No.04 日本人による文化財持ち出し 修復保存へ協力会結成

あけましておめでとうございます。貴方様にとりまして今年も輝かしい年となりますよう、世界の人々が安寧に暮せますよう念じています。

 

無残な姿の第47窟(撮影:筆者)

無残な姿の第47窟(撮影:筆者)

1986年5月、キジル千仏洞初参観。「人類共通の文化遺産」と直感し、修復へ個人寄付をしたところまで、話しました。今回はその続きです。しばらくして再び新疆を訪問すると、外国人も重視するほどであればと、中国政府がキジル千仏洞へ巨費を投じて本格的修復を行うことになったと。従来も細々と保存活動は行われていましたが、先回紹介した写真(50度ほどの梯子)でお分かりのように学術調査をするのさえ危険な状態でした。そのまま放置すれば崩壊は加速度的に進み、世界的文化遺産はやがて消えてしまいます。これをくい止め、一般の人も参観できるようにしようと、修復保存工事が検討されている中での外国人からの寄付は本格的修復のきっかけとなったようです。

 

私は「それなら10万元では足りないから、日本で浄財を募り1億円を寄付しましょう」と申し出ました。当時の中国の物価などを考えると、現在の1億人民元(約20億円)にも匹敵する巨費です。新疆文化庁の庁長はじめ皆がまた驚きました。「エーツ!」と声をあげたほど。私はキジルをはじめとする西域の文化遺産の荒廃には、日本の大谷探検隊も関わったことに思いを馳せていました。

 

中国の著名学者である宿白北京大学教授は「外国人がキジル石窟において行った“調査”の名目による掠奪については・・・1903年、日本の第一次大谷探検隊の渡辺哲信と堀賢雄がまずキジルに至り、4月15日から22日の7日間にわたり盗掘を行った。

 

痛々しい壁画に合掌する筆者(撮影:楊新才氏)

痛々しい壁画に合掌する筆者(撮影:楊新才氏)

発表された資料から見て、その作業はかなり粗略で、壁画を切り取るという劣悪な行為の先例ともなった」などと記しています(『中国石窟キジル石窟』第一巻・平凡社1983)。持ち去られた中国側からすれば上記のような表現は当然ですが、帝国主義時代としては普通のことでした。日本では「将来」とか「招来」などと表現されています。大谷隊が西域から持ち帰った文化財は東京国立博物館や龍谷大学などに収蔵されています。

 

シルクロードの文化財に限らず、文化財に興味を持ち、所有したいと欲望にかられる人がいます。そして盗掘とか購入といった方法で入手する人が現在もいます。著名人が大金を出してコレクションしているとも聞きます。求める人がいるから盗掘が行われます。盗掘品が闇市場に出るから買う人がいる。難しい連鎖ですね。ミイラは一体100万ドルと香港で聞いたのは20年も前のことです。

 

キジル千仏洞の荒廃の主な原因は「◇長年の自然崩壊。◇往時の現地人による金箔剥がし。◇異教徒による破壊。◇日本・ドイツ・ロシア・フランスなどの探検隊による持ち出し」(順不同)です。

 

キジル千仏洞はシルクロードに咲いた仏教芸術の名花であり、仏教学・考古学・民族学・東西文化交流史・美術史・言語学・保存科学など多方面からの本格的研究が待たれる貴重な文化遺産です。

 

当時、この雄大な石窟群で、番号がつけられ保存されているのは236窟(現在では330余が確認されています)、その内、窟として残存が比較的良好なのが104窟、壁画がよく残っているのが74窟あり、研究者に開放されているのは20窟、一般開放は6窟でした。開放窟が少ないのは行くことさえ困難なところにあったり、危険であったりするためです。ほかの中国四大石窟はすでに基本的修復が終わっていました。キジル千仏洞はその規模、質からいって中国だけでなく世界的文化遺産であり、次世代に引き渡す責任があると考え、寄付を申し出たのです。

 

調印式。後列左から4人目が王氏(撮影:新疆政府)

調印式。後列左から4人目が王氏(撮影:新疆政府)

承認を得るまでには、この時もまた時間を要しました。1987年5月20日、新疆迎賓館での調印式には、王恩茂副主席も出席。王副主席は、募金パンフレット用中国語挨拶文案を一字一句読み、遺産の前に「文化」の二文字を挿入されました。その実直な姿にうたれました。氏はその後、私の良き理解者として、なにかと支持していただいた。協議書は私と王成文新疆文化庁書記(副庁長)がサインしました。

 

1987年11月、私は塩川正十郎文部大臣の示唆を受けつつ「日中友好キジル千仏洞修復保存協力会」を設立し、事務局は株式会社ツルカメコーポレーション(現As-meエステール)に置かせていただいた。名誉顧問に元総務長官・沖縄開発庁長官の中山太郎衆議院議員、会長に上村晃史上村工業社長、副会長には水谷幸正佛大学長はじめ宗教界・経済界・学界のお歴々に就任をお願いし、私が専務理事を担当しました。

 


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