を始めた西垣さんは、その締めくくりに、自分が撮りため写真展「アフガニスタン―22年間の援助活動を振り返る」を開催し、活動を締めくくった。西垣さんの撮った多数の写真の中から一部を紹介するとともに、一人の主婦が体現した草の根の国際交流の足跡を振り返る。

 

左)2002年春 ジャララバード 米軍が配った料理用油を手にした少女達
右)2014年 ヘラート ガーゼルガー寺院の中庭俯瞰図(ティムール朝の王族の墓地)

生々しい戦場の写真展に衝撃受け活動開始

アフガニスタンは1978年に軍事クーデターが起き、旧ソ連の軍事介入。89年にソ連軍が撤退するものの、内戦を経てタリバーンが支配域を広げ、96年に政権を樹立した。2001年の米同時多発テロ後、タリバーンが国際テロ組織アルカイダのビンラディン容疑者をかくまったとして米軍などの攻撃を受け、政権を追われた。しかし、なお勢力を維持し、反政府勢力として政府軍と交戦を続ける。
 
平凡な一主婦であった西垣さんは、緊迫のアフガニスタンに関わるきっかけは、何気なく立ち寄った写真展だった。1993年夏、アフガニスタンへのソ連軍侵攻の写真展を東京で見たことが運命的な出合いとなった。展示された写真には生々しい戦場の光景が写っていて衝撃を受けた。「平和に暮らす私たちが、戦争で苦しむ人たちに何かお役に立たなければ」との思いにかられた。
 
西垣さんは学生の頃から海外への関心が高かった。神戸大で仏教美術史を学び、仏教伝来の道だった中央アジアに関心を抱いていた。さらに独学でフランス語を学んだことや、外国公館で働いていた時期もあった。子育てがひと段落した後、50歳を前に大学に戻り、かねて興味のあった仏教美術史を研究し、かつて仏教が栄えたアフガニスタンの実情に心動かされたという。
 
西垣さんは1994年1月、自宅に「宝塚・アフガニスタン友好協会」を立ち上げた。その年の春、大使館から東京で見た写真を借り受け、地元で写真展を開く。ちょうどその頃、アフガニスタンでは本格的な内戦に突入したのだった。「幼児が栄養失調で死にかけている」との報道に心を痛めた。「赤ちゃんにミルクを」と、写真展会場に置いた募金箱に約40万円が寄せられた。

 

パソコン

会報の『ざくろ通信』などもパソコンを使って手作り作業の西垣さん(2007年自宅で)

その年11月に、初めてパキスタン経由でアフガニスタンに飛んだ。事情を話し、国連の10人乗りプロペラ機に乗せてもらい、パキスタン国境に近いジャララバードの難民キャンプに入った。褐色の大地に並ぶ無数のテント。当時、首都のカブールが戦場になっていて、35万人もの難民がテント生活をしていた。
 
寄金をミルク代にと申し出たが、多くの赤ん坊は、45度から50度にもなる夏の暑さですでに死んでいた。「小旗を付けた枯れた棒切れが地面にたくさん突き刺さっていました」。それが墓だと知り、絶句したという。
 
元教師の難民が青空教室を開いていたが、教科書もなく、地べたに座り込んでの授業だった。要らなくなったミルク代の寄金を学校用のテントに充てることに決め、帰路のパキスタンで、現地に届けてもらうよう発注した。

 

「アフガニスタン情報―草の根からの報告」スライドを見せ講演する西垣さん(2007年6月、泉大津市高齢者大学)

「アフガニスタン情報―草の根からの報告」スライドを見せ講演する西垣さん(2007年6月、泉大津市高齢者大学)


 
翌年の1995年、「さあ、これから難民支援に本気で取り組もう」と気を引き締めていた矢先、阪神淡路大震災に遭った。宝塚市在住の西垣さんの家も被災した。散乱する家財を前にして、「難民支援は、もう続けられない」と、ふさぎ込んだ。しかし被災地にあふれるテントを見て、「注文したあのテントは難民キャンプに届いているのだろうか」と、とても気になったのだ。

 

年末、再び現地へ向かった。すでに5張りの大型テントは、現地に届き使われていた。西垣さんは、子どもたちが男女別にテントの中で勉強をしていたのを見届け、「とてもうれしかった。と同時に、寄金の使われ方を確認することの大切さを実感しました。それが募金した者の責任なのです」と述懐する。

 

左)赤ん坊のミルク代が不要となったため購入した学校用テント
右)募金で購入したテントと手回しミシンでの洋裁教室(1995年)


 
国連の援助で職業訓練をする男性と違い、女性は何をするでもなくテント生活を強いられていた。イスラームでは女性は意志表示も外出もままならないのだ。しかし西垣さんの前では「刺繍がしたい」「ミシンが欲しい」と口々に訴えた。以前に仕立て業をしていた未亡人もいて、西垣さんは洋裁教室を開けないかと考えた。翌年にはパキスタンで買った手回しミシン25台を持ち込んだ。
 
洋裁や刺繍は、収入のない母子家庭にとって救いだった。刺繍で飾った布を買い取り、日本で売った。そのお金でミシンの台数を増やし、刺繍のテント教室も開いた。しかし1996年からタリバーンが全土をほぼ掌握し実効支配に移り、テント内の洋裁教室は、5人以上の集会の禁止に違反するとして解散させられたのだ。やむなく、ミシンを順番に戸別に回して使ったそうだ。

 

左)日本から送った刺繍糸で刺繍するジャララバードの未亡人たち(1995年)
右)笑顔で器用に刺繍するジャララバードの女性(1996年)

片足を失った少女に義足、「隠れ学校」を支援

1998年には、よき理解者だった夫をがんで喪う。悲しみの日々を過ごしていたが、アフガニスタンの難民たちは、西垣さんが訪ねるのを心待ちするようになっていた。娘たちも自立し、一人暮らしの西垣さんにとって、いつの間にか「アフガンは第二のふるさと」になっていた。

 

2000年にカブールの孤児施設でフルーザンという少女に会った。彼女は当時12歳で、笑顔のかわいい子だったが、下半身に目をやると右足が失われていた。彼女はカピサという古い町に住んでいた。ところがソ連軍が撤退直前に落としたロケット砲が家を直撃し、両親を亡くし、片足を吹き飛ばされたのだ。

 

帰国後、新聞記者にこの話を伝えたところ、「フルーザンに義足を」との記事になり、カンパが集まった。さっそく奈良在住の義足の専門家の瀧谷昇さんに相談をして、彼女に「足」をプレゼントすることになった。西垣さんは瀧谷さんとともに、義足を作るためのすべての道具や器具を現地に持ち込ことになった。タリバーン支配でビザの入手が難しかった上、総量が22キロもありひと苦労だったという。
 
カブールへはパキスタンからNGO(非政府組織)が乗れる航空機が飛んでいることを知り、グライダーのような4人乗りセスナ機で入れた。そして2日半かけ、フルーザンに義足を装着したのだ。

 

左)瀧谷昇さんに義足を装着してもらうカブールのフルーザン(2001年5月)
右)大きく成長したフルーザンと再会を喜ぶ西垣さん(2004年)


 
「現地に足を運び、この目で見たことで、難民たちは何を求めているかがよく分りました」という西垣さん。タリバーンは女性の教育を禁止したため、各所で小さな「ホームスクール」が開かれるようになっていた。いわゆる「隠れ学校」だ。民家の中庭や、物置部屋であり家畜小屋だった。
 
こわごわ訪ねた「隠れ学校」の関係者から「ここで教えている教師に給料を払ってもらえないか」と相談を受けた。「戦争を拒み、平和な暮らしを築くためにも、女性も勉強してほしい」と、西垣さんは支援を約束した。
 
1ヵ月に1人2000円分の給料。これだけあれば10人家族がジャガイモやタマネギを食べて生きていける額。2人の教師から始めたが、次第に広がり、多い時には17ヵ所で22人の女性教師に給料を支払うカンパを続けた。
 

左)「隠れ学校」で勉強する少女たち
右)兵庫県立西高校から寄贈の鉛筆を手にする少女(タリバーン時代)


ヘラートのナン屋で働く少年

ヘラートのナン屋で働く少年


 
ある時、タリバーンに「隠れ学校」が見つかり、刑罰を覚悟して出頭すると、「実は私の妻も教員で子どもたちを教えている。援助してくれ」と告げられた。拍子抜けし、給料を払う教員のリストに加えた。「タリバーンも自分の子に教育を受けさせたいんだと少しホッとしました」と振り返る。
 
西垣さんの献身的な支援活動は、突然途切れる破目となった。2001年9月11日にアルカイダがアメリカで同時多発テロを起こしたからだ。翌月には、アメリカは報復としてアルカイダの拠点があったアフガニスタンへの空爆を開始した。こうして11月にはカブールが陥落し、年末にタリバーン政権が崩壊した。
 
西垣さんには戸惑いと苛立ちの日々が続いた。とりわけフルーザンに義足をプレゼントした5月、「半年後に微調整をしにくるから待っていてね」と約束していた。太ももにあてた薄い布が擦り切れているはずだった。2002年4月になって、カブールに入れた。瀧谷さんも5月の連休時に訪れやっと義足調整も終えたのだ。
 
義足のフルーザンのその後を聞いた。一時フルーザンに家族ができた。資産家の女性に引き取られ、幸せに過ごしていた。しかしフルーザンの平穏な日は長くは続かなかった。昔の仲間たちに安らぎ求めたのか再び陰鬱な施設に舞い戻ったそうだ。次第に大人になる彼女にも迷いがあるのか、その後また別の施設へ移ったとのことだ。探し出した彼女は元気に学校に通っていた。可愛く飾った部屋にはインド映画のスターの写真が貼ってあったそうだ。西垣さんにとって、いつまでも気がかりなフルーザンの人生。遠く隔てて暮らしているものの、国籍を超えた「家族」の一員との思いもあったのであろう。
 
フルーザン

2004年再会時のフルーザンの居た施設内にはプロマイドも

国境を超えて「きずな」を求める生き方に拍手

タリバーン政権が崩壊して、現地は復興のさなかだが、人々はなおも貧困にあえいでいた。西垣さんは、常に困窮の地に足を運び、自分の耳で切実な訴えを聞いて回った。日本で繰り返し、実態を話し、寄金が集まれば現地に飛び、何に使うかを決め、使った金の行方も確認する手堅さで支援活動に取り組んできたのだ。
 
国立ナンガルハル大学を訪ね女子トイレが無かった。古いトイレは使い物にならず、西垣さんのトイレ作戦が実施された。2003年4月には無事に出来上がり、学長の提案で完成パーティーが催された。
 
都市部の「隠れ学校」で学んだ女子生徒たちが、大学に進学し始めたのはいいのだが、今度は大学から地方の生徒たちのための寄宿舎建設を求められた。鉄筋2階建て延べ270平方メートル、約50人収容規模を想定すると約1200万円かかることが分かった。まさに4年がかりの西垣プロジェクトの始動だ。講演会や写真展など地道な活動を続け、200万円を超す寄金が集まった。
 
私が西垣さんを知ったのは、その女子寮建設に高額の助成が決まった時だ。2006年7月、「国際ソロプチミスト奈良―まほろば」の10周年記念の集いに出席したのがきっかけだった。この会で、女子寮建設に600万円の補助金が贈呈された。その後も「まほろば」から、アフガニスタン難民の写真展とバザールを実施し、その売り上げ100万円も寄贈された。
 
その年の9月、東京で開かれた『アフガン全史』(明石書店)出版祝賀の会で、西垣さんと出会った。「今度は毎日新聞国際交流賞に選ばれたのよ。250万円いただけるので、ほぼ女子寮建設の目処がつきました」との朗報がもたらされたのだった。

 

「毎日国際交流賞」の受賞を喜ぶ西垣さんと支援者ら

「毎日国際交流賞」の受賞を喜ぶ西垣さんと支援者ら


 
2007年4月、日本から直線で6000キロ以上も離れた異国の地で、西垣さんは感動の日を迎えた。苦労を重ねて集めた寄金でアフガニスタン東部のジャララバードに建設していた国立ナンガルハル大学の女子寮が完成したのだった。女性の教育を禁止していたタリバーン政権が崩壊して、「これからの祖国復興に女性たちの教育は欠かせない」との願いが込められていた。
 
完成した国立ナンガルハル大学の女子寮(2007年4月、ジャララバード)

ジャララバードに完成した国立ナンガルハル大学の女子寮(2007年4月)


 
そして迎えた完成式。「多くの日本の人たちの善意がこもった建物が出来ました」。挨拶する西垣さんの声が震えていた。9つの部屋に約50人が暮らすことができる。9月からの新学期に間に合い、女子学生らとジュースとお菓子で祝ったという。孫のような子どもたちに囲まれ、西垣さんは言葉に言い尽くせぬ感動に包まれた。「老後は女子寮のゲストルームに泊まり、若い女学生たちの夢を聞きたいものです」と話していた。
 

左)「宝塚・アフガニスタン友好協会」の名も刻まれたプレートの前に立つ西垣敬子さん
中)女子寮完成を祝って開かれたささやかな祝賀会
右)女子寮前の木陰で椅子とテーブルを並べてのパーティ

 

完成した子寮に集まった国立ナンガルハル大学の女子学生と記念撮影の西垣さん

女子学生らに慕われる西垣さん

左)国立ナンガルハル大学の学長と話す女子寮の学生達(2008年)
中)日本でのカンパで女子寮に大型の冷蔵庫も設置(2008年)
右) 大学の付属小学校はテントないで授業(2008年)


 
その後、タリバーンの盛り返しや過激派組織「イスラム国」(IS)の浸透もあって再び治安が悪化し、現地入りは難しくなった。2011年からは支援の場所を比較的に安全なアフガニスタン西部に移した。そこで伝統の細密画に出合い、日本に紹介する取り組みも。とりわけ国立へラート大学教授の美術書を訳し、『ガーゼルガーの黒い真珠―イスラーム美術の紋様 アラベスクの源流を求めて―』を出版した。
 

左)大阪府立守口高校(統廃合でなくなった)サッカー部から頂いたユニフォームを着る孤児たち(2004年)
右)映画『アフガン零年』のシディキ・バルマック機監督(左端)と

 

左)へラート大学美術学部のサワビー教授から絵のプレゼント(2014年)
右)サワビー教授からガーゼルガー寺院でティムール朝の王族の大理石石棺の説明(2014年)


 
いつでも渡航できる平和な国家を待ち望んでいるものの、治安は安定せず民間人の巻き添え死傷事件も頻発し、外務省は全土に退避勧告を出している。さらに東日本大震災後に寄付が思うように集まらなくなったこともあり、西垣さんは支援活動にひと区切りをつけることを決心したのだ。
 
西垣さんは今年2月、地元の宝塚市で講演し、「援助活動を打ち切ります」と宣言した。「自分たちの手で国づくりをしないと真の平和は来ない」との思いがある。その一方で、「平和への見通しがつかないままやめるのは残念」が本音だ。渡航できるようになれば、また現地の土を踏むつもりだ。「個人としては生きている限り関わり続けたい」と結ぶ。
 
自分本位の私生活主義が蔓延している現代日本にあって、平凡に生きていた一介の主婦が、還暦近くになってから一転、アフガニスタン難民の支援に取り組んだのだ。「人間どうし共に生きている」という心の持ち様が薄らぎつつある時代、国境を超えて「きずな」を求める生き方に拍手を送りたいと思う。

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写真展に寄せた西垣さんのメッセージ
1994年秋、一人の主婦が援助活動者になって、遠いアフガニスタンへ出掛けた。アフガニスタンは内戦中で難民が続出、赤ん坊にミルクはなかった。援助の対象は女性と子ども。イスラームの国では男は家族以外の女性に近寄ることも、素顔を見ることも出来ない。ましてや写真を撮ることなど不可能。しかし私は女であり、その上50歳を過ぎていたので女たちを自由に撮ることが出来た。アフガニスタンの子どもたちは目が大きい。そして人を真っ直ぐに見る。過酷な戦争の日々を黙って受け入れ、それでも無邪気に愛らしく幼い妹や弟の世話をし、水汲みをして親を手伝う。Photographerではない。活動の記録として撮ったものである。いつも「これが最後になるかもしれない」と思いながら撮ったものである。
(展示会場・アメリカ橋ギャラリーのホームページから)

 

AMERICA-BASHI GALLERY=アメリカ橋ギャラリー開かれた写真展会場(2017年3月)

AMERICA-BASHI GALLERY=アメリカ橋ギャラリー開かれた写真展会場(2017年3月)


あどけないアフガニスタンの子供たちが、真の笑顔で迎えられるのはいつの日か(2003年 ジャララバード)

あどけないアフガニスタンの子供たちが、真の笑顔で迎えられるのはいつの日か(2003年 ジャララバード)