半世紀経てなほシベリア想いつつ熱砂の下に仏跡掘る日々

    加藤九祚一人雑誌『アイハヌム2001』の「中央アジア雑感」より

 

 

在りし日の加藤九祚さん。2002年に受章した「ドストリク」(友好)勲章をに正装(2008年、奥野浩司さん撮影)

在りし日の加藤九祚さん。2002年に受章した「ドストリク」(友好)勲章をに正装(2008年、奥野浩司さん撮影)

シルクロードの要衝の地、ウズベキスタンで遺跡の発掘調査を続けていた考古学者で文化人類学者の加藤九祚(きゅうぞう)さんが、発掘のため訪れていた南部・テルメズの病院で日本時間の9月12日未明、亡くなった。94歳だった。1976年に『天の蛇 ニコライ・ネフスキーの生涯』で大佛次郎賞を、99年に長年のシルクロードなど幅広い研究で南方熊楠賞を受賞。さらに日本との友好交流への尽力が評価され、2002年にはウズベキスタン共和国政府から「ドストリク」(友好)勲章を受けた。当サイトの「シルクロード」でも『「天の蛇」を著した加藤九祚という生き方』(2015年12月3日)について取り上げたが、私にとって20年来の厚誼をいただいた加藤さんの訃報に、心から哀悼の意を捧げ、生前の画像や思い出を紹介するとともに、その偉業の足跡を偲ぶ。

 

シベリア抑留体験を生かし研究と実践

加藤さんの旧ソ連邦下のフィールド活動には、運命的ともいえる4年8カ月に及んだシベリア抑留体験が密接につながっている。1922年に韓国慶尚北道で生まれた加藤さんは、日本で働いていた兄を頼って山口県宇部市立上宇部小学校へ。私立長門工業学校を卒業後、宇部鉄工所の工員や小学校の代用教員を務める。

 

高等学校入学者検定試験を経て、1943年12月に上智大学予科を仮卒業、翌年1月、工兵第2連隊(仙台)に入隊し、陸軍工兵学校を経て、兵科見習士官として関東軍混成第101連隊に、次いで第1方面軍139師団工兵大隊に所属し、45年8月に派遣先の旧満州東南部の敦化(とんか)で敗戦を迎え、ソ連軍の捕虜となった。

 

加藤さんは抑留され、東部シベリア(主としてイルクーツク州)の収容所を転々とし、50年4月17日、引き揚げ船の明優丸で帰国するまで、ほぼ5年近くの拘束生活を余儀なくされた。

 

人生にとってもっとも活動的といえる23歳から28歳にかけて抑留されたが、加藤さんは自分の置かれている状況を知りたいと、ハルピンで入手した捕虜尋問用の『日露対訳会話集 ロシア語』やロシア語の教科書などをテキストに猛勉強し、徐々にロシア語を習得していった。

 

抑留されながらも、自由な時間を活用しての独学だ。まさに加藤さんの真骨頂であるプラス思考で、シベリア抑留生活を「国費留学」と受け止め、逆に体験を生かそうと考えるようにしたのだった。こうした厳しい体験を通して、弱者への思いやりや、人との縁や絆を大切にする人間としての生き方にまで影響したといえるのではなかろうか。

 

帰国後の1953年、アルバイトをしながら上智大学文学部ドイツ文学科を卒業し平凡社に勤務する。上智大学の非常勤講師などを経て75年から86年まで国立民族学博物館教授として、シベリアの歴史と文化の研究に携わる。定年後さらに98年まで相愛大学と創価大学でシベリアや中央アジアの文化史の研究を重ねる。

 

創価大学では、加藤さんの提案によってシルクロードの学術研究調査に乗り出すことに。ソ連の支配下にあったウズベキスタンに調査すべき仏教遺跡が残っていた。89年にウズベク共和国ハムザ記念芸術学研究所との間に協定を結び、遺跡調査を開始した。

 

北方ユーラシア民族学が専門の加藤さんは、図らずも日本側の調査団長として中央アジアで遺跡の発掘にかかわることになったのだ。「考古学こそ、新しい発見の実践」が加藤さんの持論であったからだ。65歳を過ぎてからの思い切った転進だった。

 

しかし1998年3月、加藤さんは創価大学を定年退職し、お役御免になった。加藤さんは、現地に踏みとどまった。考古学は息の長い仕事で、ますますのめり込みライフワークとなった訳で、長い老後の大きな目標でもあった。

仏塔発見、薬師寺の支援で発掘調査を継続

私が初めて加藤さんとお会いしたのは1997年6月のことだ。朝日新聞社創刊120周年記念事業の「シルクロード 三蔵法師の道」プロジェクトの学術調査団の派遣を控え、中央アジアの情勢などについて教えを請うために訪れた。現地での豊富な経験と人脈を持つ加藤さんから、受け入れ研究機関や遺跡などの適切な情報を教えていただいた。

 

その1カ月半後に、キルギスのビシケクとトクマクの間に位置するクラスナヤレーチカにある仏教遺跡の発掘現場で再会した。私は調査団員の一人としてこの地に赴き、加藤さんから発掘した遺構の案内や出土物の説明をしていただいた。加藤さんは、自弁で発掘に当たっていた。

 

キルギスタンのクラスナヤレーチカの発掘現場に設けられたキャンプでの加藤さん(前列中央、左隣は筆者、1997年)

キルギスタンのクラスナヤレーチカの発掘現場に設けられたキャンプでの加藤さん(前列中央、左隣は筆者、1997年)

 

この時、加藤さんは75歳だった。現地の気温は白昼35度を超えていた。こんなに日本から離れた異境の地で地道な発掘作業を続けている姿に心を打たれた。この遺跡では、私たちが見たのとは別の場所で、大涅槃像を有する仏教寺院址や壁画などが発見されていた。だが、こうした発見に遭遇することは稀で、ほとんど毎日が土と向き合う孤独な闘いだ。

 

日本からの久々の客人たちということで、現地の学者らとも交歓でき、テントの中でスイカをごちそうになった。別れ際に加藤さんは、十八番という「あざみの歌」を歌ってくれた。「山には山の愁いあり 海には海の悲しみや……秘めたる夢をひとすじに……あざみに深きわが想い」。その歌声はとても味わいがあり、ロマンあふれる老学者の姿に私は酔いしれた。

 

加藤さんが自費でキルギスの発掘に取り組んでいた時、親密なウズベク人学者からカラテパ遺跡で共同発掘調査を、との声がかった。カラテパはアフガンとの国境を流れるアムダリヤ川右岸のほとりに所在し、仏教伝来ルートで西トルキスタン最大の寺院址だった。

 

加藤さんらが発掘したウズベキスタンのカラテパ遺跡のストゥーパ基壇(2001年、筆者撮影)

加藤さんらが発掘したウズベキスタンのカラテパ遺跡のストゥーパ基壇(2001年、筆者撮影)

 

加藤さんは、「せっかく白羽の矢を立てられたのですから、このチャンスを生かさないわけにはいきません。資金のことは二の次でした」と述懐した。現地ではテルメズ2500年祭を控え、考古新発見への機運が高まっていた。

 

1998年3月末、加藤さんはついにカラテパで10数メートルを超える方形の巨大なストゥーパ(仏塔)を掘り当てた。「幸運でした。発掘開始から3日目に、ストゥーパの一部が確認できたのです」と懐かしんだ。4世紀前後に築造された主塔で、7世紀にこの地を通過した玄奘三蔵も仰ぎ見、立ち寄った可能性が高い一大発見だった。

 

カラテパ遺跡に立つ加藤さん(2001年、筆者撮影)

カラテパ遺跡に立つ加藤さん(2001年、筆者撮影)

 

「今度ばかりは学界に貢献できそうだ」。当時の新聞報道で、加藤さんは今後の発掘に期待を込めて語っている。資料の乏しい中央アジアの仏教遺跡解明に大きく寄与し、さらに周辺部の発掘調査の継続が望まれた。しかし退職後は援助してくれる企業や機関は見つからず、自費でやりくりするほかなかった。

 

そんな話を聞きつけた奈良の薬師寺が支援に乗り出した。玄奘と縁の深い薬師寺にとって、玄奘が旅した途上の遺跡であることが決め手となった。資金集めのための後援会をつくり、事務局を寺内に設置した。

 

1998年11月には、「テルメズ(中央アジア)仏跡発掘調査後援会」が発足した。会長は作家の井上靖さんの夫人ふみさんが、夫の靖さんと加藤さんの交流もあって引き受けられた。外国での仏教遺跡調査をこのような草の根の募金によって支援しようという事例は、極めて稀なことだ。

 

初年度には予想を上回る約1300万円もの寄付が集まった。会員も500人を上回っていた。経費は発掘の状況によって1回の調査に300~350万円かかる時もあれば、100万円に満たない時もある。発足後15年を経てなお会員数は約350人で、調査はその募金でまかなわれてきた。

 

加藤さんが一時期発掘していたテルメズにある仏教遺跡ファイヤステパ(1998年、筆者撮影) ファイヤステパの全景。アフガニスタンとの国境にあり一帯に軍事基地も。遠くに見えるのが仏塔(1998年、筆者撮影)

左)加藤さんが一時期発掘していたテルメズにある仏教遺跡ファイヤステパ
右)ファイヤステパの全景。アフガニスタンとの国境にあり一帯に軍事基地も。遠くに見えるのが仏塔
(1998年、筆者撮影)

 

2014年になって、立正大学法華経文化研究所が発掘に乗り出すことになり、ウズベキスタンと5年契約を結び、橋渡しの加藤さんは顧問に就き、薬師寺の基金も引き継がれた。加藤さんは今年も8月17日にウズベキスタンを訪れ、今月3日に立正大学の学術調査隊顧問として現地入りしたが、体調を崩し、7日から入院していたのだった。

 

発掘した文物の展覧会、本懐を遂げる

2001年春、東京は新宿駅近くのビアホールでのこと。加藤さんは無類の酒好きで知られているが、この日は神妙な顔付きだった。ビールで乾杯をするや、思い詰めた口調で切り出した。「まもなく80歳です。いつまで発掘ができるか分かりません。薬師寺の支援による調査は来年で5年目になります。これまでの成果を発表する展覧会ができないものだろうか。応援していただいている人にも報告したいんです」

 

展覧会開催のためには会場探しや展示品の調査、輸送方法や資金の確保など課題が多く、協力への即答はできなかった。とはいえシルクロードの仕事で加藤さんを知った私は、その生き方に感動し、これまでの発掘物を日本で公開する夢を共に紡ぎたいと思った。

 

私は2001年末にウズベキスタンを訪問し、加藤さんについてカラテパ発掘の同志ピダエフさんに聞いた。「調査は綿密で、無理はされません。発掘する者にとって大切な直感や観察眼も衰えていません。忍耐力があり、作業員への思いやりなど、学ぶことばかりです」と、敬意を表していた。お別れ時のウオツカの味は格別で、私はピダエフさんと東京での再会を約束した。

 

カラテパ遺跡の前で加藤さんと研究仲間のピダエフさん(2001年、筆者撮影)

カラテパ遺跡の前で加藤さんと研究仲間のピダエフさん(2001年、筆者撮影)

 

加藤さんの悲願ともいえた発掘成果の展覧会が、薬師寺と朝日新聞社の主催で実現にこぎつけた。「ウズベキスタン考古学新発見展」は2002年9月から12月にかけて、副題に「加藤九祚のシルクロード」と銘打って、東京・奈良・福岡の三都市を巡回した。

 

「ウズベキスタン考古学新発見展」の展示準備 (2002年、福岡市博物館で筆者撮影)

「ウズベキスタン考古学新発見展」の展示準備(2002年、福岡市博物館で筆者撮影)

 

5年間かけて発掘した文物を中心とする105点は、文字どおり本邦初公開だった。加藤さんは「こうした仏像は仏陀の生涯のある場面を表現する柱頭に飾られた彫刻群の破片と考えられます。自分が掘り出したもので、展覧会ができるなんて、めったにあることではありません」と手放しで喜んだ。私にとっても、加藤さんの願いをかなえられて、望外の喜びであった。

 

左) 「ウズベキスタン考古学新発見展」の展示品《柱頭》 中)「ウズベキスタン考古学新発見展」の展示品《天部像》 右)「ウズベキスタン考古学新発見展」の展示品《神像》

左)「ウズベキスタン考古学新発見展」の展示品《柱頭》 中)「ウズベキスタン考古学新発見展」の展示品《天部像》 右)「ウズベキスタン考古学新発見展」の展示品《神像》

来日したピダエフさん(右)と、加藤さん(2002年、福岡の懇親会場で筆者撮影)

来日したピダエフさん(右)と、加藤さん(2002年、福岡の懇親会場で筆者撮影)

ウズベキスタンの考古学者を交え開かれたシンポジウムで報告する加藤さん(右端、2010年、奈良大学で筆者撮影)

ウズベキスタンの考古学者を交え開かれたシンポジウムで報告する加藤さん(右端、2010年、奈良大学で筆者撮影)

 

生前の加藤さんと最後にお会いしたのは昨年11月末、天理大学だった。創立90周年の記念講演会のゲストに招かれた。天理大学図書館での特別展示「悲劇の天才言語学者ネフスキー」にちなんでの催しで、ネフスキーの思い出と自らの人生も振り返り話した。

 

オクサス学会で十八番の「あざみの歌」を披露する加藤さん (2014年、筆者撮影)

オクサス学会で十八番の「あざみの歌」を披露する加藤さん(2014年、筆者撮影)

 

加藤さんは、ネフスキーの生涯を調べようと思い立った動機について、『天の蛇 ニコライ・ネフスキーの生涯』の「はしがき」に、《個人の意志ではどうすることもできない有為転変、さらには20世紀前半の人類のかなりの部分が経験せざるをえなかった悲劇の一典型を見た》と、書き留めていた。

 

日本の戦争が終わっても理不尽な捕虜となり、シベリアに抑留された体験を持つ加藤さんは、戦時下の軍部の弾圧によって非業の死を遂げた親日学者ネフスキーに共感しつつ関心を抱き続けたのであろう。

 

天理での講演会で挨拶した加藤さんは、自身の体験もしみじみ語った。その中で、過酷な抑留生活の傍らロシア語を習得したことに触れ、パスカルの有名な言葉を引用した。「人間は考える葦である」だ。幼い頃、読んで感銘を受けた「人間は葦のように弱い存在だが、考える葦である。考える人になりたい」との信念を抱き続けた。

 

「悲劇の天才言語学者ネフスキー」特別展示の講演会で挨拶する加藤さん   (2015年11月、天理大学ふるさと会館で筆者撮影)

「悲劇の天才言語学者ネフスキー」特別展示の講演会で挨拶する加藤さん(2015年11月、天理大学ふるさと会館で筆者撮影)

 

私はこうした加藤さんの生き方について、『シルクロードの現代日本人列伝』(1914年、三五館)で取り上げた。その取材で2014年2月、吉祥寺の加藤さんの仕事場を訪れた。深夜、二人で一升瓶を飲み干しての別れ際、加藤さんに今後の調査のことをお聞きした。「先のことは分かりません。この年になると、今年も行けるかな。それだけですよ。来年も、次の年も、そう言えれば幸せですね」と淡々と語り、握手を求められた。老学者の熱い胸のうちが伝わってくる思いがした。

 

仕事部屋でくつろぐ加藤さん(2014年、東京・吉祥寺で筆者撮影)

仕事部屋でくつろぐ加藤さん(2014年、東京・吉祥寺で筆者撮影)

仕事部屋はどこも書籍と資料の山(2014年、東京・吉祥寺で筆者撮影)

仕事部屋はどこも書籍と資料の山(2014年、東京・吉祥寺で筆者撮影)

 

冒頭に紹介した短歌一首に込められた信条は、なおも中央アジアでの発掘にたずさわり、そこに自分の骨を埋めてもの心意気が感じられた。そうした生き方を貫いた加藤さんにとって、現地での死は、まさに本懐であったのではなかろうか。

 

カラテパ北丘に残る3~4世紀の僧院址全景(2005年頃、加藤九祚さん撮影)

カラテパ北丘に残る3~4世紀の僧院址全景(2005年頃、加藤九祚さん撮影)

 

チョルグルテパで発掘をする加藤さん(2008年、奥野浩司さん撮影)

チョルグルテパで発掘をする加藤さん(2008年、奥野浩司さん撮影)