懐かしい人との再会を思わせる「没後90年記念 岸田劉生展」が、東京ステーションギャラリーで開催されている。生誕120周年を記念しての「岸田劉生展」を2011年に大阪市立美術館で見て以来の本格的な回顧展だ。日本の近代美術の歴史において最も独創的な絵画の道を歩んだ、孤高の画家の初期から最晩年までの厳選された名品をほぼ制作年代順に展示し、画業の変遷を辿ることができる。誰もが一度は目にしたことがある《麗子像》や、重要文化財の《道路と土手と塀(切通之写生)》も出品されていて、名画にまた出合える感懐で、プレス内覧会に駆けつけた。「この世の宝なるものを目指し」と謳われる展覧会が、誇大文句でないことが裏付けられるであろう。

38歳の生涯、初期から最晩年まで約150件

自画像》(2014年2月13日、個人蔵、通期)

《自画像》(2014年2月13日、個人蔵、通期)

岸田劉生(18911929)は、明治の先覚者・岸田吟香(18331905)を父として東京・銀座に生まれた。父の死後、キリスト教会の牧師を志すが、独学で水彩画を制作するなかで、画家になることを勧められて、17歳で黒田清輝の主宰する白馬会葵橋洋画研究所で本格的に油彩画を学ぶ。

 

 

20歳の頃、武者小路実篤らの文芸誌『白樺』と出会い、ゴッホやゴーギャン、マチス、セザンヌらの作品を知り、「第二の誕生」と自ら呼ぶほどの衝撃を受ける。1912年には、斎藤与里、高村光太郎、萬鐡五郎らとともに、ヒユウザン会(フュウザン会)を結成、強烈な色彩と筆致による油彩画を発表する。

 

 

やがてデューラーら北方ルネサンスの感化から、精緻な写実を追求し、西洋の写実主義や東洋の古典絵画にも精通した独自の絵画世界を築き、1915年には、木村荘八、椿貞雄らとともにのちの草土社を結成、若い画家たちに圧倒的な影響を与える。

 

 

関東大震災により京都に移住した頃から、東洋美術(宋元院体画、浮世絵など)特有の写実表現のなかに「卑近の美」を発見して、日本画にも真剣に取り組む。その後、鎌倉に転居して、再び油彩画に新たな道を探究しはじめた1929年、満州旅行から帰国直後に体調を壊して、山口県の徳山において急逝した。

 

 

《自画像》(2021年4月27日、泉屋博古館分館蔵、通期)

《自画像》(2021年4月27日、泉屋博古館分館蔵、通期)

わずか38年の短い生涯だったが、数多くの肖像画や風景画、静物画などの油彩に加え、日本画も遺した。一連の「麗子像」に見られるように、物や人物の存在を深く見つめる「内なる美」を探究した画家であった。数多くの自画像を遺しているが、その中から2作品を掲載する。22歳の《自画像》(2014213日、個人蔵、通期)と、30歳の《自画像》(2021427日、泉屋博古館分館蔵、通期)で、表情の変化が見てとれる。

 

 

今回の展覧会の見どころは、まず岸田劉生の絵画の道において、道標となる作品を選び、基本的に制作年代順に展示することで、その変転を繰り返した人生とともに、画家・岸田劉生の芸術を顕彰している。劉生の作品は、画面に残されたサインや日記から、ほとんどの作品が制作年月日まで分かっている。このため制作年順に展示することによって、劉生の画業の変遷を辿ることができる訳だ。しかも初期から最晩年までの名品ばかりを厳選していて、いわばベスト・オブ・ベストの劉生展となっている。

 

 

次に代表作の「麗子いっぱい」の展示だ。劉生は生涯、数え5歳から16歳までの愛娘・麗子の肖像画を水彩や版画、デッサンまで合わせると100点以上も描いたとされている。この展覧会では会期中に17点もの「麗子」が、日本各地から顔見せする。大阪市美には28点の「麗子」が集結したが、その時に出品されていない「麗子」もいて興味深い。

 

 

今回の展覧会は、東京の後、山口県立美術館(112日-1222日)、名古屋市立美術館(202018日-31日)と、劉生ゆかりの地を巡回する。東京で生まれ、中国・大連旅行からの帰国後逗留した山口で客死した劉生は、関東大震災後、京都への転居前に、一時名古屋に身を寄せ、同地の美術界にも大きな影響を与えていた。東京展では、前記(~923日)と後期(925日~)合わせて約150件が出品される。

時系列6章構成、「麗子」もいっぱい展示

展覧会は、時系列に6章で構成されている。プレスリリースや図録などを参考に、章解説と主な作品を画像とともに取り上げる。まず第1章が「第二の誕生」まで(1907-1913)。独学で制作した水彩による風景画《緑》(190786日、東京国立近代美術館蔵、前期)から始まって、黒田清輝の主宰する白馬会葵橋洋画研究所で、ベルギー印象派に影響を受けた「外光主義」と呼ばれる画風で描いた作品《銀座と数寄屋橋畔》(1910-11年頃、郡山市立美術館蔵、通期)などを展示。

 

《緑》(1907年8月6日、東京国立近代美術館蔵、前期)

《緑》(1907年8月6日、東京国立近代美術館蔵、前期)

《銀座と数寄屋橋畔》(1910-11年頃、郡山市立美術館蔵、通期)

《銀座と数寄屋橋畔》(1910-11年頃、郡山市立美術館蔵、通期)

 

一方、雑誌『白樺』で紹介された、ゴッホら後期印象派(ポスト印象派)の画家たちに衝撃を受けて結成したヒユウザン会の展覧会などで発表した、激しいタッチと鮮烈な色彩による作品が、劉生の画家としての出発点となる。ここでは《築地居留地風景》(1913年頃、個人蔵、通期)などが出品されている。

 

《築地居留地風景》(1913年頃、個人蔵、通期)

《築地居留地風景》(1913年頃、個人蔵、通期)

 

第2章は「近代的傾向離れ」から「クラシックの感化」まで(1913-1915)。1913年になると、後期印象派風の表現に違和感を覚え、「近代的傾向離れ」をすることで、独自の写実を探究し始める。「劉生の首狩り」と称される友人たちをモデルとした人物画《B.L.の肖像(バーナード・リーチ像)》(1913512日、東京国立近代美術館蔵、通期)や、自画像を連作する。

 

《B.L.の肖像(バーナード・リーチ像)》(1913年5月12日、東京国立近代美術館蔵、通期

《B.L.の肖像(バーナード・リーチ像)》(1913年5月12日、東京国立近代美術館蔵、通期

 

また結婚や愛娘の誕生によって、主題がキリスト教的な人間像となる。《欲望》(1914[1975年の後刷り]、郡山市立美術館蔵:前期、福島県立美術館蔵:後期)は、欲望に身を任せて、楽園を追放され、背を向け合うアダムとイヴの姿が八角系の画面に描かれている。この頃の人物画には、ミケランジェロやデューラーといった西洋古典絵画の「クラシックの感化」が見受けられる。《黒き土の上に立てる女》(1914725日、似鳥美術館蔵、通期)は、大地に足を踏ん張りたくましく生きる女性を大胆な構図で捉えた。

 

《欲望》(1914年[1975年の後刷り]、郡山市立美術館蔵:前期、福島県立美術館蔵:後期)

《欲望》(1914年[1975年の後刷り]、郡山市立美術館蔵:前期、福島県立美術館蔵:後期)

《黒き土の上に立てる女》(1914年7月25日、似鳥美術館蔵、通期)

《黒き土の上に立てる女》(1914年7月25日、似鳥美術館蔵、通期)

 

《椿君之肖像》(1915227日、横浜美術館蔵、通期)は、「クラシックの感化」の代表作とされる。えんび色の背景幕の前で、彫りの深い顔立ちの青年が何かを見つめる姿を描く印象深い作品だ。

 

《椿君之肖像》(1915年2月27日、横浜美術館蔵、通期)

《椿君之肖像》(1915年2月27日、横浜美術館蔵、通期)

 

続く第3章は「実在の神秘」を超えて(1915-1918)。東京・代々木に転居したこともあり、人間と自然の葛藤を問うような風景画を制作するようになる。注目される一押しの名品は、重文の《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915115日、東京国立近代美術館蔵、通期)。都市化で切り拓かれる土手や盛り上がるような坂道を描いた風景画だ。道路の向こうには青空が広がっているが、手前の道路には電信柱の影が横たわっているだけ。行く先の見えない道路は、劉生の芸術の道を示していたようでもあるが、青空に揺ぎ無い信念を表現したようにも思える。

 

《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年11月5日、東京国立近代美術館蔵、通期)

《道路と土手と塀(切通之写生)》(1915年11月5日、東京国立近代美術館蔵、通期)

 

同時に、人物画においても、人間への探究がより深くなっていく。肺結核の診断(後に誤診と判明)を受けて、戸外での制作を禁止されたことで初めて静物画に取り組む。《壺の上に林檎が載って在る》(1916113日、東京国立近代美術館蔵、通期)は、把手の壊れた壺の上に青い林檎が載っているだけの構図だ。その林檎を壺の上に載せたのは、この《手》(19161110日、似鳥美術館蔵、通期)なのか。楕円形の板に写生されたのが、妻・蓁(しげる)の左手を描いたとされる。ともに存在感のある作品だ。

 

左)《壺の上に林檎が載って在る》(1916年11月3日、東京国立近代美術館蔵、通期) 右)《手》(1916年11月10日、似鳥美術館蔵、通期)

左)《壺の上に林檎が載って在る》(1916年11月3日、東京国立近代美術館蔵、通期)
右)《手》(1916年11月10日、似鳥美術館蔵、通期)

 

ここでいよいよ「麗子」が登場する。チラシの表紙を飾る《麗子肖像(麗子五歳之像)》(1918108日、東京国立近代美術館蔵、通期)は、数ある「麗子」の油彩による最初の肖像画だ。やや野性味のある顔立ちにえがかれているものの、その後の作品に比べ、実像に近かったのでは思われる。

 

《麗子肖像(麗子五歳之像)》(1918年10月8日、東京国立近代美術館蔵、通期)

《麗子肖像(麗子五歳之像)》(1918年10月8日、東京国立近代美術館蔵、通期)

 

 

「麗子いっぱい」の展示風景

「麗子いっぱい」の展示風景

 

第4章の「東洋の美」への目覚め(1919-1921)には、「麗子いっぱい」の展示だ。1919年以降、麗子は劉生にとって最も重要な主題となる。《麗子立像》(1920225日、長谷川町子美術館蔵、後期)や、《麗子之像》(1920228日、個人蔵、後期)など肖像画だけでなく、鵠沼の風景の中に麗子を描いた《麦二三寸》(1920316日、三重県立美術館蔵、通期)、そして《麗子微笑像》(1921101日、上原美術館蔵、通期)など、劉生は毎年、油彩で「麗子像」を制作する。同時に、水彩画や素描でも麗子像や村娘像を描くが、細密に描きこんだ油彩画とは対照的な直截な表現から、「内なる美」を追求していく。

 

左)《麗子立像》(1920年2月25日、長谷川町子美術館蔵、後期) 右)《麗子之像》(1920年2月28日、個人蔵、後期)

左)《麗子立像》(1920年2月25日、長谷川町子美術館蔵、後期)
右)《麗子之像》(1920年2月28日、個人蔵、後期)

《麦二三寸》(1920年3月16日、三重県立美術館蔵、通期)

《麦二三寸》(1920年3月16日、三重県立美術館蔵、通期)

《麗子微笑像》(1921年10月1日、上原美術館蔵、通期)

《麗子微笑像》(1921年10月1日、上原美術館蔵、通期)

 

麗子がこれほど多くの作品のモデルになったのには、単に愛娘というだけでなく、劉生は25歳のとき、肺結核と診断され、東京から温暖な気候の神奈川県藤沢市の鵠沼海岸に転居したことにある。医師から野外での写生は禁じられ、室内で制作ができる麗子が格好の対象となったのではなかろうか。それにしても作家がこれだけ様々な表現で一人のモデルを描いた執着心に驚かされる。

 

《鯰坊主》(1922年11月17日、豊田市美術館蔵、通期)

《鯰坊主》(1922年11月17日、豊田市美術館蔵、通期)

 

第5章は「卑近の美」と「写実の欠除」を巡って(1922-1926)。次第に日本の美術文化への関心が深まり、関東大震災により京都に移住してからは、歌舞伎や浮世絵のなかに見出した、東洋美術独自の写実表現である「卑近の美」を反映させている。帝国劇場の狂言を観劇しながら写生したスケッチから描いた油彩画の《鯰坊主》(19221117日、豊田市美術館蔵、通期)ほか、掛軸の《鵠沼小景》シリーズ(1922-23年、愛知県美術館蔵、前期)、《竹籠含春》(192349日、個人蔵、通期)、《四時競甘》(1926年、愛知県美術館蔵、前期)、《人蔘図》(1926年春、東京国立近代美術館蔵、後期)などが並ぶ。

 

《鵠沼小景》シリーズ(1922-23年、愛知県美術館蔵、前期)の掛軸が並ぶ

《鵠沼小景》シリーズ(1922-23年、愛知県美術館蔵、前期)の掛軸が並ぶ

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左)《竹籠含春》(1923年4月9日、個人蔵) 中)《四時競甘》(1926年、愛知県美術館蔵、前期) 右)《人蔘図》(1926年春、東京国立近代美術館蔵、後期)

左)《竹籠含春》(1923年4月9日、個人蔵)
中)《四時競甘》(1926年、愛知県美術館蔵、前期)
右)《人蔘図》(1926年春、東京国立近代美術館蔵、後期)

 

最後の第6章は「新しい余の道」へ(1926-1929)。日本画(宋元院体画風と南画風)と油彩画の表現を会得した劉生の静物画も注目だ。宋元画風の《冬瓜図》(19263月、個人蔵、通期)や、西洋風の《卓上花果》(192913日、個人蔵、通期)など多様な作品に感心する。

 

左)《冬瓜図》(1926年3月、個人蔵、通期) 右)《卓上花果》(1929年1月3日、個人蔵、通期)

左)《冬瓜図》(1926年3月、個人蔵、通期)  右)《卓上花果》(1929年1月3日、個人蔵、通期)

 

劉生は「新しい道」への第一歩を踏み出すために満州旅行に出かける。新しい風景と出会い、初心に帰ったような光と色彩に溢れた風景画《路傍秋晴》(192911月、吉野石膏株式会社蔵、通期)を制作するが、帰国直後に急逝して、劉生の絵画の道は途絶えることになった。《満鉄総裁邸の庭》(192911月、 ポーラ美術館蔵、通期)も出品されている。

 

左)《路傍秋晴》(1929年11月、吉野石膏株式会社蔵、通期) 右)《満鉄総裁邸の庭》(1929年11月、 ポーラ美術館蔵、通期)

左)《路傍秋晴》(1929年11月、吉野石膏株式会社蔵、通期)
右)《満鉄総裁邸の庭》(1929年11月、 ポーラ美術館蔵、通期)

自己の歩む道を選択し続け独自の絵画を展開

「岸田劉生展」を担当した田中晴子学芸室長

「岸田劉生展」を担当した田中晴子学芸室長

大正期の絵画展を積極的に開催してきた東京ステーションギャラリーが満を持して開催した「天才」岸田劉生の回顧展について、担当の田中晴子学芸室長は「岸田劉生は幼い頃から絵を描くことが得意で豊かな才能をもっていました。当初は上手な絵を目指し、若くして文展に入選を果たし、きれいだと鑑賞者が素直に感じるような作品も描きます。それが、自己の芸術を作り出すべく、作品が変わっていくわけです。上手く描くことが既に出来るということを前提において作品を見ると、ではなぜこのように違和感のある独特な作品を描いてみせるのだろうと、いろいろな興味が湧いてきます。劉生は、本の装幀や挿絵を手掛け、論文まで執筆してしまう。古画収集もすごい。38年に残した劉生ならでは仕事の量には、まさに天才、非凡人という文字が浮かびます」と、コメントしている。

 

 日本の近代美術の歴史は、フランスの近代美術を追随した歴史であったと言えるが、画家・岸田劉生は、ただ一人、初期から晩年に至るまで、自己の価値判断によって、自己の歩む道を選択して、独自の絵画を展開したのだった。

 

フランス近代絵画から北方ルネサンスの古典絵画、中国の宋元院体画から初期肉筆浮世絵へと、西洋と東洋の古典美術を自己の眼だけで発見、探究することで、自己の絵画を創造、深化させ、近代美術史を代表する画家の一人として、高い評価を受け続けている。

 

家族や友人らと記念撮影の写真アルバムも展示

家族や友人らと記念撮影の写真アルバムも展示

 

劉生は画家でありながら、新聞記者だった父親譲りなのか物書きでもあった。日記や書簡も含め10巻もの全集を著している。劉生の創作意図や芸術論などを記していて、次のような一文がある。

 

何にしても私は、深い美を見、深い美を表現した時の喜びは、一寸小さい自己以上の感じを味ふ。より深い美、より深い美と、一人だまって、仕事を積んでいく事、これが、まあ私の「生」への肯定「死」への諦めの唯一の道である。