ジャンルやテーマがさまざま、文化財や名品など多彩な展覧会模様だが、独創的な作家の個展も魅力にあふれている。今回は関西で開催中の3人の作家を取り上げる。分野が異なるが、長年かけてそれぞれの道を開拓した個性派で、いかんなく才能を発揮した。日本における女性写真家の草分けで抽象写真を追求した「生誕120年 山沢栄子 私の現代」が西宮市大谷記念美術館で7月28日まで開かれている。具象から抽象画までこなした「堂本印象 ほとけを描く ほとけを愛でる」は京都府立堂本印象記念美術館で9月23日まで、江戸時代中期に遡るが、京都で活躍し漆工芸に足跡を残した「謎の蒔絵師 永田友治―尾形光琳の後継者を名乗った男―」が滋賀のMIHO MUSEUMで7月15日まで、それぞれ開催されている。

※友治の「友」は、「友」の右上に「ヽ」

西宮市大谷記念美術館の「生誕120年 山沢栄子 私の現代」
先駆的な「アブストラクト写真」など約140点

1980年代の山沢栄子 撮影:浜地和子

1980年代の山沢栄子 撮影:浜地和子

山沢栄子といっても、知らない人がほとんどだろう。筆者も名前は聞いたことがあったが、作品を見るのは初めて。まずはその経歴から。山沢栄子(1899-1995)は大阪に生まれ、東京の女子美術学校(現・女子美術大学)日本画科を卒業する。油絵と写真を独学した後、1926年に単身渡米する。サンフランシスコのカリフォルニア・スクール・オブ・ファインアーツで油絵を学ぶ一方、アメリカ人写真家コンスエロ・カナガの助手となり、写真技術を習得した。

 

1929年に帰国し、31年から大阪堂島ビルで写真スタジオを開設し、ポートレート写真家として活躍する。戦後は商業写真家として再出発するが、カナガに招かれて1955年にアメリカを再訪した後、抽象的な写真作品の制作に転じる。1968年に神戸に移住した頃より、「私の現代」と題した個展を多数開催し「アブストラクト写真」を精力的に発表する。

 

生誕120年を記念した今回の展覧会は、1970年代から80年代に手がけたカラーとモノクロによる抽象写真シリーズ<What I Am Doing>を中心に、抽象表現の原点を示す60年代の写真集、戦前の活動を伝えるポートレートや関連資料など約140点を展示し、日本写真の流れとは異なる地平で創作を続けた芸術家の歩みをたどる。

 

展示は4章で構成されているが、時系列ではなく、注目の「アブストラクト写真」から始まる。第1章の「私の現代」には、大阪中之島美術館所蔵の<What I Am Doing>シリーズの28点が展示されている。これらのプリントは、山沢が1986年に写真作家として最後の新作個展に出品されたものだ。

 

近年の研究で、このシリーズには、自身の過去の作品や写真機材を写し込んだ、きわめてコンセプチュアルな表現も含まれていることが明らかになってきたという。写真による造形の実験を重ねることで、このような独自の芸術表現に到達したのであろう。長辺が最大で1メートルを超え、フレームも特注で作られた作品群は山沢の芸術家としての集大成でもあったようだ。

 

山沢栄子《What I Am Doing №8》(1980年/プリント1986年)

山沢栄子《What I Am Doing №8》(1980年/プリント1986年)

 

19世紀初めに写真が発明されてから、具象表現の「絵画の死」が伝えられ、20世紀にはカラー写真が普及し、抽象絵画が注目され始めた時期、山沢は抽象写真に挑んだのだから驚きだ。まさに芸術家としての生き方を探究した先駆者であった。作品のタイトルは同じ<What I Am Doing>シリーズで、それぞれにナンバーが付けられている。その一部を紹介するが、会場に身を置いて一望してほしい。

 

山沢栄子《What I Am Doing №72》(1986年)

山沢栄子《What I Am Doing №72》(1986年)

山沢栄子《What I Am Doing №73》(1986年)

山沢栄子《What I Am Doing №73》(1986年)

 

第2章は「遠近」。山沢が1962年に出版した写真集『遠近』には、1943年から62年までに制作した77点が収録されているが、そのほとんどのフィルムやプリントが現存していない。写真集そのものを裁断して額装しての展示。「ニューヨーク6カ月の目」という見出しから始まり、《セントラルパークの馬車》などの風景写真、《ジョン ローリング氏とモデル》や《なわとび》(いずれも1955年)などが並ぶ。山沢は再渡米してから、自らの写真の方向性を写実から抽象と見定め、本書にはすでに《アブストラクト青と赤》(1960年)などの作品もある。

 

山沢栄子《セントラルパークの馬車》(1995年)

山沢栄子《セントラルパークの馬車》(1995年)

左)山沢栄子《ジョン ローリング氏とモデル》 (1995年) 右)山沢栄子《なわとび》(1995年)

左)山沢栄子《ジョン ローリング氏とモデル》 (1995年)
右)山沢栄子《なわとび》(1995年)

山沢栄子《アブストラクト青と赤》(1960年)

山沢栄子《アブストラクト青と赤》(1960年)

 

第3章の「山沢栄子とアメリカ」では、20世紀前半のアメリカ写真が出品されている。山沢が1926年から27年にかけて学んだ5歳年上の師、《コンスエロ・カナガ女史》(1955年、東京都写真美術館蔵)を撮っている。カナガの友人で抽象写真を手がけていた《イモジェン・カニンガム》(1955年、個人蔵)や西海岸の写真家たちの作品、さらにはアメリカの広告写真も展示されている。

 

左)山沢栄子《コンスエロ・カナガ女史》(1955年、東京都写真美術館蔵) 右)山沢栄子《イモジェン・カニンガム》(1955年、個人蔵)

左)山沢栄子《コンスエロ・カナガ女史》(1955年、東京都写真美術館蔵)
右)山沢栄子《イモジェン・カニンガム》(1955年、個人蔵)

 

第4章は「『写真家』山沢栄子」で、ポートレートと疎開中の写真、商業写真に分けて紹介。とりわけ舞台俳優の山本安英の演技の勉強会の時の扮装写真が数多く出品されていて興味を引く。山沢のポートレートには、人の内面まで写し出す表現力が光る。戦時疎開先の信州でたくましく生きる人々の姿を捉え、商業写真の数々も、山沢の写真家としての幅広さを示す。

 

山沢栄子《山本安英´土´》(1943年/リント1990年)

山沢栄子《山本安英´土´》(1943年/リント1990年)

 

この展覧会を担当した西宮市大谷記念美術館の池上司学芸員は図録に「新資料の分析を通して分かるのは、山沢が若い頃から一貫した考えを持ち、ただ一つの道を歩み続けてきたということだ。その長い歩みは、自身が芸術家であり、写真が芸術であるという確信に裏付けられている」と、締めくくっている。

 

山沢栄子《壽屋、サントリーウスキー》(1953年)

山沢栄子《壽屋、サントリーウスキー》(1953年)

京都府立堂本印象記念美術館の「堂本印象 ほとけを描く ほとけを愛でる」
幻の四天王寺宝塔堂の仏画の下絵、抽象仏画も

文化勲章受章の日本画家、堂本印象は、戦後、抽象表現や障壁画の世界にも活躍の場を広げ、国際展覧会に多くの作品を出展するなど国際的にも活躍した。2016年秋、リニューアル直前の美術館で「天才!! 印象ワールド」を見た。「印象にこんな世界があったのか!?」と、印象付けられたが、今回は仏画をテーマにした展覧会だ。日本画だけでなく、抽象画も描けば、ペン画、茶道具類の絵付けから豪華婚礼衣装の下絵までジャンルを超えた様々な作品を手がけた。

 

和歌山の白浜別邸における堂本印象。奥に見えるのは平安時代の天部立像 (1938年)

和歌山の白浜別邸における堂本印象。奥に見えるのは平安時代の天部立像(1938年)

京都出身の印象(1891~1975)は、1910年に京都市立美術工芸学校を卒業し龍村平蔵の工房で図案制作にたずさわった。しかし日本画家になることを目指し、1918年に改めて京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)に入学。翌19年の第1回帝展に初入選し、その後も西山翠嶂に師事し、次々と話題作を発表して画壇に確固たる地位を築き、近代日本画の発展の一翼を担った。

 

浄土宗の信徒でもあった印象は幼少期から仏教に親しみ、生涯多くの仏画を描いた。とりわけ昭和10年代(1935-44年)、宗教画家として最も活躍した時期であり、その代表作として、1940年に大阪・四天王寺の五重宝塔内の仏画を手がけた。不運にも五重宝塔は大阪大空襲による戦火で焼失してしまったが、幸い下絵は残された。

 

今回の展覧会では、この四天王寺五重宝塔の全下絵24点を前期(~7月28日)と後期(7月30日~)に分けて一挙に展示するとともに、関連する仏画も展観し、印象が宝塔仏画を描いた軌跡をたどる。さらに印象旧蔵のコレクションの中から、平安~鎌倉時代の仏像4体を特別に初公開している。

 

在りし日の四天王寺宝塔堂内の写真(1941年)が極彩色で多くの仏画が描かれている。その正面に描かれた《釈迦如来図(下絵)》(1939年)と比較しながら見る。美しい輪郭線が往時の制作過程を偲ばせる。展示会場では《八部衆(下絵)》(1939年)の天・龍・阿修羅などがずらり並ぶ。

 

左)在りし日の四天王寺宝塔堂内の写真(1941年) 右)堂本印象《釈迦如来図(下絵)》(1939年)以下いずれも京都府立堂本印象美術館蔵

左)在りし日の四天王寺宝塔堂内の写真(1941年)
右)堂本印象《釈迦如来図(下絵)》(1939年)以下いずれも京都府立堂本印象美術館蔵

堂本印象《八部衆(下絵)》(1939年)の天・龍・阿修羅などが並んだ展示会場

堂本印象《八部衆(下絵)》(1939年)の天・龍・阿修羅などが並んだ展示会場

 

館内の広い展示室へ通じるスロープの壁面に、大正から昭和、戦後の仏画の代表作と、印象がどのように仏画に取り組んできたかを分かり易く解説されている。昭和に入ると、知恩院はじめ東福寺、東寺、醍醐寺などからも仏画の依頼を受け、昭和10年代に高野山根本大塔、そして四天王寺五重宝塔へと繋がる。戦後は現代的な抽象画を描いて、寺院建築との融合を図るが、批判を浴びることにもなる。

 

大正期の《維摩(ゆいま)》(1923年)は、菩薩の化身との説もあるインドの維摩は瞼を半眼にし、威厳維に満ちた厳しい表情に描かれ、穏やかな脇侍とは対照的だ。代表作の《法然上人一枚起請文》(1970年)も出品されている。画面中央部の起請文(きしょうもん)を渡す手と受け取る弟子の手のみが具象で、色彩が重なり合う構図だ。まさに印象の真骨頂ともいうべき自由な境地を示した仏画だ。

 

堂本印象《維摩(ゆいま)》(1923年)

堂本印象《維摩(ゆいま)》(1923年)

堂本印象《法然上人一枚起請文》(1970年)

堂本印象《法然上人一枚起請文》(1970年)

 

優れた目利きとしても知られる印象が愛した仏像も注目だ。《阿弥陀如来坐像》(鎌倉時代、13世紀)は、両手で来迎印を結ぶ。引き締まった肉体にまとわれた衣は写実表現だ。細見で上品な造詣の《天部立像》(平安時代、12世紀)と、2体一対で伝来の一木造りの《菩薩立像》(平安時代、10-11世紀)も、初お目見えの秘仏だ。仏画を描き、仏像を愛した印象の実像が浮かび上がってくる。

 

《阿弥陀如来坐像》(鎌倉時代、13世紀)

《阿弥陀如来坐像》(鎌倉時代、13世紀)

左)《天部立像》(平安時代、12世紀) 右)《菩薩立像》(平安時代、10-11世紀)

左)《天部立像》(平安時代、12世紀)   右)《菩薩立像》(平安時代、10-11世紀)

 

堂本印象記念美術館の担当学芸員の松尾敦子さんは。「仏画は印象の画業にとって、とても重要な位置を示します。その代表作である四天王寺の五重宝塔の仏画は不運にも焼失しましたが、幸い下絵はのこされました。下絵からは、構想から本画制作に至るさまざまな思いを読み取ることができます」と、コメントしている。

MIHO MUSEUMの「謎の蒔絵師 永田友治―尾形光琳の後継者を名乗った男」
知られざる蒔絵師の名作、関連作品約100点

永田友治のことはまったく知らなかった。プレス内覧会で鑑賞して、その作品の美しい装飾に驚いた。この4半世紀、展覧会の数だけでいえば、美術専門家にも負けないほど見ているが、次々と未知の作家と出会う。美術の道は遠く深い。永田友治は、江戸時代の中期、正徳・享保年間(1711~1736)ころ京都で活躍した琳派の蒔絵師と伝えられているが、生没も不詳で、その実像ははっきりとしなかった。近年、作家と作品の研究が進み、MIHO MUSEUMも協力したことから、その成果として、日本で初めての展覧会が実現したという。

 

永田の作品は、漆工芸の歴史にしっかり足跡を残している。尾形光琳風の意匠に倣い、独特の緑色系の青漆や「友治上げ」と呼ばれる錫粉を使った高蒔絵を用いる独創的なもので、神秘的な光彩を放っている。見逃せないのは光琳の使用した「方祝」の円印や、光琳の号「青〃」に「子」を加えた「青〃子」を号として使うなど、友治は光琳の後継者を強く意識した名を作品に記している点だ。

 

今回の展覧会では、これまでの研究成果を踏まえ、それを機に永田友治の作品を集め、友治がめざしたもの、そしてその作品の魅力や秘密について、化学分析による研究成果も交えて紹介している。謎の多い永田友治に迫る展示内容で、関連作品を含め約80点を展示。また「京の蒔絵師」にちなんで、「京の町衆文化」のコーナーも設け、館蔵の与謝蕪村や円山応挙、伊藤若冲らの名品も20点余陳列している。

 

展示は、「謎の蒔絵師 永田友治」に始まり、「友治盃金弐両 ―盃の友治」、「只今大坂伏見町住居候 ―合金粉の謎にせまる」、「琳派ムーブメント(琳派の流行)」、「青〃子 永田友治(器種ごとの展示)、「友治の子孫 ―永田習水」の6章で構成されている。主な展示作品を取り上げる。

 

永田友治《槙鹿蒔絵螺鈿料紙箱・硯箱》(江戸時代、18世紀、京都国立博物館蔵)

永田友治《槙鹿蒔絵螺鈿料紙箱・硯箱》(江戸時代、18世紀、京都国立博物館蔵)

 

注目の1点は、京都国立博物館所蔵の《槙鹿蒔絵螺鈿料紙箱・硯箱》(江戸時代、18世紀)。秋の月光を背景に、図案化された鹿と槙の木を配した作品だ。類似したデザインの《槙鹿蒔絵菓子重》(江戸時代、18世紀、個人蔵)も出品されている。

 

永田友治《燕子花蒔絵螺鈿菓子盆》(江戸時代、18世紀、個人蔵)

永田友治《槙鹿蒔絵菓子重》(江戸時代、18世紀、個人蔵)

 

燕子花(かきつばた)を黒漆で仕上げた《燕子花蒔絵螺鈿菓子盆》(江戸時代、18世紀、個人蔵)は10枚揃いで、シンプルながら洗練された作品だ。対照的に朱漆塗の《福禄寿鶴亀蒔絵盃》(江戸時代、18世紀、京都国立博物館蔵)は3組盃で、「友治上げ」による輪郭線が際立つ。

 

永田友治《燕子花蒔絵螺鈿菓子盆》(江戸時代、18世紀、個人蔵)

永田友治《燕子花蒔絵螺鈿菓子盆》(江戸時代、18世紀、個人蔵)

永田友治《福禄寿鶴亀蒔絵盃》(江戸時代、18世紀、京都国立博物館蔵)

永田友治《福禄寿鶴亀蒔絵盃》(江戸時代、18世紀、京都国立博物館蔵)

 

《つぼつぼ蒔絵盃台・共箱》は、合金粉の蒔絵で色とりどりなつぼつぼ紋を散らす。《青漆双蝶蒔絵螺鈿菓子盆》(いずれも江戸時代、18世紀、個人蔵)も、色鮮やかな蝶の羽を蒔きぼかしやグラデーションなどを使い巧みに表現している。さらに《青漆浮舟蒔絵硯蓋》や《のぼり舟蒔絵三組盃》、《鶴亀貝尽蒔絵螺鈿三組盃・盃台》(以上いずれも江戸時代、18世紀、個人蔵)などが並ぶ。このほか《月兎図》(江戸時代、18世紀、大阪・公益財団法人阪急文化財団 逸翁美術館蔵)や、《源氏物語蒔絵螺鈿衝立》(江戸時代、18世紀、個人蔵)も、多彩な絵柄で興味は尽きない。

 

永田友治《つぼつぼ蒔絵盃台・共箱》(江戸時代、18世紀、個人蔵) 撮影:森仁

永田友治《つぼつぼ蒔絵盃台・共箱》(江戸時代、18世紀、個人蔵) 撮影:森仁

左)永田友治《青漆双蝶蒔絵螺鈿菓子盆》(江戸時代、18世紀、個人蔵) 撮影:山崎兼慈 右)永田友治《青漆浮舟蒔絵硯蓋》(江戸時代、18世紀、個人蔵)撮影:森仁

左)永田友治《青漆双蝶蒔絵螺鈿菓子盆》(江戸時代、18世紀、個人蔵)撮影:山崎兼慈
右)永田友治《青漆浮舟蒔絵硯蓋》(江戸時代、18世紀、個人蔵)撮影:森仁

永田友治《のぼり舟蒔絵三組盃》(江戸時代、18世紀、個人蔵)撮影:山崎兼慈

永田友治《のぼり舟蒔絵三組盃》(江戸時代、18世紀、個人蔵)撮影:山崎兼慈

永田友治《鶴亀貝尽蒔絵螺鈿三組盃・盃台》(江戸時代、18世紀、個人蔵)撮影:山崎兼慈

永田友治《鶴亀貝尽蒔絵螺鈿三組盃・盃台》(江戸時代、18世紀、個人蔵)撮影:山崎兼慈

 

MIHO MUSEUM担当の桑原康郎学芸員は、「琳派を受け継ぎながら、新しい作風や材料を駆使した進取性に富んでいます。そして独自の境地に達した知られざる蒔絵師の名作ぞろいで、貴重な機会です」と強調している。