新元号の「令和」に移行したこの時期、新しい時代への幕開けを告げた「19世紀末ウィーン」をテーマにした展覧会が、東京の3美術館で同時期に開催中だ。先駆的な巨匠の没後100年を記念する「クリムト展 ウィーンと日本 1900」が東京都美術館で7月10日まで、日本・オーストリア外交樹立150周年記念の「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」が国立新美術館で8月5日まで、それぞれ催されている。もう一つ「世紀末ウィーンのグラフィック デザインそして生活の刷新にむけて」は、目黒区美術館で6月9日まで開かれているが、こちらは所蔵先の京都国立近代美術館で先行し、このサイトの1月23日号で取り上げているので割愛する。後世「ウィーン・ルネサンス」と称される芸術刷新の内実を知る3展覧会に注目だ。

東京都美術館の「クリムト展 ウィーンと日本 1900」
過去最多となる約25点以上の油彩画が集結

今回の「クリムト展」は、華やかな装飾性と世紀末的な官能性を併せ持つ作品を手がけ、19世紀末ウィーンを代表するクリムトの、日本では過去最多となる約25点以上の油彩画が集結した東京では約30年ぶりとなる大規模展だ。東京展の後、愛知県の豊田市美術館(7月23日~10月14日)にも巡回する。

 

出品は、初期の自然主義的な作品から、分離派結成後の代表作、甘美な女性や風景画など、晩年までの画業をたどることが出来る。さらに同時代のフランツ・マッチュらの作品や、クリムトが影響を受けた日本の美術品なども出品される。クリムト作品の殿堂として知られるウィーンのベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館を中心に、内外から集めた約110点が展示されている。

 

ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館(外観)

ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館(外観)

 

グスタフ・クリムト(1862-1918)は、金工師の長男としてウィーン近くのバウムガルテンに生まれた。1883年には、画家の知人と弟のエルンストとともに室内装飾を手がけるグループ「芸術家カンパニー」を設立し、92年にエルンストが亡くなるまで活動した。同じ年、父も亡くし、大きな打撃を受けた。

 

1897年に保守的なクンストラーハウス(美術家組合)を嫌った芸術家達によってウィーン分離派が結成された。分離派は古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループであり、クリムトが初代会長を務めている。分離派は展覧会、出版などを通してモダンデザインの成立に大きな役割を果たした。

 

クリムトは、1902年の第14回分離派展(ベートーヴェン展)に大作『ベートーヴェン・フリーズ』を出品したが反感を買う。この作品は長年行方不明となっていたが、1970年にオーストリア政府により買い上げられて修復を受け、現在ではセセッション館(分離派会館)に展示されている。

 

翌1903年にヨーゼフ・ホフマンらによって設立されたウィーン工房に、クリムトは強い関心を示していたが、美術の商業化であるとの批判が分離派内部からもなされた。写実派と様式派による対立、国からの補助金停止などが重なり、クリムトとその同士は1905年に分離派を脱退し、翌年オーストリア芸術家連盟を結成した。後にウィーン工房によるストックレー邸の壁画制作などを行い、上流階級の婦人たちの肖像画を多く手がけた。

 

1910年代には作品も少なくなり、金箔などを用いる装飾的な作風から脱却していった。1918年、ウィーンで脳梗塞と肺炎により55歳で死去した。ウィーンのヒーツィンガー墓地に埋葬されている。生涯独身を貫いたが、多くのモデルと愛人関係にあり、非嫡出子の存在も多数判明している。

「黄金様式」の代表作《ユディトⅠ》も出品

 

 《ヘレーネ・クリムトの肖像》

グスタフ・クリムト《ヘレーネ・クリムトの肖像》

 

展示は、第1章の「クリムトとその家族」から始まり、早世した弟の娘で6歳の姪を描いた《ヘレーネ・クリムトの肖像》(1898年、ベルン美術館蔵)など、第2章「修業時代と劇場装飾」では、《男性裸体像》(1883年、ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館蔵)などが並ぶ。第3章「私生活」と続き、第4章の「ウィーンと日本 1900」へ。ここでは、日本の着物の柄のようなカラフルな布団の山に埋もれた赤ん坊を描いた《赤子(ゆりかご)》(1917年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)が際立つ。

 

男性裸体像

グスタフ・クリムト《男性裸体像》

赤子(ゆりかご)

グスタフ・クリムト《赤子(ゆりかご)》

 

第5章は「ウィーン分離派」。分離派結成の直前に構想された《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》(1899年、オーストリア演劇博物館蔵)は、裸身で真実を映す鏡を掲げる女性が縦長画面に描かれている。頭上には、シラーの言葉「汝の行為と芸術をすべての人に好んでもらえないのなら、それを少数に対して行え」と記されている。

 

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《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》

グスタフ・クリムト《ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)》

その隣には、クリムトが初めて金箔を使った《ユディトⅠ》(1901年、ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館蔵)が出品されている。「黄金様式」時代の幕開けを飾った代表作だ。旧約聖書外典の一場面を主題に、敵将を殺した救国の女性のすがたを、クリムトならではの官能、装飾、造形の、すべてが盛り込まれ作品という。

 

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《ユディトⅠ》

グスタフ・クリムト《ユディトⅠ》

 

クリムトの「黄金様式」の時代を代表するもう1つの目玉が、全長34メートルにおよぶ壁画《ベートーヴェン・フリーズ》(1984年、ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館蔵)で、精巧な原寸大複製が出品されている。40歳の時に第14回ウィーン分離派展の壁画として制作(オリジナルは1901-02年)され、分離派会館の地下に展示されている。

 

《ベートーヴェン・フリーズ》(部分)

グスタフ・クリムト《ベートーヴェン・フリーズ》(部分)

《ベートーヴェン・フリーズ》(部分)

グスタフ・クリムト《ベートーヴェン・フリーズ》(部分)

 

ベートーヴェンの交響曲第9番に着想を得たこの壁画は、3つの壁面で絵巻物のように物語が展開している。黄金の騎士が幸福を求めて敵に向かい、楽園に辿り着くまでの旅路が構想され、強者、苦しむ人間、幸福を求める人々、精霊、天使などが描かれている。

 

グスタフ・クリムト《ベートーヴェン・フリーズ》の再現展示

グスタフ・クリムト《ベートーヴェン・フリーズ》の再現展示

 

第6章の「風景画」では、望遠鏡を覗いて描いたとされる《アッター湖畔のカンマー城Ⅲ》(1909-10年、ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館蔵)は、木々の中に垣間見える建物と自然の調和を印象派のような点描で捉えた。「風景画にも装飾的な意味を持たせたい」というクリムトの意図を感じることができる。

 

《アッター湖畔のカンマー城Ⅲ》

グスタフ・クリムト《アッター湖畔のカンマー城Ⅲ》

 

第7章は「肖像画」で、装飾的表現へのこだわりが見てとれる。《オイゲニア・プリマフェージの肖像》(1913-14年、豊田市美術館蔵)では、東洋の美術品に由来する色とりどりの花を用いながら、陶器、七宝の置物から着想を得たと思われる幸運と長寿を象徴する鳳凰を描写など印象的だ。

 

《オイゲニア・プリマフェージの肖像》

グスタフ・クリムト《オイゲニア・プリマフェージの肖像》

 

《白い服の女》(1917-18年、ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館蔵)は、女性の姿で背景を黒と白に分断しているが、細かな色合いが仕上げる前だ。クリムトが亡くなる際に、アトリエに未完成のまま残された作品だ。

 

《白い服の女》

グスタフ・クリムト《白い服の女》

 

展覧会を締めくくる最終章は「生命の円環」。父と弟の死や、生後間もない息子の死といった悲劇を経験したクリムトにとって、生命や老い、死は、大きなテーマであった。日本初公開となる《女の三世代》(1905年、ローマ国立近代美術館蔵)は、縦横約1.7メートルもの大作だ。

 

《女の三世代》

グスタフ・クリムト《女の三世代》

安らかに眠る幼い子と、その子を胸に抱く若い裸の女性、そして老醜を恥じるようにうなだれている年老いた女性という3世代の女性を描く。人間の一生を幼年期、青年期、老年期の3段階に分けて「生命の円環」という主題を、寓意的に表した傑作だ。

 

《家族》(1909-10年、ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館蔵)は、黒っぽい布で覆われた中に、死んだように眠る3人の顔が浮かび上がる構図だ。クリムトは生前、自身のことを多く語らず「私について何か知りたい人は、私の絵を注意深く見てほしい」と話したという。多様な表現力を駆使した魅力的なクリムト作品は、見れば見るほど示唆に富む。

 

《家族》

グスタフ・クリムト《家族》

国立新美術館の日本・オーストリア外交樹立150周年記念「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」
多岐にわたる新しい芸術の成果約400点

ウィーン世紀末は、まさに新しい時代の幕開けだった。グスタフ・クリムトが革新的な絵画表現で活躍した19世紀末から20世紀初頭にかけて、ウィーンでは美術の分野のみならず、建築や工芸、デザイン、ファッション、音楽など多岐にわたって新しい芸術を求める動きが盛んになり、装飾的できらびやかなウィーン独自の文化が花開いた。

 

現在では「世紀末芸術」と呼ばれるこの時代に、画家のクリムトやエゴン・シーレ(1890-1918)、建築家オットー・ヴァーグナー(1841-1918)、ヨーゼフ・ホフマン(1870-1956)、アドルフ・ロース(1870-1933)ら各界を代表する芸術家たちが登場し、ウィーンの文化は黄金期を迎えた。

 

「ウィーン世紀末の全貌を まだ、あなたは知らない。」と謳う今回の「ウィーン・モダン」展は、ウィーンの世紀末文化を「近代化(モダニズム)への過程」という視点から紐解く新しい試みだ。こちらは東京展に続き、大阪市の国立国際美術館(8月27日~12月8日)に巡回する。ウィーン分離派やモダニズム建築のデザイン画、模型、ウィーン工房が手がけたインテリア、ファッション、音楽にまつわる展示品など東京展に約400点、大阪展に約300点が展示される。

 

ウィーンの文化の中心地、カールスプラッツにあるヨーロッパ有数のウィーン・ミュージアムの大規模な増改築に伴い、ウィーン世紀末美術の象徴ともいえるクリムトが最愛のパートナーを描いた油彩画《エミーリエ・フレーゲの肖像》をはじめとする常設の展示作品を含めた主要作品の来日が実現した。

 

展覧会では、18世紀の女帝マリア・テレジアの時代の啓蒙思想が発展した19世紀前半のビーダーマイアー時代から、1857年の市壁の取り壊しを機に、リンク通りが形成され、ウィーンのモダニズム文化の萌芽となって19世紀末の豪華絢爛な芸術運動へとつながっていった軌跡をたどる。

華麗・斬新、「ウィーン世紀末」の全貌

展覧会は4章で構成されている。プレスリリースや図録などを参考に、それぞれの章解説と主な出品(いずれもウィーン・ミュージアムの所蔵品)を取り上げる。その前にタイトルに掲げられ、目玉作品のクリムトとシーレの作品を紹介しておく。まずはクリムトの《エミーリエ・フレーゲの肖像》(1902年)に描かれたモデルのエミーリエ・フレーゲ(1874-1952)は、生涯の最愛の伴侶だった。写実的なのは顔だけで、身につけた衣装は抽象的な装飾で描かれた肖像画だ。ほぼ等身大の作品で、ウィーンからほとんど離れることのなかった傑作だ。

 

グスタフ・クリムト《エミーリエ・フレーゲの肖像》(1902年)ウィーン・ミュージアム蔵(C)Wien Museum / Foto Peter Kain

グスタフ・クリムト《エミーリエ・フレーゲの肖像》

 

「ウィーン分離派」を立ち上げ、拠点となる分離派会館の開館に際して描かれた《パラス・アテナ》(1898年)や、画面を縦長に三分割した《愛》(『アレゴリー:新連作』のための原画№46)(1895年)など油彩とリトグラフ、鉛筆画を含め47点が出品されている。

 

グスタフ・クリムト《パラス・アテナ》(1898年)ウィーン・ミュージアム蔵 (C)Wien Museum / Foto Peter Kain

グスタフ・クリムト《パラス・アテナ》

グスタフ・クリムト《愛》『アレゴリー:新連作』のための原画№46(1898年)ウィーン・ミュージアム蔵 (C)Wien Museum / Foto Peter Kain

グスタフ・クリムト《愛》(『アレゴリー:新連作』のための原画№46)

 

シーレも22点ある。《自画像》(1911年)は、作品テーマの中心で、表現主義特有の感情面を誇張して描いている。疲れ果てた人間の姿を想起させる《ひまわり》(1909-10年)、当時のファッションを捉えたポストカードの《女性の肖像》(1910年)も展示されている。これらクリムトとシーレの作品は、第4章に属している。

 

エゴン・シーレ《自画像》(1911年)ウィーン・ミュージアム蔵 (C)Wien Museum / Foto Peter Kain

エゴン・シーレ《自画像》

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エゴン・シーレ《ひまわり》(1909-10年)ウィーン・ミュージアム蔵 (C)Wien Museum / Foto Peter Kain

エゴン・シーレ《ひまわり》

エゴン・シーレ《女性の肖像》(1910年)ウィーン・ミュージアム蔵 (C)Wien Museum / Foto Peter Kain

エゴン・シーレ《女性の肖像》

第1章は「啓蒙主義時代のウィーン」。女帝マリア・テレジアと、その息子の皇帝ヨーゼフ2世が統治した1740年代から90年代のハプスブルク帝国の首都ウィーンでは、啓蒙主義に基づいた社会の変革が行われた。理性や合理主義に基づき、社会の革新を目指す啓蒙主義の思想の熱烈な支持者であったヨーゼフ2世は、行政や法律、経済、教育において様々な改革を実行した。ウィーンは、自由な精神をもつ知識人たちを魅了し、ヨーロッパ文化の中心地へと変貌を遂げていった。ここでは《マリア・テレジア(額の装飾画:幼いヨーゼフ2世)》(1744年)や、《鎧姿の皇帝ヨーゼフ2世》が目を引く。

 

マルティン・ファン・メイテンス《マリア・テレジア(額の装飾画:幼いヨーゼフ2世)》(1744年)ウィーン・ミュージアム蔵 (C)Wien Museum / Foto Peter Kain

マルティン・ファン・メイテンス《マリア・テレジア(額の装飾画:幼いヨーゼフ2世)》

 

第2章は「ビーダーマイアー時代のウィーン」で、ナポレオン戦争終結後、1848年のウィーン革命までの期間は、都市化と同時に政治的抑圧が強かった。その反動として、風俗画や風景画、肖像画といった私的な絵画への需要が高まった。そうした中、《3つの最も嬉しいもの》(1838年)のような作品もある。

 

 

フリードリヒ・フォン・アメリング《3つの最も嬉しいもの》

フリードリヒ・フォン・アメリング《3つの最も嬉しいもの》

 

第3章は「リンク通りとウィーン」で、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の治世(1848年-1916年)に、ウィーンは帝国の近代的首都へと変貌を遂げた。城壁を取り壊し、大動脈のリンク通りは19世紀のウィーンの象徴といえた。ハンス・マカルトの《1879年の祝賀パレードのためのデザイン画―菓子製造組合》(1879年)や、《ドーラ・フルニエ=ガビロン》(1879-80年頃)、《皇后エリーザベト》(1855年)などが出品されている。

 

ハンス・マカルト《1879年の祝賀パレードのためのデザイン画―菓子製造組合》

ハンス・マカルト《1879年の祝賀パレードのためのデザイン画―菓子製造組合》

ハンス・マカルト《ドーラ・フルニエ=ガビロン》

ハンス・マカルト《ドーラ・フルニエ=ガビロン》

フランツ・ルス(父)《皇后エリーザベト》

フランツ・ルス(父)《皇后エリーザベト》

 

最後の第4章は、いよいよ「1900年―世紀末のウィーン」。カール・ルエーガーがウィーン市長として活躍した時代(1897年-1910年)には、さらに都市の機能が充実する。建築家オットー・ヴァーグナーがウィーンの都市デザイン・プロジェクトを数多く提案。クリムトに率いられた若い画家たちのグループが、オーストリア造形芸術家組合(ウィーン分離派)を結成した。1903年には、ウィーン工房が設立された。芸術家たちの実験的な精神や妥協のない創作が、この時代の傑作の数々を生み出したのだった。

 

マクシミリアン・クルツヴァイル《黄色いドレスの女性(画家の妻)》

マクシミリアン・クルツヴァイル《黄色いドレスの女性(画家の妻)》

「ウィーン分離派」の創設者の一人マクシミリアン・クルツヴァイルが描いた《黄色いドレスの女性(画家の妻)》(1899年)は、それまでの伝統にとらわれない方法で描き、洗練された作品だ。この章では、《ティーセット》(1922-23年)や、《カール・ルエーガー市長のための椅子》(1904年)、《美術アカデミー記念ホール:模型》(1898年)なども展示されている。

 

左)ダゴベルト・ぺッヒェ《ティーセット》 右)オットー・ヴァーグナー《カール・ルエーガー市長の椅子》

左)ダゴベルト・ぺッヒェ《ティーセット》
右)オットー・ヴァーグナー《カール・ルエーガー市長の椅子》

ヴェンツェル・ホルマン《美術アカデミー記念ホール:模型》(1898年)ウィーン・ミュージアム蔵 (C)Wien Museum / Foto Peter Kain

オットー・ヴァーグナー《美術アカデミー記念ホール:模型》 製作:ヴェンツェル・ホルマン(1898年)ウィーン・ミュージアム蔵 

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「令和」元年に開催された「ウィーン世紀末」の芸術。14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まったルネサンス(古典古代ギリシア、ローマの文化復興運動)を思い起こすが、「ウィーン世紀末」は19世紀末の豪華絢爛な芸術運動であったことを実感した。西洋の芸術にも多大な影響を与えたジャポニスムの日本にも、元号の名称のみならず、新しい時代を切り拓いてほしいものだ。