01--航空写真

全長85メートル、幅6メートル、高さ3メートルもの巨大登り窯を築き、前人未到の壮大なプロジェクトに取り組んでいた備前焼の岡山県重要無形文化財保持者・森陶岳さんの「寒風(さぶかぜ)新大窯」での窯出しが続けられている。10月末にはすべて出し終えるが、多くの成果が期待されている。窯出しの進む瀬戸内市牛窓町長浜の窯元を訪ねた。「古備前の美」を追求する陶岳さんは「これまでの備前で経験したことの無いできばえです」と自負した。

 

 

 

窯出しの始まった大窯前で森陶岳さん

窯出しの始まった大窯前で森陶岳さん

「古備前の美」を追求し、画期的な成果

神職から授けられた火を持つ森陶岳さん

神職から授けられた火を持つ森陶岳さん

「新大窯」の初窯火入れ式の神事は今年正月4日、祝詞や玉串の奉てんなどが営まれ、作業の安全と焼成の成功を祈願した。私も大阪から馳せ参じ、約150人が見守る中、神職から授けられた火を、陶岳さんが窯の焚き口に積まれた割り木に移すと、赤々とした炎が燃え上がるのを見とどけた。

 

今春78歳になった陶岳さんは、桃山時代からの歴史を持つ「古備前の美」を追求し、1970年代から研究を重ねてきた。その結果、昔と同じような土づくり、成形、そして何より大窯で焚くしかない、という結論にたどりついた。かつての備前焼は何人もの陶工が集まり、一つの大窯で作陶していた。

 

 

窯の焚き口に積まれた割り木に移す陶岳さん

窯の焚き口に積まれた割り木に移す陶岳さん

1998年に「新大窯」の準備を始め、2000年から一門の8人の陶工たちとの築窯に取り組んできた。個人窯としては世界でも類を見ない巨大窯は、傾斜14度の半地下構造の直炎式登り窯だ。

 

「新大窯」には、高さ1・65メートル、胴径1・4メートルもある「五石甕(ごこくがめ)」84個と四・三・一石甕など大小の甕や大壺など約100個が詰められた。この大甕には、花器や茶器など一門の作品数千点が11回に分け窯詰めされていた。

 

焚き口側に「うど」と呼ばれる焼成室から、窯の上部に向かって32の「焼き台」があり、窯の最上部に「けど」と呼ばれる焼成室が設けられた。火入れ式後、煙を窯に送り込む「くゆし」を終え、1200度まで徐々に温度を上げる。107日間にわたって、24時間体制で薪約4千トンを焚き続けた。その後、同じく3ヵ月かけ自然にゆっくりと常温に戻るまで冷まし、夏ごろから窯出しへ。

 

窯出しされた大きな甕の列。作品はこの中に入れられていた

窯出しされた大きな甕の列。作品はこの中に入れられていた

 

 

窯出し作品を手にする森陶岳さん

窯出し作品を手にする森陶岳さん

構想から四半世紀、陶岳さんはやっと長年の悲願であった窯出しを迎えたのであった。最初の窯出しは7月末、一石甕2基が慎重に運び出された。中から2点を取り出し、灰を取り除き水洗いをして確かめたという。その日の共同インタビューに応じ、「大きな窯で焼いたサンプルが取れ、下地が出来た。これからはこの下地をベースに新たなスタートに。実に画期的な成果を得られた」と声も弾んでいた。

 

 

8月下旬、陶岳さんから「一度、見に来ませんか」との電話連絡を受けた。翌9月上旬に大阪の知人を伴って訪ねた。それまでに3分の2ほど窯出しを終えていて花入れや壺など5点を見せていただいた。まずはその色合いに驚いた。前の黒褐色とは打って変わった色合いの作品も。オレンジ色もあれば、うろこ雲のような文様の作品もあった。その窯変ぶりは、陶岳さん自身の想像をも超えていた。

 

試行錯誤を繰り返し、大窯焼成に自信

備前焼は、古代の須恵器に源流を持ち、中世六古窯の一つで、釉薬(ゆうやく)を使わずに1200度もの高温で焼き締めていく様式を貫いているのが大きな特徴だ。

 

新窯出しの花入れ

新窯出しの花入れ

 

平安末期から鎌倉初期にかけて、この素朴な味わいが茶人の好むところとなり発展した。やがて大窯が築かれ数々の名品が生み出され、室町末期から桃山、江戸初期にかけ繁栄した。その後は、昭和初期まで低迷期が続くことになる。

 

うろこ雲文様の壺

うろこ雲文様の壺

黄金の桃山陶への回帰をめざしたのが金重陶陽だ。そして人間国宝となる藤原啓とその息子の藤原雄、山本陶秀らを輩出し、再び隆盛期を迎えた。イサム・ノグチや川喜田半泥子、加藤唐九郎が備前を訪れ作陶し、北大路魯山人をして「備前焼こそ料理を最高に生かすやきもの」といわしめた逸話も伝えられている。

 

備前焼の神髄を究めたいとの思いから、試行錯誤を繰り返しながら、その手段において、もっとも大胆さと繊細さを持ち合わせたのが陶岳さんだった。「桃山時代に作られ、何百年もたったものが、今もなお感動を与える。その源泉は何なのか」を問い続けることになったわけだ。それがだれもが試みなかった大窯による作陶の道だった。

 

陶岳さんは1937年、室町時代から続く由緒ある備前焼窯元の家に生まれ、小学生の頃から自作を焼いて育った。岡山大学教育学部特設美術科を卒業後、いったんは中学の美術教師になりますが、「やはり窯を焚いてみたい」との思いが強まり、25歳で作陶生活に入った。

 

無口でひたむきな人柄で、ストイックな姿勢は地道なやきものづくりに向いていたようだ。川砂をまぜたり、象眼技法を採り入れたりして、独自の造形を生み出す。1963年の第10回日本伝統工芸展で「備前大壷」が初入選、1969年には日本陶磁協会賞を受賞した。加守田章二、江崎一生らとの陶芸三人展などで意欲的な作品の発表を続け陶芸界に頭角を現す。

 

しかし作れば作るほど、陶岳さんは自分の作品に満足できなくなったのだ。「400年も前に作られた古備前の存在感や、秘められたエネルギーをどうすれば現代によみがえらせることができるのか……」。陶岳さんは室町、桃山時代の古備前と比べて、自分の作品が焼き締めの点で見劣りすると悩む。

 

85メートルもの「新大窯」の正面

85メートルもの「新大窯」の正面

 

その答えは大窯での作陶で、兵庫県相生市に築いた全長46メートルの大窯で初の窯焚きをした。土づくりから成形方法、窯詰め、焼成温度や時間管理など一つ一つの工程をテストする実験炉ともいえた。そして1985年以降、備前須恵器の発祥の地、寒風に全長53メートルの大窯を築き、ほぼ4年おきに焼成を繰り返してきた。

 

長い巨大登り窯を覆う屋根の周辺に積まれた薪

長い巨大登り窯を覆う屋根の周辺に積まれた薪

 

試行錯誤の末、極限に近いまでの高温での焼成によって、まるで釉薬をかけたように黒く変色したり、灰が火に溶けて雪崩のように流れて玉垂れの模様を作り出すなど、深みのある絶妙の窯変が起こった。陶岳さんは「予想を超える色合いだ」と、大窯での焼成に自信を深めたのだった。

 

 

焼成を終えた登り窯

焼成を終えた登り窯

「古備前を超えた」作陶の集大成へ

私が陶岳さんに出会ったのは1997年の秋のことだから、まもなく20年になる。朝日新聞社時代、現地で取材する同僚記者からの紹介だ。牛窓近くの邑久(おく)に、竹下夢二の生家がある。失礼ながら夢二にも関心があったので、寒風訪問となった。

 

陶岳さんは174センチ、82キロの堂々とした体格の上、見事に頭を丸めた風貌で、ひと目でただならぬものを感じた。案内されたアトリエには、手造りという高さ1メートル以上の大きな甕が10数点も居並び驚かされた。宙を見ながら、土づくりのこと、ロクロを使わない成形のこと、これまでの試行錯誤のことなどをぽつぽつと語る陶岳さんの姿を、今もよく覚えている。

 

陶岳さんの限りない情熱と挑戦に感動した私は、「古備前を超えて 森陶岳」展を企画し、1999年9月の東京を皮切りに、約7カ月にわたって大阪、京都、広島、奈良を巡回開催した。初期から約40年間の代表作101点を展示し、5会場合わせて5万人を超す観客を集めた。

 

この展覧会に、通算4回目の53メートルの大窯での新作17点も出品された。展覧会のタイトルは、監修者の乾由明・元金沢美術工芸大学学長が名付けた。大窯から窯出しされた表情豊かな褐色の肌、激しい玉垂れの力、多彩な玉虫色の窯変など存在感のある作品にふれ「古備前を超えて、まったく新しい美の世界を示している」と感嘆されたからだ。

 

12-自然釉大壺

 

見かけや形の美しさにとらわれず、やきもの本質に迫ろうとする陶岳さんは、手探りから学んできた蓄積をもとに一歩一歩、古備前の世界を切り拓いてきたのだ。「まったく八方ふさがりで行き詰まっていた時に、ひらめいていたことが的中した。これは神のお導きとしか思えません」と述懐する。知恵と情熱と先人から受け継いだ細胞の記憶から、本来の古備前の輝きを確信できるまで挑む陶岳さんはどこまでも信念の人だ。

 

13-條文壺

 

また陶岳さんは、「一以貫之」という言葉をよく使う。かつて古い備前焼に出会った感動から、様々な試みをしてきた自分の道を信じ作陶に取り組むという覚悟の言葉と受け取れた。めざすものは、古備前を超えるどころか、土と炎のなせる陶芸の神秘的な新しい世界を切り拓くことではないか、と思われる。

 

14-つるくび花入

 

「何かに突き動かされてきました。後には引けません。陶芸人生のすべてをかけた挑戦です」。静かな口調ながら並々ならぬ闘志をみなぎらせる陶岳さんにとって、「新大窯」はまさに集大成であり、備前焼のみならず陶芸界にとっても画期的な一大プロジェクトなのだ。窯出しの作品がずらり並ぶ展覧会の開催が待たれる。

 

15-四石甕