No.14 国際貢献のきっかけは?

とある会合で「ナンデ国際貢献ナンテやっているの?」と問われました。確かにそうですよね。周りを見回してみてもソンナ人は少ないですね。好奇な目で見られるのも当然でしょう。皮肉交じりに「結構な道楽ですね」と言われたことも。今回はそんな疑問にお答えします。

 

私は1966年、宝石店を起業しました。金もない24歳の若者、今日にもつぶれるといった日々、必死に走り回り外販で日銭を稼ぎました。父親や友人から借金したり時には質屋へも。社是「商業を通じて社会に奉仕しよう」を社員皆さんと実践し、お客様の温かいご愛顧と取引先のおかげで順次軌道にのりました。

 

日本が中国と国交を回復した1972年、広州交易会に参加し、ヒスイなどを買い付けました。その後も買い付けに北京・天津・上海などへ。新疆ウイグル自治区に良質の宝石があると、誘われ訪れたのが1982年のこと。良質なものはなく買い付けは不首尾におわりましたが、ご縁でウルムチ仏教協会へ喜捨。中国工芸品進出口総公司新疆分公司がトルファンの交河故城などへ案内してくれました。帰り道、大雨で道路が通行止めになり、分公司職員の2時間に及ぶ必死の交渉で貨物列車に乗せてもらいウルムチへ戻ることが出来ました。その時代に軍事施設でもある貨物列車に辺境の地で外国人が乗ることは至難なことでした。貨車には兵士が乗っていました。こうして、私の新疆との縁が始まりました。

 

2014年世界文化遺産登録直後の交河故城(撮影:筆者)

2014年世界文化遺産登録直後の交河故城(撮影:筆者)

 

その後も、買い付けに新疆を訪問。ある時、工芸品公司がキジル千仏洞へ案内してくれました。1986年のことです。キジル千仏洞は3~8世紀に栄え、敦煌・龍門・雲崗とならぶ中国四大石窟のひとつですが、荒廃していました。長年の自然劣化・往時の金箔はがし・異教徒による破壊・外国探検隊による持ち出しなどが荒廃の原因です。新疆文化庁系列の現地管理所が細々と保護をしていました。

 

私は「人類共通の文化遺産だ。保存しなくては!」と直感し、個人寄付。翌年には新疆文化庁と修復保存資金協力協議書に調印。日本の大谷探検隊が壁画などを持ち帰ったことも頭にありました。多くの方々の協力を得て、1988年89年に諸氏の浄財1億円余を寄贈し、本格的修復保存工事を開始しました。また新疆大学奨学金やニヤ遺跡調査なども始め、約100項目の国際貢献をしてきました。

 

振り返ってみれば、きっかけは上記のように人々の温かい人情と豊富な文化遺産に触れたことです。ありがたいことです。なお、起業したジュエリー専門店チェーンは上場企業にまで育て上げることができ、創業30周年を機に退任しました。数代後の社長の時代に合併し、現在も日本有数のジュエリー専門店チェーンとして繁栄中です。ありがたいことです。

 

ただただ

念仏行脚日本縦断をしたことがあります。鹿児島佐多岬から北海道宗谷岬まで、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏…………と称えつづけて、約3,200㎞。何回かに分けてですが、80日ほどで成満しました。夏なのに寒い日で、海鳥が迎えてくれました。観光バスで来ていた僧侶は涙をながされ宿賃にと施しをいただき、日本最北端の民宿の暖かい布団で寝ることが出来ました。ほんわかほんわか。

 

ただただ念仏を称え、ただただ歩くだけです。犬に追いかけられ烏に襲われ、論争を挑まれ、酷暑で倒れ強風で前にも進めず、排気ガスで頭が痛くなり大雨で体が凍え、宿も断られ食事もままならず……。冷たい人情…温かい人情…。ほんわかほんわか。

 

小僧落書き、背景はジュゼッペ・カポグロッシ※の作品(撮影:筆者)

小僧落書き、背景はジュゼッペ・カポグロッシ※の作品(撮影:筆者)

 

交通事故の受難者慰霊のお地蔵さんやドライフラワーと化した供花に小僧なりのお念仏を捧げる行脚。行く雲や流れる水を友としての一人旅。お恵みいただいたおにぎりを頬張りごろっと寝れば、極楽極楽。

 

念仏行脚日本縦断ができたのは、ただただ念仏を称え、ただただ歩いたから。考えすぎずにただただ生きる小僧です。ほんわかほんわか。

 

※Giuseppe Capogrossi(1900-1972):イタリア・ローマ出身。法律を学んだのち画家に転向。象形文字を画面に散らしたようなスタイルを創造。日本の書を思わせる作品も。パリやローマで活躍した。