No.07 ナゼ日本人が新疆で国際貢献を? 

2週間ほど前の講演会は愛知大学の教室310人定員がほぼ満席、ありがたいことです。髙橋五郎愛知大学国際中国学研究センター所長・鄧偉中国駐名古屋総領事・楊新才元新疆日報記者から過分な挨拶をいただきました。「中国新疆との国際協力35年」と題して、日中双方の多くの方々と力だしあって実践してきた世界的文化遺産保護研究・人材育成・相互理解促進の3分野での諸活動をPPTで紹介しました。映像は具体的な訴求力があり大好評でした。

 

愛知大学・愛知華僑華人総会・日中文化協会主催で「日中国交正常化45周年記念講演会」と冠がつき、中国駐名古屋総領事館などの後援、30近い中国関係団体の共催でした。改めて中国人の結束力を感じました。参加者は日本人7割中国人3割とか。相互理解促進にとっても良い機会になったと思います。親友の涂善祥さんには中国琵琶「白帝城追想」演奏、女性陣には合唱していただきました。皆々様ありがとうございました。

 

拍手と笑いが連続するありがたい1時間余(撮影:小島聡子)

拍手と笑いが連続するありがたい1時間余(撮影:小島聡子)

 

講演会につづく交流会でいただいた質問のひとつに「中国人もあまり行かない新疆で、日本人がなぜ貢献?」がありました。確かにそうですよね。そこにヤルベキことがあるからヤッテいるだけです。日本人だからという意識はありません。中国人をふくむ外国人が日本でいろんな貢献をし、日本人諸氏が世界各地で各種貢献をされているのと同じことです。

 

私は「日の丸」を背負ってやっているわけではありませんが、日本人としての誇りを忘れたことはありません。

 

日本となにかと対立する中国、しかも各種の報道が度々される新疆での活動、そのために「ナゼ日本人が?」と問われることになりますが、私にとってはごく普通のことです。「大愛無疆=大きな愛に境界はない=Random Acts of Kindness」、それだけです。先様に喜んで頂き自分も喜ぶ、こんな嬉しいことはありません。ありがたいことです。

 

いただいた名刺がナント30余枚、記念写真は数知れず。一庶民に過ぎないのに、恥ずかしいことです。これからもヨチヨチ続けます。「身命財」といわれます。協力したい貢献したいという志はまったく衰えていませんが、75歳の肉体はあきらかに衰え、つぎ込んできた資金も尽きつつありあれこれ売却してしのいでいます。よって「ヨチヨチ」とです。ご指導ご支援お願いします。

 

あれから6年-微力応援つづけます

 東日本大震災から6年が経ちました。早いものです。6年前のその日、私は京都にいました。ニヤ調査の日本側副隊長を永年務めていただいた真田康道先生を亀岡のお寺で見舞っていました。病魔に襲われ佛教大学教授も退任されたほどでした。

 

同行した浅岡俊夫六甲山麓遺跡調査会代表が途中のJR二条駅で下車された直後、若者が携帯で「大津波? 大本営発表だろう!」と。若者が「大本営発表」を知っていることに驚きつつ何かあったと直感、新幹線へ急ぐとごった返していました。

 

休憩室は立錐の余地もない。テレビの映像に驚いた。大津波が内陸深くまで襲い、家や工場がなぎ倒され車や漁船が流されていた。電話には長蛇の列。携帯はかかりにくいようだ。新幹線は止まったまま。ようやく順番がきて妻に電話するもつながらない。何度並びなおしてかけてもつながらない。テレビは惨状を流しつづけている。もう今日は東京へ帰れないと判断、定宿へ入ると「最後の一部屋です」と言われた。5時すぎのことです。

 

テレビを見ながら涙。妻に電話度々、つながらない。10時すぎにようやく通じると「東京は震度5強だけど、36階は大揺れ、棚など倒れてガタガタ、怖い、今も余震!」と震えた声。新幹線復旧しだい帰るからと励ますしかありませんでした。

 

テレビが映し出す被災地の惨状・甚大な被害、そして東京一円の交通網ストップによる帰宅困難者たちの様子などを、ただ観るばかり。ただ念仏するだけ。終戦につぐ国難!老残微力を出そうと決意しました。

 

翌朝、新幹線に飛び乗った。2000戸もはいるコンドミニアムへ帰ると、壁面の一部が剥がれ落ちるなどの被害が。エレベーターは一部しか復旧しておらず、階段を36階まで駆けあがった。妻が抱きついてきた。それほど怖かったのだろう。横揺れは数メートルに感じたと。仏具や書類が散乱していました。

 

以来、拙著『ありがとう人生燃えつき店じまい』(東方出版2013)に大量の写真とともに詳しく記したようにあれこれ応援してきました。今月も気仙沼へ行ってきました。

 

6年を前に東京銀座に巨大な広告が出現。岩手県大船渡市を襲った津波16.7m(気象庁発表)の高さが赤ラインで示されていました。

 

数寄屋橋角SONYビルのヤフー巨大広告(2017.03.07撮影:筆者)

数寄屋橋角SONYビルのヤフー巨大広告(2017.03.07撮影:筆者)   画像をクリックで拡大表示

 

ビルの4階5階の高さ、多くの方が見上げ写真を撮っていた。あの大震災を体験した日本人は「凄かったのだ!」と改めて驚き、観光で道ゆく外国人には「本当?」と疑いたくなるほどの高さ。

死者15,893人・行方不明2,553人。伊勢湾台風(1959年・死者行方不明5,098人)や阪神淡路大震災(1995年・死者行方不明6,437人)をはるかに上回る規模。東電福島第一原発でも爆発。今も13万余の方々が避難生活。被災された皆様の苦しみは想像を絶します。

 

微力応援先のひとつ、気仙沼の復興ぶりを写真で紹介します。鹿折唐桑地区一帯です。

 

2011年3月11日大津波襲来。「すがとよ酒店」コンテナ掲示写真2点(撮影:筆者)

 

 

同方向からの復興の様子3点(撮影:筆者)

地盤沈下で度々浸水(2012.09.22)

地盤沈下で度々浸水(2012.09.22)

地盤かさ上げが順次され、建設も始まる(2013.04.14)

地盤かさ上げが順次され、建設も始まる(2013.04.14)

地盤かさ上げがほぼ完了し、建設も着々と(2017.03.10)

地盤かさ上げがほぼ完了し、建設も着々と(2017.03.10)

おまけの一点:ニホンカモシカ(撮影:筆者)

おまけの一点:ニホンカモシカ(撮影:筆者)

 

撮影していて、振り返ると数メートル先になんとニホンカモシカ!これには驚きました。山奥ならいざ知らず!人に慣れているのか悠然と。すがとよ酒店の女将「街中でも時々見かける」と。カモシカ君もボランティアに来たのでしょう。

 

節電と自粛で消灯されていたJR品川駅の自由通路の照明も6年を前に復活(撮影:筆者)

節電と自粛で消灯されていたJR品川駅の自由通路の照明も6年を前に復活(撮影:筆者)

 

被災された方々の奮闘、全国の個人や企業などからの各種応援、世界各国からの義捐金、大量の税金・・・により復興しつつありますが、まだまだですね。ボランティアと応援観光客で賑わっていた気仙沼も6年が経ち、メッキリ静かになりました。

 

仮設商店街「南町紫市場」は5月には新築ビルへ移転。しかし現店舗の半分程度しか入居しないとか。あさひ鮨のように独立店舗として再開するところや廃業せざるをえない店など様々のようです。

 

被災された方々の苦闘はまだまだ続きます。一方で人々の記憶から少しずつ薄れつつあります。これからも力まずほんわかほんわか微力を尽くします。