多様なアートの世界にあって、絵画の魅力をたっぷり堪能できる展覧会が神戸と東京で催されている。何度見ても見飽きないゴッホの初期作から晩年の代表作を集めた「ゴッホ展」が兵庫県立美術館で3月29日まで、2度目ながらほぼ無名のハマスホイの珠玉の作品が再び見られる「ハマスホイとデンマーク絵画」が、東京都美術館で3月26日まで開催中だ。大胆な色彩と渦巻くような激しい筆遣いのゴッホに対し、静まりかえった室内を黙々と描いたハマスホイは同時代に生きた画家でもある。対照的な二人と共に、それぞれに関連した作品を合わせて、画像とともに取り上げる。

兵庫県立美術館の「ゴッホ展」
「天才画家」に導いた2つの出会いに焦点

ゴッホの名画にまた出会えた。2017年に京都国立近代美術館で「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」を、2013年には京都市美術館で「ゴッホ展 空白のパリを追う」を、さらに2011年にも名古屋市美術館で没後120年記念展「こうして私はゴッホになった」を鑑賞している。約3年に一度の企画展のほか、各国の美術館展所蔵の名品品展でも出品されていて、かなりの頻度で見ている。今回は世界10ヵ国27ヵ所から集められたゴッホの絵画やドローイング約50点と、ハーグ派と印象派の作家たちの作品約30点の作品が展示されている。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた。一時は聖職者を志したが挫折し、画家を目指すことを決意する。その後オランダやベルギーなどに移り、4歳下の弟で画商のテオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画作を続けた。

 

1886年、テオを頼ってパリへ、88年2月から南仏のアルルへ移住し、黄色い家をアトリエに、名作を次々に生み出した。芸術家たちの共同体を作ろうとポール・ゴーギャンを迎えての共同生活を試みたものの、次第に行き詰まり、自身による「耳切り事件」を契機に2ヵ月で破綻した。

 

90年5月、療養所を退所してパリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズに移り、画作を続けたが、7月に銃で自らを撃ち、2日後に死亡した。37年という短い生涯のうち、画家として活躍したのはわずか10年ほどだった。このため代表作のほとんどが晩年のわずか数年間で描かれたものだ。

 

「ゴッホは、いかにしてゴッホになったのか」。短くも濃密なゴッホの画業は、ハーグ派と印象派の二つの出会いによる。今回の企画展は、その趣旨に則り、第1部「ハーグ派に導かれて」、第2部「印象派に学ぶ」の構成により、どのようにして独自の画風が生まれたのかをたどっている。

 

第1部では、まず「独学からの一歩」として、鉛筆やペン、黒チョークで描かれたゴッホの初期作品が並ぶ。《籠を持つ種まく農婦》(1881年、個人蔵)もその1点。暗い色彩で農村風景や静物などを描いていたゴッホは、目にした風景や事物をデッサンし、それを元に抒情的な光景を描いたハーグ派の作品に惹かれて、画家としての礎を築く。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ《籠を持つ種まく農婦》(1881年、個人蔵)

フィンセント・ファン・ゴッホ《籠を持つ種まく農婦》(1881年、個人蔵)

 

次に「ハーグ派の画家たち」。ハーグ派とは、ゴッホが画家になろうとしていた頃、オランダ南西方の都市・ハーグを拠点に活動していた画家のグループのことだ。その中心的な画家であったアントン・マウフェが縁戚関係にあり、直接の指導を仰ぎ、他の画家たちとも交流する。ここではマウフェの《4頭の曳き馬》(制作年不詳)や、マテイス・マリスの《出会い(仔ヤギ)》(1865-66年頃、いずれもハーグ美術館蔵)などが展示されている。

 

 アントン・マウフェ《4頭の曳き馬》(制作年不詳、ハーグ美術館蔵)© Kunstmuseum Den Haag

アントン・マウフェ《4頭の曳き馬》(制作年不詳、ハーグ美術館蔵)© Kunstmuseum Den Haag

マテイス・マリス《出会い(仔ヤギ)》(1865-66年頃、ハーグ美術館蔵)© Kunstmuseum Den Haag

マテイス・マリス《出会い(仔ヤギ)》(1865-66年頃、ハーグ美術館蔵)© Kunstmuseum Den Haag

 

「農民画家としての夢」に移り、ゴッホは初めての油彩画《ジャガイモを食べる人々》に取り組むべく、習作を描き準備を整える。ランプの下での貧しい食事風景には、働く農民を描く画家でありたいとの意思が伝わる。会場にはリトグラフの《ジャガイモを食べる人々》(1885年、ハーグ美術館蔵)や、《農婦の頭部》(1885年、スコットランド・ナショナル・ギャラリー蔵)が出品されている。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ《ジャガイモを食べる人々》(1885年、ハーグ美術館蔵)© Kunstmuseum Den Haag

フィンセント・ファン・ゴッホ《ジャガイモを食べる人々》(1885年、ハーグ美術館蔵)© Kunstmuseum Den Haag

フィンセント・ファン・ゴッホ《農婦の頭部》(1885年、スコットランド・ナショナル・ギャラリー)© National Galleries of Scotland, photography by A Reeve

フィンセント・ファン・ゴッホ《農婦の頭部》(1885年、スコットランド・ナショナル・ギャラリー)© National Galleries of Scotland, photography by A Reeve

 

第2部では、弟テオを頼ってパリに出たゴッホは、初めて目にする印象派の作品に大きく衝撃を受ける。そこで原色を用いた明るい画面作りと筆触を残した描き方を取り入れたことで、作風を劇的に変化させる。その後南仏、パリの北方へと移動する中でゴッホは自然を観察し、独自の色彩と筆遣いを追究し続ける。

 

 

フィンセント・ファン・ゴッホ《花瓶の花》(1886年、ハーグ美術館蔵)   © Kunstmuseum Den Haag

フィンセント・ファン・ゴッホ《花瓶の花》(1886年、ハーグ美術館蔵)   © Kunstmuseum Den Haag

 

「パリでの出会い」には、《花瓶の花》(1886年、ハーグ美術館蔵)や、パリで目にした家並み、風車などの風景画を手がける。続く「印象派の画家たち」には、クロード・モネの《クールブヴォワのセーヌ河岸》(1878年、モナコ王宮コレクション)や、カミーユ・ピサロの《ライ麦畑、グラット= コックの丘、ポントワーズ》(1877年、静岡県立美術館蔵)と, 《エラニーの牛を追う娘》(1884年、埼玉県立近代美術館蔵)なども出品されている。

 

クロード・モネ《クールブヴォワのセーヌ河岸》(1878年、モナコ王宮コレクション)© Reprod. G. Moufflet/Archives du Palais de Monaco

クロード・モネ《クールブヴォワのセーヌ河岸》(1878年、モナコ王宮コレクション)© Reprod. G. Moufflet/Archives du Palais de Monaco

左)カミーユ・ピサロ《ライ麦畑、グラット= コックの丘、ポントワーズ》(1887年、静岡県立美術館蔵) 右)カミーユ・ピサロ《エラニーの牛を追う娘》(1884年、埼玉県立近代美術館蔵)

左)カミーユ・ピサロ《ライ麦畑、グラット= コックの丘、ポントワーズ》(1887年、静岡県立美術館蔵)
右)カミーユ・ピサロ《エラニーの牛を追う娘》(1884年、埼玉県立近代美術館蔵)

 

3番目の「アルルでの開花」になると、南仏の光溢れる景色の中で、ゴッホは独自の技法を打ち立てていく。原色を使い、絵の具を厚く塗り重ね、風景や人々を描きとめた。《モンマルトルの家庭菜園》(1887年、アムステルダム市立美術館蔵)や、《麦畑》 1888年、P. & N. デ・ブール財団)などが目に止まる。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ《モンマルトルの家庭菜園》(1887年、アムステム市立美術館蔵)© Stedelijk Museum, Amsterdam

フィンセント・ファン・ゴッホ《モンマルトルの家庭菜園》(1887年、アムステム市立美術館蔵)© Stedelijk Museum, Amsterdam

フィンセント・ファン・ゴッホ《麦畑》( 1888年、P. & N. デ・ブール財団)© P. & N. de Boer Foundatio

フィンセント・ファン・ゴッホ《麦畑》( 1888年、P. & N. デ・ブール財団)© P. & N. de Boer Foundatio

 

締めくくりは「さらなる探究」。ゴッホは精神病の発作によってサン=レミの精神療養院に入っても、パリ北部に位置するオーヴェール=シュル=オワーズに移っても、最後まで自分自身の芸術を追い求めた。展覧会目玉の《糸杉》(1889年、メトロポリタン美術館蔵)は、この時期の作品。ゴッホは糸杉の荘厳さが気に入ったようで何点か連作している。《糸杉》と近い時期に描かれた《夕暮れの松の木》(1889年、クレラー=ミュラー美術館蔵)と、最晩年の傑作《薔薇》1890年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)にも注目だ。

 

左)フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉》(1889年、メトロポリタン美術館蔵)   Image copyright 3 © The Metropolitan Museum of Art. Image source: Art Resource, NY 右)フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉》の展示会場でのプレス内覧会

左)フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉》(1889年、メトロポリタン美術館蔵)   Image copyright 3 © The Metropolitan Museum of Art. Image source: Art Resource, NY
右)フィンセント・ファン・ゴッホ《糸杉》の展示会場でのプレス内覧会

フィンセント・ファン・ゴッホ《夕暮れの松の木》(1889年、クレラー=ミュラー美術館蔵)© Collection Kröller-Müller Museum.

フィンセント・ファン・ゴッホ《夕暮れの松の木》(1889年、クレラー=ミュラー美術館蔵)© Collection Kröller-Müller Museum.

フィンセント・ファン・ゴッホ《薔薇》1890年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)   © National Gallery of Art, Washington D. C., Gift of Pamela Harriman in memory of W. Averell Harriman

フィンセント・ファン・ゴッホ《薔薇》1890年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
© National Gallery of Art, Washington D. C., Gift of Pamela Harriman in memory of W. Averell Harriman

 

今でこそ、ゴッホは世界中で知られ、愛される「天才画家」と評価されるが、途方もない努力を積み重ねていたことを検証できる企画展でもある。生前は作品が売れず、弟のテオの援助で活動を続けた、無名の画家であった。それが後世、《ひまわり》(1888年、東郷青児記念 損保ジャパン日本興亜美術館蔵)1点に約58億円もの値がつけられた。画家の生涯や作品に物語がある。それが美術の奥深い魅力であろう。

 

「ゴッホ」展の公式サイト https://go-go-gogh.jp

東京都美術館の「ハマスホイとデンマーク絵画」
「幸福の国」から「静かなる衝撃、再び―」

「ハマスホイとデンマーク絵画展」の会場風景

「ハマスホイとデンマーク絵画展」の会場風景

ゴッホと異なり、ハマスホイは生前デンマークを代表する画家として、国外でも名声を得ていたが、死後は急速に忘れられていった。再評価がされるようになったのは20世紀末になってからだ。日本では2008年に国立西洋美術館で「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」が開かれて以来だ。今回は日本で初めてとなる本格的な黄金期の19世紀デンマーク絵画とともに、ハマスホイの名画の再来日に加え日本初公開を含む約40点を、19世紀デンマーク美術の流れのなかで捉えることで、画家の特異な才能の新たな一面に光を当てる。東京展の後、山口県立美術館(4月7日~6月7日)へ巡回する。

 

ヴィルヘルム・ハマスホイ(1864-1916)は、コペンハーゲンの裕福な家庭に生まれる。8歳になった1872年から個人レッスンでデッサンを学び始め、79年からはコペンハーゲンのデンマーク王立美術アカデミーで学ぶ。88年にはコペンハーゲンの歯科医で美術コレクターでもあったアルフレズ・ブラムスンが初めてハマスホイ作品を購入して以後、コレクター・後援者として、生涯にわたり画家を支援した。

 

ハマスホイは91年、アカデミーで知り合った画家ピーダ・イルステズの妹のイーダと結婚。彼女の姿は多くの室内画に登場する。二人は98年から1909年までコペンハーゲンのアパートで暮らし、妻のイーダの後姿を繰り返し描いた。08年にデンマーク王立美術アカデミーの総会会員に就任し、10年には評議員になる。翌年、ローマで開かれた国際美術展で第一等を獲得し、ヨーロッパ各国で個展が開かれるようになり、高い評価を得た。16年、コペンハーゲンで咽頭癌のため死去した。

 

ハマスホイの作品は17世紀オランダ絵画の強い影響を受け、フェルメールを思わせる静謐な室内表現を特徴としている。モノトーンを基調とした静寂な絵画空間が綿密に構成されているためであろう。まるで音のない世界に包まれているような感覚に浸れることもあって、最初の展覧会で多くの美術ファンを魅了した。今回の謳い文句に「静かなる衝撃、再び―」とあるのも頷ける。

 

筆者は2008年時見逃していたが、東京展のみ出品の《ピアノを弾く妻イーダのいる室内》(1910年、国立西洋美術館蔵)の1点は何度も見ていて印象深かった。今回の展覧会は、1章「日常礼賛―デンマーク絵画の黄金期」、2章「スケーイン派と北欧の光」、3章「19世紀末のデンマーク絵画―国際化と室内画の隆盛」、4章「ヴィルヘルム・ハマスホイ―首都の静寂の中で」で構成されている。

 

しかし何と言っても、ここは4章のハマスホイ作品から取り上げよう。ハマスホイを支えたのが母と妻で、母は肖像画のモデルとなり、作品の資料づくりなども手伝った。結婚後は専ら妻がモデルを引き受けていた。新婚の旅行先で描いたという《画家と妻の肖像、パリ》(1892年、デーヴィズ・コレクション蔵)が出品されている。

 

ヴィルヘルム・ハマスホイ《画家と妻の肖像、パリ》(1892年、デーヴィズ・コレクション蔵)The David Collection, Copenhagen

ヴィルヘルム・ハマスホイ《画家と妻の肖像、パリ》(1892年、デーヴィズ・コレクション蔵)The David Collection, Copenhagen

 

チラシ・図録の表紙を飾るのが《背を向けた若い女性のいる室内》(1903-04年、ラナス美術館蔵)だ。画家の特性がきわめて洗練された形で凝縮された代表作といえるだろう。先述の《ピアノを弾く妻イーダのいる室内》や、《室内》(1898年 スウェーデン国立美術館蔵)も同様の雰囲気が漂う。

 

ヴィルヘルム・ハマスホイ《背を向けた若い女性のいる室内》(1903-04年、ラナス美術館蔵)© Photo: Randers Kunstmuseum

ヴィルヘルム・ハマスホイ《背を向けた若い女性のいる室内》(1903-04年、ラナス美術館蔵)© Photo: Randers Kunstmuseum

左)ヴィルヘルム・ハマスホイ《ピアノを弾く妻イーダのいる室内》(1910年、国立西洋美術館蔵) 右)ヴィルヘルム・ハマスホイ《室内》(1898年、スウェーデン国立美術館蔵)Nationalmuseum, Stockholm / Photo: Nationalmuseum

左)ヴィルヘルム・ハマスホイ《ピアノを弾く妻イーダのいる室内》(1910年、国立西洋美術館蔵、東京展のみ出品)
右)ヴィルヘルム・ハマスホイ《室内》(1898年、スウェーデン国立美術館蔵)Nationalmuseum, Stockholm / Photo: Nationalmuseum

 

さらに人物の描かれていない《室内―開いた扉、ストランゲーゼ30番地》(1905年、デーヴィズ・コレクション蔵)や、《カード・テーブルと鉢植えのある室内、ブレズゲーゼ25番地》(1910-11年、マルムー美術館蔵)、《寝室》(1896年、ユーテボリ美術館蔵)などが並び、「室内の画家」の面目躍如だ。

 

ヴィルヘルム・ハマスホイ《室内―開いた扉、ストランゲーゼ30番地》(1905年、デーヴィズ・コレクション蔵)The David Collection, Copenhagen

ヴィルヘルム・ハマスホイ《室内―開いた扉、ストランゲーゼ30番地》(1905年、デーヴィズ・コレクション蔵)The David Collection, Copenhagen

左)ヴィルヘルム・ハマスホイ《カード・テーブルと鉢植えのある室内、ブレズゲーゼ25番地》(1910-11年、マルムー美術館蔵)Malmö Art Museum, Sweden 右)ヴィルヘルム・ハマスホイ《寝室》(1896年、ユーテボリ美術館蔵)Gothenburg Museum of Art, Sweden Photo: Hossein Sehatlou

左)ヴィルヘルム・ハマスホイ《カード・テーブルと鉢植えのある室内、ブレズゲーゼ25番地》(1910-11年、マルムー美術館蔵)Malmö Art Museum, Sweden
右)ヴィルヘルム・ハマスホイ《寝室》(1896年、ユーテボリ美術館蔵)Gothenburg Museum of Art, Sweden Photo: Hossein Sehatlou

 

風景画として、木立の隙間から射す穏やかな光が際立つ《若いブナの森、フレズレクスヴェアク》(1904年)や、《農場の家屋、レスネス》(1900年、いずれもデーヴィズ・コレクション蔵)もある。

 

ヴィルヘルム・ハマスホイ《若いブナの森、フレズレクスヴェアク》(1904年、デーヴィズ・コレクション蔵)The David Collection, Copenhagen

ヴィルヘルム・ハマスホイ《若いブナの森、フレズレクスヴェアク》(1904年、デーヴィズ・コレクション蔵)The David Collection, Copenhagen

《農場の家屋、レスネス》(1900年、デーヴィズ・コレクション蔵) The David Collection, Copenhagen

《農場の家屋、レスネス》(1900年、デーヴィズ・コレクション蔵)The David Collection, Copenhagen

 

1章に戻り、19世紀前半のデンマーク絵画は、黄金期と呼ばれ、多くの芸術家が現れて多彩な創作活動を展開した。絵画の注文主は多くは、以前のように王侯貴族ではなく、この時代に台頭した市民階級だった。ささやかな日常を礼賛した作品が生まれ、クレステン・クプゲの《パン屋の傍の中庭、カステレズ》(1832年、ニュー・カールスベア彫刻美術館蔵)も、そうした1点だ。

 

クレステン・クプゲ《パン屋の傍の中庭、カステレズ》(1832年、ニューカールスベア彫刻美術館蔵)Ny Carlsberg Glyptotek, Copenhagen / © Photo: Ole Haupt

クレステン・クプゲ《パン屋の傍の中庭、カステレズ》(1832年、ニュー・カールスベア彫刻美術館蔵)Ny Carlsberg Glyptotek, Copenhagen / © Photo: Ole Haupt

 

2章では、1840年代以降、「未開の地」ユラン(ユトランド)半島へ足を延ばす画家が現れ、この小さな漁師町に集う芸術家たちはスケーイン派と呼ばれる。ここではピーザ・スィヴェリーン・クロイアの《スケーイン南海岸の夏の夕べ、アナ・アンガとマリーイ・クロイア》(1893年、ヒアシュプロング・コレクション蔵)などが展示されている。

 

ピーザ・スィヴェリーン・クロイア《スケーイン南海岸の夏の夕べ―アナ・アンガとマリーイ・クロイア》(1893年、ヒアシュプロング・コレクション蔵)© The Hirschsprung Collection

ピーザ・スィヴェリーン・クロイア《スケーイン南海岸の夏の夕べ、アナ・アンガとマリーイ・クロイア》(1893年、ヒアシュプロング・コレクション蔵)© The Hirschsprung Collection

 

3章では、1891年に設立された「独立展」で、若手の画家たちに自由な作品発表の場を提供することによって、画壇を活況に導く。また93年にはゴッホとゴーガンの作品を展示するなど、外国の新しい芸術を紹介する場として、デンマーク美術の国際化に重要な役割を果たした。

 

ヴィゴ・ヨハンスンの《きよしこの夜》(1891年、ヒアシュプロング・コレクション蔵)や《春の草花を描く子供たち》(1894年、スケーイン美術館蔵)、ピーダ・イルステズの《ピアノに向かう少女》(1897年、アロス・オーフース美術館蔵)なども目を引く。

 

左)ヴィゴ・ヨハンスン《きよしこの夜》(1891年、ヒアシュプロング・コレクション蔵)© The Hirschsprung Collection 右)ヴィゴ・ヨハンスン《春の草花を描く子供たち》(1894年、スケーイン美術館蔵)Art Museums of Skagen

左)ヴィゴ・ヨハンスン《きよしこの夜》(1891年、ヒアシュプロング・コレクション蔵)© The Hirschsprung Collection
右)ヴィゴ・ヨハンスン《春の草花を描く子供たち》(1894年、スケーイン美術館蔵)Art Museums of Skagen

ピーダ・イルステズ《ピアノに向かう少女》(1897年、アロス・オーフース美術館蔵)ARoS Aarhus Kunstmuseum / © Photo: Ole Hein Pedersen

ピーダ・イルステズ《ピアノに向かう少女》(1897年、アロス・オーフース美術館蔵)ARoS Aarhus Kunstmuseum / © Photo: Ole Hein Pedersen

 

デンマークは高福祉国家や再生可能エネルギー先進国として知られ、国連による「世界幸福度ランキング」で何度も1位に輝くなど「幸福の国」のイメージがある。19世紀末デンマークの画家たちが描き出した北欧の美しい自然やそこで暮らす人々がくつろぐ家族など「何気ない日常に隠れたささやかな幸福」には、デンマーク人が大切にしている価値観「ヒュゲ」(くつろぎや心地よい雰囲気)が息づいている。「幸福の国」が生んだ、ハマスホイに代表される「ヒュゲ」の絵画を堪能してはいかがだろう。

 

「ハマスホイ」展の公式サイト https://artexhibition.jp/denmark2020/