「悲劇の天才言語学者ネフスキー」特別展示の講演会で挨拶する加藤九祚さん   (2015年11月、天理大学ふるさと会館で筆者撮影)

「悲劇の天才言語学者ネフスキー」
特別展示の講演会で挨拶する加藤九祚さん
(2015年11月、天理大学ふるさと会館で筆者撮影)

93歳にして、シルクロードの要衝の地、ウズベキスタンで遺跡の発掘調査を続ける考古学者の加藤九祚(きゅうぞう)さんが11月末、天理大学の創立90周年の記念講演会のゲストに招かれた。天理大学図書館での特別展示「悲劇の天才言語学者ネフスキー」にちなんでの催しで、朝日新聞社の第三回大佛(おさらぎ)次郎賞(1976年度)を受賞した『天の蛇 ニコライ・ネフスキーの生涯』を著しており、その思い出と自らの人生も振り返り話した。スパイ容疑で逮捕され処刑されたネフスキーについて紹介するともに、シベリアに抑留された体験を持つ加藤さんの数奇な生き方を書き留めておこう。

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ネフスキー、銃殺25年後にレーニン賞

ニコライ・A・ネフスキー(完本『天の蛇』より)

ニコライ・A・ネフスキー(完本『天の蛇』より)

ニコライ・A・ネフスキー(1892-1937)は、ロシア・ソ連の東洋言語学者・東洋学者・民俗学者。ペテルブルク大学東洋学部中国・日本学科卒業後の1915年に官費留学生として来日してから、今年がちょうど100年目に当たる。来日中の1917年にロシア革命が起こり帰国を断念。小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)や大阪外国語学校で教鞭を執る。

 

その間、柳田國男・折口信夫・中山太郎・石浜純太郎らと親交を重ね、神道をはじめ、東北地方のオシラ様やアイヌの民俗、また、宮古島に伝わる習俗や民話ならびに言語、さらには、台湾のツォウ族や中国北西部に存在した「西夏」の文字等、広範囲で多岐にわたる研究を行い、数々の業績を残す。

 

1925年に北海道出身の萬谷イソと結婚する。14年間に及ぶ日本滞在を終え1929年に帰国して、レニンングラード大学(旧ペテルブルク大学)の教授や、科学アカデミー通信会員となり、研究生活に没頭し、次々と優れた研究成果を発表する。

日本に残留していてソ連渡航を願っていたイソ、エレーナ母子(完本『天の蛇』より)

日本に残留していてソ連渡航を願っていたイソ、エレーナ母子
(完本『天の蛇』より)

 

ところが1937年、レニンングラード内務人民委員会(後のKGB)の係官にスパイ容疑で逮捕され、国家反逆罪という汚名をかぶせられ、無実ながら夫妻ともに粛清されたのだった。その後のスターリン批判によって1957年になって夫妻の名誉回復がなされ、1962年には生前の業績に対してレーニン賞が授与された。

 

ネフスキーが帰国直前にイソ夫人の実家に遺した、日本滞在中の多種多様な手紙や写真、自筆資料などが散逸せず、回りまわって1960年に天理大学図書館に収蔵された。図書館ではネフスキー生誕120周年に当たる2012年に、目録化し、今回初めて自筆のノート類やタイプ草稿、書簡、日記、手帳、またネフスキー自身が撮影した写真等を初めて一般に公開したのだった。

 

ネフスキーの生涯を追究し大佛次郎賞

ネフスキーの業績は、没後の1971年、日本民俗学関係の論文集『月と不死』(1971年、平凡社)を著され、柳田国男や折口信夫らも、その功績を讃えている。ネフスキーは『月と不死』における若水(わかみず)(若返る神聖な水)をかぶった不死の蛇のように、逮捕後20年、死後12年もたって名誉回復がなされ、ソ連国民としての最高の栄誉とされるレーニン賞を贈られたのだった。

 

加藤さんは、ネフスキーの生涯を調べようと思い立った動機について、『天の蛇 ニコライ・ネフスキーの生涯』の「はしがき」にこう書き留めている。

《個人の意志ではどうすることもできない有為転変、さらには20世紀前半の人類のかなりの部分が経験せざるをえなかった悲劇の一典型を見た》。

仕事部屋でくつろぐ加藤さん (2014年、東京・吉祥寺で筆者撮影)

仕事部屋でくつろぐ加藤さん
(2014年、東京・吉祥寺で筆者撮影)

日本の戦争が終わっても理不尽な捕虜となり、4年8ヵ月もシベリアに抑留された体験を持つ加藤さんは、戦時下の軍部の弾圧によって非業の死を遂げた親日学者ネフスキーに共感しつつ関心を抱き続けたのであろう。

 

加藤さんは1992年春、モスクワとペテルベルグの東洋学研究所で催されたネフスキー生100年の記念集会に招かれ、娘のエレーナさんが熱心に調べて書いたという「両親について」と題するタイプ原稿を受け取った。そこには夫妻の最後の状況がありありと描かれていて、これを加藤さんは翻訳し朝日新聞紙面で一部発表している。

 

2001年から年1回の発行で12号まで続いた『アイハヌム 加藤九祚一人雑誌』(東海大学出版会)にも、「『ニコライ・ネフスキーの生涯』をめぐって」と題して、獄中生活や、当時のソ連内務人民委員会が、ネフスキーを無残に殺害しておきながら、「どこかの収容所で死亡」と虚偽の公式発表をしていたことなどに言及している。

 

その後のエレーナさんからの便りでは、二人の娘とも日本文化の研究に強い関心を寄せているという。加藤さんは単に伝記を書くにとどまらず、その後についても追究する姿勢を貫いている。私はこうした加藤さんの限りない学究精神と人間主義に心動かされる。

 

キルギスタンのクラスナヤレーチカの発掘現場に設けられたキャンプでの加藤九祚さん (前列中央、左隣は筆者、1997年)

キルギスタンのクラスナヤレーチカの発掘現場に設けられたキャンプでの加藤九祚さん
(前列中央、左隣は筆者、1997年)

 

私が加藤さんと初めて会ったのは1997年のことだ。朝日新聞社の記念事業「シルクロード 三蔵法師の道」調査団の派遣を控え、中央アジアの情勢などについて相談に訪れた。現地での豊富な経験と人脈を持つ加藤さんから、受け入れ研究機関や遺跡などの有力な情報提供を受けた。その1ヵ月半後には、キルギスタンのクラスナヤレーチカにある仏教遺跡の発掘現場で再会した。昼間は40度を超える暑さの中、発掘した遺構や出土物を見せてもらった。加藤さんは自弁で発掘調査にあたっていた。

 

(左)加藤さんらが発掘したウズベキスタンのカラテパ遺跡のストゥーパ基壇 (右)カラテパ遺跡に立つ加藤さん (2001年、筆者撮影)

(左)加藤さんらが発掘したウズベキスタンのカラテパ遺跡のストゥーパ基壇
(右)カラテパ遺跡に立つ加藤さん
(2001年、筆者撮影)

 

帰国後も加藤さんと仕事を共にする機会が増えた。私が関わっていた(財)なら・シルクロード国際交流財団の主催する国際記念シンポジウムのパネリストになっていただいた。「シルクロードは、戦いではなく、人々の生活の中でつながっている」が持論だ。

 

カパ遺跡の前で加藤さんと研究仲間のピダエフさん (2001年、筆者撮影)

カパ遺跡の前で加藤さんと研究仲間のピダエフさん
(2001年、筆者撮影)

さらにウズベキスタン・テルメズの遺跡近くにある「加藤の家」に泊めていただき、シルクロード発掘ロマンをお聴きした。2002年には加藤さんの要請で、発掘成果の展覧会「ウズベキスタン考古学新発見展 加藤九祚のシルクロード」の開催を手伝った。東京・奈良・福岡の三都市を巡回した。5年間かけて発掘した成果だった。

 

 

無類の酒好きで会えばいつも居酒屋に向かった。酔うほどに、ライフワークとなった発掘ロマンを語った。そして興に乗れば「あざみの歌」を熱唱した。2004年秋、山梨のNPO法人・曼荼羅祈り写仏の会から招かれ、「わが熱き思いのシルクロード」のテーマで対談したこともあった。

93歳過ぎてもシルクロードで発掘

天理での講演会で挨拶した加藤さんは、自身の体験もしみじみ語った。その中で、過酷な抑留生活の傍らロシア語を習得したことに触れ、パスカルの有名な言葉を引用した。「人間は考える葦である」だ。幼い頃、読んで感銘を受けた「人間は葦のように弱い存在だが、考える葦である。考える人になりたい」との信念を抱き続けた。「酷寒の中で、いつ死んでも仕方がないが、自分の置かれている状況を知りたい」と、ロシア語を猛勉強したのだった。

 

 

(左)カラテパ北丘に残る3~4世紀の僧房群の入り口 (右)僧院址全景(2005年頃、加藤九祚さん撮影)

(左)カラテパ北丘に残る3~4世紀の僧房群の入り口(右)僧院址全景  (2005年頃、加藤九祚さん撮影)

 

今年9月に放映されたNHK番組の「こころの時代〜宗教・人生〜」シリーズの「私の戦後70年」でも取り上げられた。「こころの壁を超えて」に登場した加藤さんは、朝鮮半島で生まれ、10歳の時に日本で働く兄を頼って移住した。太平洋戦争では日本陸軍に志願、終戦後はシベリア抑留にされた。収容所で仲間の間に起こった、いのちの根源にまつわる衝撃的な事件に遭遇する。人間の本性とは何かを突きつけられる。国家や民族、こころの壁を超えようと挑む生きざまに迫っていた。

 

カラテパ北丘出土の仏陀塑像 カラテパ北丘出土での発掘品 (2005年頃、加藤九祚さん撮影)

(左)カラテパ北丘出土の仏陀塑像 (右)カラテパ北丘出土での発掘品
(2005年頃、加藤九祚さん撮影)

 

加藤さんは著書の『シベリア記』(1980年、潮出版社)に、3人の逃亡兵の顛末を取り上げている。タイガと呼ばれる昼でも真っ暗な樹林の中へ逃げることは、まさに「天然の牢獄」へ身を置くことだった。すぐに捕まって殺されたのだが、逃亡の翌朝には2人の兵士は同胞を殺し、その肉まで食べていた。その忌まわしい事件に遭遇したのであった。

 

チョルグルテパで発掘をする加藤さん(2008年、奥野浩司さん撮影)

チョルグルテパで発掘をする加藤さん(2008年、奥野浩司さん撮影)

 

ネフスキーと同様、加藤さんも現代史に翻弄されてきた。1922年生まれの加藤さんは、日本に帰還後の1953年、アルバイトをしながら上智大学文学部ドイツ文学科を卒業し平凡社に勤務する。上智大学の非常勤講師などを経て75年から86年まで国立民族学博物館教授として、シベリアの歴史と文化の研究に携わる。定年後さらに98年まで相愛大学と創価大学でシベリアや中央アジアの文化史の研究を重ねる。

ダルベルジンでの発掘作業 (2008年、奥野浩司さん撮影)

ダルベルジンでの発掘作業
(2008年、奥野浩司さん撮影)

 

創価大学では、加藤さんの提案によってシルクロードの学術研究調査に乗り出すことに。ソ連の支配下にあったウズベキスタンに調査すべき仏教遺跡が残っていた。89年にウズベク共和国ハムザ記念芸術学研究所との間に協定を結び、遺跡調査を開始した。北方ユーラシア民族学が専門の加藤さんは、図らずも日本側の調査団長として中央アジアで遺跡の発掘に関わることになった。

 

1998年にウズベキスタン科学アカデミー考古学研究所と共同で、南部のテルメズ郊外カラテパでクシャン時代の仏教遺跡の発掘に着手し、現在も継続している。2002年には、ウズベキスタン共和国政府から中央アジアの文化を日本に紹介し、交流に尽くしたことから「ドストリク」(友好)勲章を、テルメズ市から「名誉市民」章を受けている。

 

(左)2002年に受章した「ドストリク」(友好)勲章を胸に正装の加藤さん (右)祝宴に招待され歓談する加藤さん(左から2人目) (2008年、奥野浩司さん撮影)

(左)2002年に受章した「ドストリク」(友好)勲章を胸に正装の加藤さん
 (右)祝宴に招待され歓談する加藤さん(左から2人目) (2008年、奥野浩司さん撮影)

オクサス学会で十八番の「あざみの歌」を披露する加藤さん(2014年、筆者撮影)

オクサス学会で十八番の「あざみの歌」を披露する加藤さん(2014年、筆者撮影)

 

加藤さんは65歳を過ぎてからの発掘への取り組みだ。「人生に、もう遅いはありません。老いは免れませんが、好奇心は抑えられなかったのです。地下の文化遺産は、より明確に民族や文化の交流を物語っていて興味が尽きません」と語る。昨年訪ねた吉祥寺の加藤さんの仕事場でも、「先のことは分かりません。この年になると、今年も行けるかな。それだけですよ。来年も、次の年も、そう言えれば幸せですね」と淡々と話された。

 

 

一人雑誌『アイハヌム2001』の「中央アジア雑感」には、万感の思いで短歌一首が詠まれている。添え書きとして《残る生涯をユーラシアを行き来した人々の歴史の解明に捧げたい》とある。なおも中央アジアでの発掘にたずさわり、そこに自分の骨を埋めてもの心意気だ。その一首に、今も変わらぬ心情が溢れている。

 

半世紀経て なほシベリア想いつつ 熱砂の下に仏跡掘る日々