またまた20世紀初頭を代表する巨匠、エドヴァルト・ムンク(1863-1944)と藤田嗣治(1886-1968)の名画に出合えた。ともに軍医の父の元に生まれ、パリで学び、80歳と81歳の生涯を全うし、輝かしい画業を遺した。二人それぞれの大回顧展、「ムンク展―共鳴する魂の叫び」は東京都美術館で来年1月20日まで、「没後50年 藤田嗣治展」は京都国立近代美術館で12月16日まで開催中だ。筆者は朝日新聞社時代、初めての海外出張がノルウェーで、画家の生地でムンク作品に魅了された。藤田の方は、企画展構想を企てながら、「著作権の壁」に阻まれた思い出がある。二人の巨匠展を紹介するとともに、個人的な感懐や体験も書き添える。

東京都美術館「ムンク展―共鳴する魂の叫び」
初来日の《叫び》(1910年?)含め、約100点の出品

エドヴァルド・ムンク《自画像》(1882年)エドヴァルド・ムンク、オスロ市立ムンク美術館所蔵 All Photographs ©Munchmuseet

エドヴァルド・ムンク《自画像》(1882年)エドヴァルド・ムンク、オスロ市立ムンク美術館所蔵 All Photographs ©Munchmuseet

今回の「ムンク展」には、オスロ市立ムンク美術館が誇る最大のコレクションを中心に、約60点の油彩画と版画など約100点が出品されている。没後、画家の手元にあった作品はオスロ市に寄贈された。1963年に開館したオスロ市立ムンク美術館には1150点の油彩画をはじめ、7700点の水彩画と素描類など、ムンクが生涯に遺した半数以上を所蔵している。

 

とりわけ複数描かれた「叫び」のうち、ムンク美術館が所蔵するテンペラ・油彩画の《叫び》は初来日となる。愛や絶望、嫉妬、孤独など人間の内面が表現された代表作に加え、家族や友人の肖像画、鮮やかな色彩が輝く風景画など晩年の作品に至るまで展示されていて、約60年におよぶ画業をたどることができる。

 

展覧会は、第1章「ムンクとは誰か」から始まり、最後の第9章「画家の晩年」をはさんで、ほぼ時系列に作品のモチーフごとに「家族―死と喪失」、「夏の夜―孤独と憂鬱」、「魂の叫び―不安と絶望」、「接吻、吸血鬼、マドンナ」、「男と女―愛、嫉妬、別れ」、「肖像画」、「躍動する風景」の構成だ。

 

まず《自画像》(1882年)は、ムンク19歳の時の作品だ。医師の家に生まれるが、5歳の時に母を、14歳の時に姉をともに結核で亡くす不幸に見舞われ、後の絵画作品に影響を与えることになる。自画像はしばしば描き、40歳の時には自身の裸体を写した写真を参考に《地獄の自画像》(1903年)を描いた。《病める子Ⅰ》(1896年)は、死にゆく少女の顔を描いているが、姉の死と結びついた作品だ。

 

《地獄の自画像》(1903年)エドヴァルド・ムンク、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

エドヴァルド・ムンク《地獄の自画像》(1903年)、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

《病める子Ⅰ》(1896年)エドヴァルド・ムンク、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

エドヴァルド・ムンク《病める子Ⅰ》(1896年)、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

 

1880年に画家になる決心をして画学校(後の王立美術工芸学校)に入学。89年から92年にかけて、政府の奨学金を得てパリに留学した。ゴッホや世紀末の芸術家たちから刺激を受け、病気や狂気、死などをテーマに人間の不安や苦しみ、愛などを描くことを自らに課していった。夏場はオスロのフィヨルドを臨む漁村で過ごしたといい、《夏の夜、人魚》(1893年)も、この時代に描かれた。

 

《夏の夜、人魚》(1893年)エドヴァルド・ムンク、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

エドヴァルド・ムンク《夏の夜、人魚》(1893年)、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

その後、ムンクはベルリン、再びパリに移り住み個展を重ねる。98年からはノルウェー海沿いの村オースゴールストランを一つの拠点とし、イタリア、ドイツ、フランスの各地と行き来しながら、《叫び》をはじめ《絶望》、《不安》などの連作〈生命のフリーズ〉を制作した。

 

最注目作の《叫び》(1910年?)は、版画を除き4点現存するうち後期に制作されたもの。画面の上3分の1は、真っ赤に渦巻く血のような空、フィヨルドの湾には舟が2艘浮かび、湾を取り囲むように、黒っぽい紺色の陸地がうねる。桟橋の遠くに二人の人影、手前にはミイラのような人物が、悲痛な面持ちで、口をゆがめて叫んでいる。構図は同じだが、初来日の《叫び》は唯一、人物の目玉が描かれていないのと、色調がやや明るいのが特徴だ。

 

《叫び》(1910年?)エドヴァルド・ムンク、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

エドヴァルド・ムンク《叫び》(1910年?)、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

《叫び》と同じ構図の中に描かれた、《絶望》(1894年)は目のくぼんだ男性が描かれ、《不安》(1896年)は町の人の群れを捉え、メランコリックな人間の感情を劇的に映し出している。ムンク芸術の真髄でもある〈生命のフリーズ〉を構成する一作だ。

 

《絶望》(1893-94年)エドヴァルド・ムンク、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

エドヴァルド・ムンク《絶望》(1893-94年)、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

 

ムンクは人妻との恋や、結婚を求められた女性と騒動になり、銃が暴発し左手中指の一部を失った事件もあるが、「芸術家は孤独でなければならない」と生涯独身を貫いた。《月明かり、浜辺の接吻》(1914年)は、月光の下、浜辺で抱き合う男女の姿が官能的に描かれている。ムンクは、愛のテーマの一つである「接吻」のほか、「吸血鬼」や「マドンナ」などを主題に繰り返し作品を制作した。

 

《月明かり、浜辺の接吻》(1914年)エドヴァルド・ムンク、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

エドヴァルド・ムンク《月明かり、浜辺の接吻》(1914年)、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

 

ムンクの女性観を反映した作品に《生命のダンス》(1925年)がある。月下、夏の夜の海岸で何組かの男女がダンスに興じているが、手前の3人の女性の服装に注目だ。白いドレスの女性は清純さ、赤いドレスの女性は性愛、黒いドレスの女性は生命の終焉を表しているという。

 

《生命のダンス》(1925年)エドヴァルド・ムンク、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

エドヴァルド・ムンク《生命のダンス》(1925年)、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

 

53歳になったムンクは、クリスチャニア西郊のエーケリーに居を構え、余生のほとんどをここで創作に費やす。《星月夜》(1922-24年)は、自邸から眺めた風景を描いたもので、画面下の黒い人は画家自身と思われる。《自画像、時計とベッドの間》(1940-43年)は最晩年の作。画面右になぜか裸婦が描かれ、ベッドの色も明るいが、時計に針は無く、死を間際に迎えた心境が窺える。

 

《星月夜》(1922-24年)エドヴァルド・ムンク、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

エドヴァルド・ムンク《星月夜》(1922-24年)、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

《自画像、時計とベッドの間》(1940-43年)エドヴァルド・ムンク、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

エドヴァルド・ムンク《自画像、時計とベッドの間》(1940-43年)、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

 

このほか、《赤い蔦》(1898-1900年)、《疾駆する馬》(1910-12年)、《太陽》(1910-13年)、《二人、孤独な人たち》(1933-35年)などの代表作も出品されていて、味わい深い。

 

左)《赤い蔦》(1898-1900年)   右)《疾駆する馬》(1910-12年) エドヴァルド・ムンク、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

エドヴァルド・ムンク左)《赤い蔦》(1898-1900年)、右)《疾駆する馬》(1910-12年)
オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

左)《太陽》(1910-13年)    右)《二人、孤独な人たち》(1933-35年)エドヴァルド・ムンク、オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

エドヴァルド・ムンク左)《太陽》(1910-13年)、右)《二人、孤独な人たち》(1933-35年)
オスロ市立ムンク美術館所蔵、All Photographs ©Munchmuseet

 

思えば20年以上前の1996年秋、オスロ市立ムンク美術館を訪れた。ムンクの作品は1993年に大阪の出光美術館(2003年閉館)の「ムンク展」で、《叫び》(1893年、オスロ国立美術館蔵)や、《絶望》、《不安》(いずれもオスロ市立ムンク美術館)などの代表作を見ていただけに、人間の魂を揺さぶる画家の生まれ育った土地で、ムンクの作品を鑑賞することがこの旅の楽しみの一つだった。

 

《叫び》が描かれたという場所も歩いてみた。ムンクによれば、市内のエケベルグを歩いていた時に突然、空が「血の色のように赤く」染まり、完全な孤独を感じ、身を焦がすほどの自然の叫びを聞いたという。この幻覚をそのまま絵筆に託したそうだ。白夜、海辺のさびしい街を歩いていると、それは現実だったのではないかと思えた。ムンクの数々の作品との再会に、感懐も一入だ。

京都国立近代美術館「後50年 藤田嗣治展」
「乳白色の裸婦」ずらり、約120点が一堂に

明治半ばの日本に生まれた藤田嗣治は、20代後半にパリへ渡り、エコール・ド・パリを代表する画家として華々しく活躍した。人生の半分以上をフランスで暮らし、晩年にはフランス国籍を取得し、フランスに帰化後に洗礼を受けレオナール・フジタと称した。文字通り「世界のフジタ」は、この世を去って50年の節目を迎えた。その記念展とあって、藤田の代名詞である「乳白色の裸婦」10点以上が一堂に並び、初来日作品を含め120点を超す最大規模の回顧展となった。

 

藤田展は、君代夫人が作品の掲載を認めなかったため、長い間実現不可能だった。2006年になって、藤田の生誕120年を期して「藤田嗣治展」が東京・京都国立近代美術館、広島県立美術館で巡回開催された。その後は没後40年「レオナール・フジタ展」(2008~09年)、藤田嗣治渡仏100周年記念「レオナール・フジタとパリ 1913-1931」(2013~14年)、「生誕130年記念 藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画」(2016年)などが開催されている。今回は東京都美術館に続いての開催で、京都では12年ぶりだ。

 

展示構成は、ほぼ時系列に「原風景―家族と風景」、「はじまりのパリ―第一次世界大戦をはさんで」、「1920年代の自画像と肖像―『時代』をまとうひとの姿」、「『乳白色の裸婦』の時代」、「1930年代・旅する画家―北米・中南米・アジア」、「『歴史』に直面する―作戦記録画へ」、「戦後の20年―東京・パリ・ニューヨーク」、「カトリックへの道行き」の8章となっている。

 

藤田は、東京の陸軍一等軍医の末っ子に生まれ、幼少から画家を志す。東京美術学校西洋画科で黒田清輝に師事。1913年、26歳でパリにわたった藤田は、当時の画家たちが集まっていたセーヌ河左岸のモンパルナスに住み、風景画や静物画、人物画などを描いた。そしてピカソやモディリアーニらと交友する。

 

《私の部屋、目覚まし時計のある静物》(1921年、フランス・ポンピドゥー・センター蔵)は、パリの自室にある愛用品のみで自身を象徴させた作品。日本の帝展に送られ、母国での本格的なデビュー作となった。

 

藤田嗣治《私の部屋、目覚まし時計のある静物》(1921年、フランス・ポンピドゥー・センター蔵)Photo © Centre Pompidou, MNAM-CCI, Dist. RMN-Grand    Palais / Jean-Claude Planchet / distributed by AMF (C) Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833

藤田嗣治《私の部屋、目覚まし時計のある静物》(1921年、フランス・ポンピドゥー・センター蔵)Photo © Centre Pompidou, MNAM-CCI, Dist. RMN-Grand
Palais / Jean-Claude Planchet / distributed by AMF (C) Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833

 

1929年に17年ぶりに一時帰国する。《自画像》(1929年、東京国立近代美術館蔵)は、この年の第10回帝展への出品作。おかっぱ頭に丸眼鏡、ちょび髭、ピアスの個性的な風貌ながら、パリの画壇で寵児となった頃だ。これより先の作品に《エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像》(1922年、アメリカ・シカゴ美術館蔵)は、緻密な描写で人物表現の代表作とされる。

 

藤田嗣治《自画像》(1929年、東京国立近代美術館蔵) (C) Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833

藤田嗣治《自画像》(1929年、東京国立近代美術館蔵)
(C) Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833

藤田嗣治《エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像》(1922年、アメリカ・シカゴ美術館蔵) (C) The Art Institute of Chicago / Art Resource, NY (C) Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833

藤田嗣治《エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像》(1922年、アメリカ・シカゴ美術館蔵)
(C) The Art Institute of Chicago / Art Resource, NY
(C) Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833

 

1920年代のパリ、藤田は猫と女性を主な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、「乳白色の下地」に面相筆による黒く細い輪郭線で描く手法を考案する。独自の「乳白色の肌」と称された裸婦像は絶賛を浴びる。会場には《横たわる裸婦》(1922年、フランス・ニーム美術館蔵)や、《裸婦像、長い髪のユキ》(1923年、ユニマットグループ蔵)、《タピスリーの裸婦》(1923年、京都国立近代美術館蔵)などがずらり並ぶ。

 

「乳白色の裸婦」が並ぶ会場。右から《横たわる裸婦》(1922年、フランス・ニーム美術館蔵)、《裸婦像、長い髪のユキ》(1923年、ユニマットグループ蔵)、《タピスリーの裸婦》(1923年、京都国立近代美術館蔵)作品は全て藤田嗣治

「乳白色の裸婦」が並ぶ会場。右から《横たわる裸婦》(1922年、フランス・ニーム美術館蔵)、《裸婦像、長い髪のユキ》(1923年、ユニマットグループ蔵)、《タピスリーの裸婦》(1923年、京都国立近代美術館蔵)作品はいずれも藤田嗣治

 

サロン・ドートンヌで発表した《五人の裸婦》(1923年、東京国立近代美術館蔵)は、藤田が初めて試みた裸婦の群像表現の意欲作だ。150号に近い大作で、ベッドを前に、まさに乳白色の5人の裸婦がポーズを取る。夢のような構図にキジトラの猫と白い犬が配されている。数年前に修復を終えた大原美術館の《舞踏会の前》(1925年)も出品されていて、壮観だ。

 

手前が藤田嗣治《五人の裸婦》(1923年、東京国立近代美術館蔵)

手前が藤田嗣治《五人の裸婦》(1923年、東京国立近代美術館蔵)

 

このサイトでも画像をお見せしたいのだが、著作権の壁もあって制限された。著作権の保護期間は、著作者の死後50年で、来年1月に著作権が切れる。

 

1932年になって南米各地を回り、アメリカ経由で帰国する。沖縄や秋田、大阪、京都など国内各地を旅する。この時代、これまでとは違った筆致で《カーナバルの後》(1932年、公益財団法人平野政吉美術財団)や《夫人像(リオ)》(1932年、広島県立美術館)、《魚河岸》(1934年、下関市立美術館蔵)など多彩な作品を仕上げている。

 

満州事変に始まった日本の「15年戦争」下、藤田は陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出した。中でも《アッツ島玉砕》(1943年)は圧巻だ。銃剣と日本刀で米兵に襲いかかる戦闘の様子がリアルに描かれ、あの裸婦を描く藤田の巧みさと力量に驚く。《サイパン島同胞臣節を全うす》(1945年、いずれも東京国立近代美術館)も展示されている。

 

正面の藤田嗣治《アッツ島玉砕》(1943年)と、《サイパン島同胞臣節を全うす》(1945年、いずれも東京国立近代美術館)

正面の藤田嗣治《アッツ島玉砕》(1943年)と、《サイパン島同胞臣節を全うす》(1945年、いずれも東京国立近代美術館)

 

敗戦後、画壇から戦争協力者の烙印を押された藤田は、再びフランスへ。「日本画壇も国際水準に達することを祈る」の言葉を残し、日本を後にした。そして再び祖国の土を踏むことがなかった。有名な代表作《カフェ》(1949年、ポンピドゥー・センター蔵)は、女性のドレスなど黒の魅力が際立ち出色だ。額縁も藤田手製の模様で飾られている。習作素描の《カフェ》(1949年、熊本県立美術館蔵)も並ぶ。

 

藤田嗣治《カフェ》(1949年、ポンピドゥー・センター蔵)   Photo © Musée La Piscine (Roubaix), Dist. RMN-Grand Palais / Arnaud Loubry / distributed by AMF (C)Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833

藤田嗣治《カフェ》(1949年、ポンピドゥー・センター蔵)
Photo © Musée La Piscine (Roubaix), Dist. RMN-Grand Palais / Arnaud Loubry / distributed by AMF
(C)Fondation Foujita / ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2017 E2833

藤田嗣治《カフェ》(1949年、熊本県立美術館蔵)

藤田嗣治《カフェ》(1949年、熊本県立美術館蔵)

 

藤田は生涯5人の女性と結婚し奔放に生きる。晩年は、子どもを主題とした連作も手がける。《人形と少女》(1954年)や《小さな主婦》(1956年、いずれも個人蔵)などが展示されている。

 

1959年の洗礼後は、キリスト教をテーマにした制作に取り組む。《聖母子》(1959年、ランス大聖堂蔵[ランス美術館寄託])や《キリスト降架》(1959年、パリ市立近代美術館蔵)が目を引く。さらに《礼拝》(962-63年、パリ市立近代美術館蔵)には、藤田自身が修道士の服をまとい、君代夫人とともに祈りを捧げている姿が描き込まれている。

 

最晩年の1965年、自身の礼拝堂を建てるという夢に情熱を注ぎ、パリ郊外のランスにノートルダム・ド・ラ・ベ礼拝堂の設計および壁画制作を実現した。いまこの礼拝堂の小さな祭壇の下に、藤田は、2009年に98歳で亡くなった君代夫人とともに眠っている。

 

ところで、私は朝日新聞社企画部時代の2000年、藤田展開催に向け取り組んだ経緯がある。当時、藤田の展覧会は不可能というのが美術界の定説となっていた。「新世紀にあたって、20世紀が生んだ世界のフジタの全容を」が趣旨だった。君代夫人の著作権を日本側で管理している美術著作権協会に連絡を取った。理事長から前向きな意向が伝えられ、期待を抱いた。

 

理事長は君代夫人に会い、私どもの要請を伝え、早急に具体的な企画書を提出するよう求められた。一応の出展候補作品リストも出来上がり、理事長は再び君代夫人と会った。その際「今の若い人たちの中には藤田の絵を知らない人もいる。新世紀に、朝日新聞社が展覧会を計画しているのは大きなチャンス」と、口添えしてもらった。しかし夫人は首を縦に振ることはなく、再考を促すにとどまった。

 

今回の回顧展を感慨深く鑑賞するとともに、改めて藤田という画家の表現力の確かさ、独創性、幅の広さ、複雑さを感じた。そして無名だった一人の画家が憧れのパリで、どのようにして道を切り拓いた足跡をたどることができた。日本の近代でただ一人、国際的に通用した藤田は、戦争も国境も時代も超え、「世界のフジタ」となりえた。