近年、江戸絵画が脚光を浴び、次々と展覧会が開かれるようになった。西洋では19世紀中頃の万国博覧会へ出品などをきっかけに、浮世絵など日本美術が注目され、1870年代以降、フランス美術界を中心に「ジャポニスム」の影響を及ぼした。とりわけ江戸絵画の写実性と豊かな想像力が評価されたのだ。いま関西では、兵庫県立美術館で幕末から明治前半にかけて活躍した絵師の特別展「没後130年 河鍋暁斎」が5月19日まで、西宮市大谷記念美術館では「四条派への道 呉春を中心として」が5月12日まで、それぞれ催されている。北斎や若冲、狩野派などと比べ、それほど知られていない暁斎や呉春らが才筆を揮った近世の絵画世界にスポットを当てた。

兵庫県立美術館の特別展「没後130年 河鍋暁斎」
幕末から明治、幅広い作品約200点

「河鍋暁斎 その手に描けぬものなし」展を東京・六本木のサントリー美術館で鑑賞して直後の特別展で、すっかり巡回展と思いきや、タイトルも異なり、別仕立て。ただ河鍋暁斎記念美術館所蔵の展示品のいくつかは重なっていた。関西では2008年に京都国立博物館で「没後120年記念 絵画の冒険者 暁斎 Kyosai -近代へ架ける橋-」の特別展が開催されて以来、本格的な企画展は10年ぶりだ。

 

今回の展覧会では、屛風や掛軸、絵巻だけでなく、暁斎が手がけた挿絵本や工芸品のほか、制作プロセスを示す下絵のほか、写生帖や日記、画稿なども展示し、作品と作家像とともに、その時代的、芸術的意義を再検証している。前期(~4月29日)に120点、後期(4月30日~)に124点で大幅に作品が入れ替え、通期展示は38点のみという大規模な回顧展だ。

 

河鍋暁斎(1831~89)は、下総国古河石町(現茨城県古河市)に生まれ、7歳の時に浮世絵師歌川国芳に学ぶ。その後、狩野派にも入門し、修業を積む。こうして浮世絵をはじめ、伝統的な狩野派、土佐派、琳派、四条派など日本古来の画流も広く身につけ、幅広い作品を手がける。

 

時は幕末から明治への激動期、暁斎は当時の画家や版元・出版社、寺院や神社、料亭や老舗商店、能や歌舞伎の役者らとも広範囲に交友を築いた。こうして時代の状況を敏感に感じ取り、時に体制批判の精神を研ぎ澄まし、日本的な人間・自然観、身体観、死生観といったテーマを独自の視線で掘り下げ、屏風や掛軸、巻物や画帖といった数多くの作品に反映させた。

 

一方で、日本に滞在していた明治政府のお雇い外国人とも交流する。その一人、ドイツ出身の医学者、エルヴィン・フォン・ベルツは、「日本最大の画家」と言うほど暁斎の表現世界を高く評価し、暁斎の代表的作品を収集していた。そのベルツの旧蔵品で現在ドイツのビーティヒハイム・ビッシンゲン市立博物館が所蔵する暁斎作品19点のうち、7点が里帰り出品されているのも、見どころの一つだ。

 

多くの画題を様々な表現技法で自在に描く

展覧会の構成と主な作品を、プレスリリースを参考に取り上げる。第1章が「幅広い画業」。暁斎は、様々な人との関係を培いながら、その注文に応じ、掛軸や屏風、絵馬といった幅広い種類の作品を制作する。とりわけ明治時代に日本国憲法発布を記念した5メートルを超す《舞楽 蘭陵王図》(1889年、千代田区教育委員会蔵)もあり驚かされる。まさに暁斎は多くの画題を様々な表現技法で自在に描いた鬼才だ。

 

《舞楽 蘭陵王図》(1889年、千代田区教育委員会蔵)

《舞楽 蘭陵王図》(1889年、千代田区教育委員会蔵)

 

《大森彦七鬼女と争う図》(1880年、成田山霊光館蔵、通期)は、成田山新勝寺への奉納額で2メートルもある。背中を貸した美女が鬼女に変身した形相を写実的に描く。国芳の影響が感じられる。《九尾の狐図屏風》(1870年以前、河鍋暁斎記念美術館蔵、通期)も迫力のある作品だ。一転、河竹黙阿弥作『漂流奇譚西洋劇』《パリス劇場表掛りの場》(1879年、GAS MUSEUM がす資料館蔵、前期)のような芝居の宣伝に用いられた行灯絵もある。

 

左)《大森彦七鬼女と争う図》(1880年、成田山霊光館蔵、通期) 右)《九尾の狐図屏風》(1870年以前、河鍋暁斎記念美術館蔵、通期)

左)《大森彦七鬼女と争う図》(1880年、成田山霊光館蔵、通期)
右)《九尾の狐図屏風》(1870年以前、河鍋暁斎記念美術館蔵、通期)

河竹黙阿弥作『漂流奇譚西洋劇』《パリス劇場表掛りの場》(1879年、GAS MUSEUM がす資料館蔵、前期)

河竹黙阿弥作『漂流奇譚西洋劇』《パリス劇場表掛りの場》(1879年、GAS MUSEUM がす資料館蔵、前期)

 

第2章は「眼の思索 下絵からはじまるネットワーク」で、これらの下絵類は、暁斎の鋭い観察力、洞察力、写生力、描写力を示す重要な証でもある。河鍋暁斎記念美術館には、約2200点が収蔵されている。《惺々暁斎下絵帖》(1846-84年、通期)をはじめ、《骸骨の茶の湯 下絵》(制作年不詳、前期)、《鳥獣戯画 猫又と狸 下絵》(制作年不詳、前期、いずれも河鍋暁斎記念美術館蔵)など、味わい深い作品が並ぶ。

 

左)《惺々暁斎下絵帖》(1846-84年、河鍋暁斎記念美術館蔵、通期) 右)《骸骨の茶の湯 下絵》(制作年不詳、河鍋暁斎記念美術館蔵、前期)

左)《惺々暁斎下絵帖》(1846-84年、河鍋暁斎記念美術館蔵、通期)
右)《骸骨の茶の湯 下絵》(制作年不詳、河鍋暁斎記念美術館蔵、前期)

《鳥獣戯画 猫又と狸 下絵》(制作年不詳、河鍋暁斎記念美術館蔵、前期)

《鳥獣戯画 猫又と狸 下絵》(制作年不詳、河鍋暁斎記念美術館蔵、前期)

 

第3章「民衆の力」では、幕末明治期の人々に受け入れられた諷刺作品を展示している。国芳のもとで批評的な精神を培ったと言われている。政府や体制側を面白おかしく諷刺・批判する作風を全面に押し出して錦絵を作った。この章では、幕府の長州征伐を蛙合戦に見立てた《風流蛙大合戦之図》(1864年、前期)は、擬人化された蛙たちの姿はなんともユーモラスだ。内国勧業博覧会会場全体を俯瞰して描いた《東京名所之内 上野山内一覧之図》(1881年、後期、いずれも河鍋暁斎記念美術館蔵)なども出品。

 

《風流蛙大合戦之図》(1864年、河鍋暁斎記念美術館蔵、前期)

《風流蛙大合戦之図》(1864年、河鍋暁斎記念美術館蔵、前期)

《東京名所之内 上野山内一覧之図》(1881年、河鍋暁斎記念美術館蔵、後期)

《東京名所之内 上野山内一覧之図》(1881年、河鍋暁斎記念美術館蔵、後期)

 

最後の第4章は、「身体・精神をつむぐ幕末明治」。暁斎の作品は多岐に渡っているが、彼の描く身体や、生々しい地獄や幽霊像は、生きることと死ぬことに常に思いを巡らす私たち人間の内面的世界のもろさ、はかなさ、複雑さにも言及している。

 

《美女の袖を引く骸骨たち》(明治時代、ビーティヒハイム・ビッシンゲン市立博物館蔵、通期)は、死んでしまい骸骨になった後でも、美女の色香に迷う男たちの様子をシニカルに描いていて、暁斎ならではの視点がうかがえる。

 

《美女の袖を引く骸骨たち》(明治時代、ビーティヒハイム・ビッシンゲン市立博物館蔵、通期)

《美女の袖を引く骸骨たち》(明治時代、ビーティヒハイム・ビッシンゲン市立博物館蔵、通期)

 

黒羽織の裏側に描かれた残酷図の《処刑場跡描絵羽織》(1871年、京都府蔵[京都文化博物館管理]、前期)や、奇抜な構図で描いた《豊干禅師と寒山拾得図》(1870年以降、東京国立博物館蔵、~4月21日)、亡者の審判を受ける姿を両幅に描いた《閻魔庁図》(1879年以降、熊本県立美術館蔵、後期)など見ごたえたっぷりだ。

 

《処刑場跡描絵羽織》(1871年、京都府蔵[京都文化博物館管理]、前期)

《処刑場跡描絵羽織》(1871年、京都府蔵[京都文化博物館管理]、前期)

《豊干禅師と寒山拾得図》(1870年以降、東京国立博物館蔵、~4月21日)

《豊干禅師と寒山拾得図》(1870年以降、東京国立博物館蔵、~4月21日)

左)《閻魔庁図》左図(1879年以降、熊本県立美術館蔵、後期) 右)《閻魔庁図》右図(1879年以降、熊本県立美術館蔵、後期)

左)《閻魔庁図》左図(1879年以降、熊本県立美術館蔵、後期)
右)《閻魔庁図》右図(1879年以降、熊本県立美術館蔵、後期)

 

ここでは、暁斎は晩年、観音像を日課として描き続けた。その一つ《白衣観音図》(1879-89年、河鍋暁斎記念美術館、前期)は、透き通るように輝く光背など、繊細で優美な作品に仕上げている。

 

《白衣観音図》(1879-89年、河鍋暁斎記念美術館、前期)

《白衣観音図》(1879-89年、河鍋暁斎記念美術館、前期)

 

「画狂人」と称し、90歳まで生きた葛飾北斎(1760~1849)を色濃く継承したのが暁斎といえよう。幕末から明治の激動期に仏画から戯画まで何でもこなした「画鬼」暁斎は、胃がんのため北斎より30歳も若く59歳で他界した。二人は森羅万象を大胆に繊細に描き尽くした天才画家だった。

西宮市大谷記念美術館の「四条派への道 呉春を中心として」
屛風や掛軸、絵巻がずらり、壮観の100点

河鍋暁斎より少し前の江戸時代後期に栄えた「四条派」をテーマにした展覧会だ。そもそも四条派とは呉春を祖として発展し、呉春や弟子が京都・四条通り周辺に暮らしたことから名付けられた。明治以降、近代になっても四条派に属する日本画家に受け継がれている。

 

今回の展覧会では、呉春の初期から晩年までの作品を中心に、弟子たちの作品を紹介し、呉春の画業から四条派へとつながる道筋をたどる。さらに同時代に活躍した円山派の絵師を取り上げ、呉春との作風の違いや影響を検証する。前期(~4月23日)と、後期(4月25日~)合わせ100点が出品される。

 

呉春(1752~1811)は京都に生まれ、姓は松村。20歳代で与謝蕪村に入門し、南画と俳諧を学ぶ。「呉服(くれは)の里」という古名のあった摂津の池田に転地療養し新春を過ごした事に因み呉春と名乗る。その後、京都に戻って円山応挙の影響のもと写実を踏襲しつつ、応挙とは異なる簡潔で整然とした新たな境地に達す異なる簡潔で整然とした新たな境地に達する。

 

呉春が描く蕪村の肖像、弟子が描く呉春像も

展示構成は、「河鍋暁斎展」同様に4章仕立てになっている。こちらも主な作品を図録の解説などを参考に取り上げる。第1章が「呉春」で、初期から晩年まで、その画業の変遷を辿っている。広い展示室に大きな屛風や掛軸がずらり並び壮観だ。チラシに「蕪村の愛弟子 応挙が一目置く存在 それが呉春」と謳うだけのことがあって、これだけの作品をよく集めたものだと感心した。

 

呉春《与謝蕪村像》(1784年、京都国立博物館蔵)

呉春《与謝蕪村像》(1784年、京都国立博物館蔵)

 

まず《与謝蕪村像》(1784年、京都国立博物館蔵)は、師匠の死後ほどなくして描いたとされる肖像画だ。上部の文章には蕪村の「宇治行」が貼り付けられている。その前年に宇治田原で松茸狩りを楽しんだ後に病に倒れ、その年の暮れに亡くなった。池田在住時の作品に、《漁夫図》(1784年)や、《牧馬図》(1784-87年頃)がある。いずれも庶民の暮らしを繊細な筆運びで表現している。

 

左)呉春《漁夫図》(1784年) 右)呉春《牧馬図》(1784-87年頃)

左)呉春《漁夫図》(1784年)
右)呉春《牧馬図》(1784-87年頃)

 

重要文化財の《柳鷺群禽図》(1782-84年頃、京都国立博物館蔵)は、六曲一双の屛風。右隻に椋鳥たちが集う秋の景色、左隻には草木の中から五位鷺が飛び立つ情景が淡彩で描かれている。まるで実景と思わせる写実描写がすばらしい代表作だ。一方、金地着色の六曲一双屛風《松鶴図》(1800年)は、右隻に飛来する3羽の鶴、左隻に地上の鶴2羽と老松が絶妙のバランスで鮮やかに描かれている。

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左)重要文化財 呉春《柳鷺群禽図》左隻(1782-84年頃、京都国立博物館蔵) 右)重要文化財 呉春《柳鷺群禽図》右隻(1782-84年頃、京都国立博物館蔵)

左)重要文化財 呉春《柳鷺群禽図》左隻(1782-84年頃、京都国立博物館蔵)
右)重要文化財 呉春《柳鷺群禽図》右隻(1782-84年頃、京都国立博物館蔵)

左)呉春《松鶴図》左隻(1800年) 右)呉春《松鶴図》右隻(1800年)

左)呉春《松鶴図》左隻(1800年)
右)呉春《松鶴図》右隻(1800年)

 

さらに《秋夜擣(とう)衣図》(1796-98年頃、公益財団法人阪急文化財団逸翁美術館蔵)は、月明かりの下で秋の夜なべに布を打つ作業をする女性の姿が墨画淡彩で捉えられている。《白猿図》(1800年)も、墨一色で描かれた呉春らしい作品だ。

 

呉春《秋夜擣衣図》(1796-98年頃、公益財団法人阪急文化財団逸翁美術館蔵)

呉春《秋夜擣衣図》(1796-98年頃、公益財団法人阪急文化財団逸翁美術館蔵)

呉春《白猿図》(1800年)

呉春《白猿図》(1800年)

 

第2章に移ると「円山派 円山応挙と弟子たち」で、源琦、山口素絢、吉村孝敬らの作品を展示し、呉春と同時期の円山派の画業を検証している。写生画で知られる応挙の作品も2点出品。その中で、《楚蓮香図》(1795年)は、亡くなった年に描かれた美人画の秀作だ。この章では、源琦の《白鶴図》(1796年、黒川古文化研究所蔵)は、呉春の鶴のような優雅さはないが、その表情は巧みだ。

 

円山応挙《楚蓮香図》(1795年)

円山応挙《楚蓮香図》(1795年)

源琦《白鶴図》(1796年、黒川古文化研究所蔵)

源琦《白鶴図》(1796年、黒川古文化研究所蔵)

 

第3章では「呉春の弟子たち」。岡本豊彦、松村景文、柴田義董の卓越した三人の弟子の他、四条派を形成していく弟子たちの画業を取り上げている。呉春を描いた弟子たちの作品が数点並ぶが、岡本豊彦の《呉春像》(1811-19年、大阪市立美術館蔵)は、穏やかな表情ながら理知的なまなざしが印象的だ。松村景文の《柳鳶烏図》(1801-43年、公益財団法人阪急文化財団逸翁美術館蔵)は、柳の枝に止まる鳶と2羽の烏が向き合う構図を力強いタッチで捉えられている。

 

岡本豊彦《呉春像》(1811-19年、大阪市立美術館蔵)

岡本豊彦《呉春像》(1811-19年、大阪市立美術館蔵)

松村景文《柳鳶烏図》(1801-43年、公益財団法人阪急文化財団逸翁美術館蔵)

松村景文《柳鳶烏図》(1801-43年、公益財団法人阪急文化財団逸翁美術館蔵)

 

最後の第4章は「大坂の四条派」で、長山孔寅、上田公長、西山芳園ら、大坂で活躍した絵師による四条派の広がりを考察する。ここでは長山孔寅の《松竹梅図》(1784―1849年)は、墨の濃淡で微妙な遠近を表現。上田公長の《芭蕉涅槃図》(1804-50年、大阪市立美術館蔵)は、仏ならず芭蕉の涅槃図。こちらも墨の淡彩でユーモラスな構図で、他者名筆遣い。

 

長山孔寅《松竹梅図》(1784―1849年)

長山孔寅《松竹梅図》(1784―1849年)

上田公長《芭蕉涅槃図》(1804-50年、大阪市立美術館蔵)

上田公長《芭蕉涅槃図》(1804-50年、大阪市立美術館蔵)

 

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日を経ず二つの展覧会を観賞し、近世絵画を堪能した。かたや「異端」こなた「正統」といった見方もできるが、連綿と続く日本絵画の繊細な味わいに浸った。目下、毎年のようにモネやゴッホ、ルノワールらの西洋絵画に列をなして追いかける風潮もあるが、近世絵画の良さを再認識する格好の企画展だった。