清澄で深い情感をたたえた風景画により、戦後の日本画の世界に大きな足跡を残し国民的画家とも謳われた東山魁夷の画業の全貌をたどる大回顧展が京都と東京で開催される。「生誕110年 東山魁夷展」は、京都国立近代美術館で10月8日まで、その後10月24日から12月3日まで国立新美術館に舞台を移す。日本人の自然観や心情までも反映した普遍性を有するとして評価される東山芸術。その記念碑的大作ともいえる奈良・唐招提寺御影堂の障壁画(襖絵と床の壁面全68面)を再現展示するなど、美術愛好者ならずとも必見の展覧会だ。

 

日展を舞台に活躍、風景画に新境地

東山魁夷ポートレート(1984年・75歳)撮影:日本経済新聞社

東山魁夷ポートレート(1984年・75歳)撮影:日本経済新聞社

 

 

絵になる場所を探すという気持を棄てて、

ただ無心に眺めていると、相手の自然のほうから、

私を描いてくれと囁きかけているように感じる風景に出会う。

その、何でもない一情景が私の心を捉え、私の足を止めさせ、

私のスケッチブックを開かせるのである。

東山魁夷画文集『風景との対話』(1967年、新潮社)

 

 

 

東山魁夷(1908-1999)は、横浜に生まれるが、船具商を営んでいた父の仕事の関係で3歳の時に神戸へ転居。兵庫県立第二神戸中学校(現兵庫高校)在学中から画家を志し、東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科へ進学する。卒業後、ドイツに留学するが、父の危篤で帰国する。肉親の相次ぐ死や、太平洋戦争で応召といった試練もあったものの、風景の美しさに開眼。戦後は主に日展を舞台に活躍した。自然と真摯に向き合い、思索を重ねて磨かれた芸術世界の評価は高い。文章家でもあり画文集など、著作は数多く、川端康成とも親交が深かった。

 

手元の資料から画業を振り返ってみる。戦後、1947年の第3回日展で《残照》が特選を得たことを契機に、風景を題材に独自の表現を追求した。1950年の第6回日展で発表した《道》は、画面構成を単純化し、風景画の新境地を拓いた。北欧、ドイツ、オーストリア、中国にも取材し、風景画の名作を数多く発表した。1960年に東宮御所、68年には皇居新宮殿の障壁画を担当した。さらに70年に入って唐招提寺御影堂に襖絵と床の壁面全68面から成る障壁画を完成したのだった。

 

私の本棚にも何冊もの図録と画文集、著書が並ぶ。1980年、唐招提寺に第2期障壁画が完成した際、お寺で求めた図録も所持している。私が新聞社で美術に関わり始めた頃から、関西の美術館での東山魁夷展に足を運び、その都度、図録などを入手しているのだが、2004年に兵庫県立美術館で開催された『東山魁夷 ひとすじの道』で途切れている。「生誕100年記念展」は東京国立近代美術館での開催だったため、見逃していた。それだけに私にとっても久々の回顧展に期待を寄せていた。

 

代表作の《残照》《道》など名作の数々

今回の展覧会は生誕110年でもあり、東京では10年ぶり、京都では30年ぶりに開催される本格的な回顧展となる。代表作である《残照》《道》をはじめ、ヨーロッパや京都の古都の面影を描いた風景画など、本画約70点と習作、合わせて約80点の作品が出品される。展示はほぼ時系列に6章で構成されており、それぞれの主な作品を取り上げる。

 

1章が「国民的風景画家」。東山は終戦前後に、父母や弟を亡くし、妻以外の身寄りを失い、空襲によって自宅も失い、人生のどん底にいた。写生のために千葉県鹿野山の山頂に座り、沈みゆく太陽が、遙かに連なる峰々を刻一刻と様々な色に染めていくさまを見つめながら着想を得て、《残照》(1947年、東京国立近代美術館蔵)が描かれた。

 

東山魁夷《残照》(1947年、東京国立近代美術館蔵)

東山魁夷《残照》(1947年、東京国立近代美術館蔵)

この作品について、東山は『風景との対話』で、「光の明暗と、大気の遠近による諧調、嶺々の稜線が作り出す律動的な重なり合いがこの作品を構成する要素であるが、それによって表わそうと希ったものは、当時の私の心の反映、私の切実な祈り、索莫の極点での自然と自己との緊密な充足感とも云うべきものであった」と、記している。

 

《残照》で自ら進むべき方向に気づいた東山は、《道》(1950年、東京国立近代美術館蔵)によって、画家として生き方を見定めた。画面中央に手前から奥に真っ直ぐに延びる一本の道の両脇に広がる草地。道の行く先は明るく表現されていて、終戦から5年を経て、多くの人たちにも希望と共感を与えた。シンプルな構図で奥深い心象風景まで表現した作品は、戦後の日本の歩みを象徴する記念碑的な作品となった。

 

東山魁夷《道》(1950年、東京国立近代美術館蔵)

東山魁夷《道》(1950年、東京国立近代美術館蔵)

 

この章には、日本中を写生して回り、写生地の特徴を残しつつも普遍化された東山の作品が並ぶ。群馬県利根郡みなかみ町の法師温泉で描いた《秋翳》(1950年、東京国立近代美術館蔵)は、《道》同様にシンプルな構図だが、冬を目前に生命の限りを尽くし紅葉に染める山を捉えている。福島県猪苗代町の翁島を舞台にした《萬緑新》(1961年、宮内庁蔵)は、杉木立を映す湖水が、目と心に優しい。昭和天皇思い出の地で、吹上御所玄関ホール階段踊り場に飾るために注文された作品だ。

 

東山魁夷《秋翳》(1950年、東京国立近代美術館蔵)

東山魁夷《秋翳》(1950年、東京国立近代美術館蔵)

東山魁夷《萬緑新》(1961年、宮内庁蔵)

東山魁夷《萬緑新》(1961年、宮内庁蔵)

 

東山は1962年、北欧の旅に出ており。2章は「北欧を描く」。北欧の風景は想像どおりで、帰国後連作を発表する。《映象》(1962年、東京国立近代美術館蔵)は、スウェーデンのノルディンググローの早朝に出会った不思議な光景だ。白く浮かび上がるシラカバの樹形が湖面に映り、上下に神秘的な世界を醸し出していたそうだ。

 

東山魁夷《映象》(1962年、東京国立近代美術館蔵)

東山魁夷《映象》(1962年、東京国立近代美術館蔵)

 

《冬華》(1964年 東京国立近代美術館蔵)は、霧氷に覆われた半円形の大きな一本の樹を前面に、雪野原の鈍く光る太陽。白一色の夢幻的な光景は、実際の風景をスケッチしたのではなく、静かで清澄な自然と触れ合った東山が北欧の旅を投影した作品で、これまでも何度か鑑賞しているが、印象深い。

 

東山魁夷《冬華》(1964年 東京国立近代美術館蔵)

東山魁夷《冬華》(1964年 東京国立近代美術館蔵)

 

3章は「古都を描く・京都」。北欧から帰国後、日本古来の文化の粋が集まる京都を描くことに着手する。《花明り》(1968年、株式会社大和証券グループ本社蔵)は、祇園の円山公園の枝垂れ桜の上空に輝く月は、《冬華》と同じような構図ながら、趣が異なる。月と桜と画家が心を通わせたような作品に仕上がっている。

 

東山魁夷《花明り》(1968年、株式会社大和証券グループ本社蔵)

東山魁夷《花明り》(1968年、株式会社大和証券グループ本社蔵)

 

京都の洛北を描いた《春雪》(1973年、千葉県立美術館蔵)は、夜来の雪が降り止んで清々しい麻の作品、東山は著書の中で、「雪はこの山路を白と青に染め分けた」との感想を書きとどめている。

 

東山魁夷《春雪》(1973年、千葉県立美術館蔵)

東山魁夷《春雪》(1973年、千葉県立美術館蔵)

 

4章は「古都を描く・ドイツ、オーストリア」とあるが、なぜかオーストリアの作品は見当たらない、京都シリーズを公表した翌年の1969年、東山は、ドイツ、オーストリアへと旅立つ。ドイツは東京美術学校卒業後から約2年間留学していて、東山にとって懐かしい町だった。

 

《晩鐘》(1971年、北澤美術館蔵)は、ドイツのフライブルクの高台から旧市街を見下ろした光景だ。大聖堂の尖塔のシルエットを画面中央に、上空に雲間から射す光を、地上には人々の住む建物を描き、心に響く風景だ。《丘の上のローテンブルク》(1971年)なども展示されている。いずれも「人間は自然の一部」と考える東山の心情が満ち溢れている。

 

東山魁夷《晩鐘》(1971年、北澤美術館蔵)

東山魁夷《晩鐘》(1971年、北澤美術館蔵)

東山魁夷《丘の上のローテンブルク》(1971年)

東山魁夷《丘の上のローテンブルク》(1971年)

記念碑的な唐招提寺障壁画を再現

東山は1971年、唐招提寺より開山・鑑真和上の像を安置する御影堂障壁画の制作と、御厨子内部装飾の依頼を受ける。鑑真は、大和朝廷の要請を受け、5度の渡航失敗を経て失明するも、6度目にして漸く日本の地に辿りつく。鑑真が見たかったであろう日本の風景を描き出した《山雲》など、襖絵と床の壁面全68面から成る障壁画は、構想から完成までに10年を要した記念碑的大作となる。

 

唐招提寺御影堂障壁画のうち、東山魁夷《山雲》(部分、1975年、唐招提寺蔵)

唐招提寺御影堂障壁画のうち、東山魁夷《山雲》(部分、1975年、唐招提寺蔵)

 

5章の「唐招提寺御影堂障壁画」は、障壁画を寺から外し、再現展示している。御影堂の修理に伴い、今後数年間は現地でも見ることができないため、貴重な展示機会となる。制作にあたっては、多くの日本の山と海を写生し、絵画化もしていたにもかかわらず、改めて日本中を取材して回ったという。また、中国の取材は日中平和友好条約前であったため難航したが、3年に亘って3度訪問し、目的を達成した。

 

東山魁夷《山雲》(部分)の再現展示

東山魁夷《山雲》(部分)の再現展示

 

制作は2期に分け、第1期の仕事として、上段の間床及び違棚の貼付絵と襖絵に《山雲》を、宸殿の間襖絵に《濤声》をに、それぞれ描き、1975年に奉納する。《山雲》に、とめどもなく湧き上がる雲煙を、《濤声》には、海にそそり立つ岩を乗り越えるなみしぶきを、壮大なスケールで描いた。

 

唐招提寺御影堂障壁画のうち、東山魁夷《濤声》(部分、1975年、唐招提寺蔵)

唐招提寺御影堂障壁画のうち、東山魁夷《濤声》(部分、1975年、唐招提寺蔵)

東山魁夷《山雲》(部分)の再現展示

東山魁夷《濤声》(部分)の再現展示

 

そして第2期に入り、東山は初めて墨を使い、和上の御厨子を取り囲む松の間に、鑑真の出身地である揚州の風景を襖に描いた《揚州薫風》を、両隣にあたる梅の間と桜の間には、中国の景勝地を代表する《桂林月宵》と、《黄山暁雲》をそれぞれ配した。最後に残った御厨子内部に、和上が初めて立った日本の土地である鹿児島の秋目浦風景を描いた《瑞光》を奉納した時は、構想から10年の歳月が流れていた。

 

東山魁夷《揚州薫風》(部分)の再現展示

東山魁夷《揚州薫風》(部分)の再現展示

東山魁夷《桂林月宵》(部分)の再現展示

東山魁夷《桂林月宵》(部分)の再現展示

東山魁夷《黄山暁雲》(部分)の再現展示

東山魁夷《黄山暁雲》(部分)の再現展示

 

私は、この障壁画を2期の完成以降、現地に3度、展覧会でも3度鑑賞している。後年、同じ西の京にある薬師寺の玄奘三蔵院に平山郁夫が「大唐西域壁画」を奉納しており、二人の画伯にとって集大成の業績であった。東山にとっても平山にとっても、それぞれの芸術の頂点であり、金字等といえる。

 

この章で紹介さている《緑響く》(1982年、長野県信濃美術館東山魁夷館蔵)は、長野県茅野市の蓼科高原の風景で「白い馬の見える風景」の連作で、東山の代表的なシリーズだ。《緑響く》の10年前に描いた《草青む》や《白馬の森》(ともに長野県信濃美術館東山魁夷館蔵)も出品されている。

 

東山魁夷《緑響く》(1982年、長野県信濃美術館東山魁夷館蔵)

東山魁夷《緑響く》(1982年、長野県信濃美術館東山魁夷館蔵)

 

最後の6章は、「心を写す風景画」。《唐招提寺障壁画》を完成させた東山は、描くことは「祈り」であり、そこにどれだけ心をこめられたかが問題で、うまい下手はどうでもいいことなのだと思うに至ったという。それまでに見つめてきた無数の風景と描いてきたスケッチをもとに、迷いなく制作を続ける。そうして生み出された作品は、特定の地から離れ、自らの心の中に形作られた風景を描いたものとなる。

 

《白い朝》(1980年、東京国立近代美術館蔵)は、自宅の庭の樹に降り積もった白一面の雪景色に一羽の鳥の黒色が際立つ。唐招提寺の大仕事を終え、静謐な画面に安堵と感謝の心を託したような作品に見受ける。

 

東山魁夷《白い朝》(1980年、東京国立近代美術館蔵)

東山魁夷《白い朝》(1980年、東京国立近代美術館蔵)

 

《行く秋》(1990年、長野県信濃美術館東山魁夷館蔵)は、地面いっぱいに散り敷き詰められたカエデの鮮やかな黄葉の間に黒い幹が何本も見える。ドイツ北部で見た風景を題材にしている。晩秋期に入った東山の心と通じ合ったのだろう。最晩年の《夕星》(1999年、長野県信濃美術館東山魁夷館蔵)は、夜空に浮かぶ星空の下に立つ4本の木が、東山にとって脳裏に浮かんだ忘れがたい風景だったのか、この作品が絶筆となった。

 

東山魁夷《行く秋》(1990年、長野県信濃美術館東山魁夷館蔵)

東山魁夷《行く秋》(1990年、長野県信濃美術館東山魁夷館蔵)

東山魁夷《夕星》(1999年、長野県信濃美術館東山魁夷館蔵)

東山魁夷《夕星》(1999年、長野県信濃美術館東山魁夷館蔵)

 

この作品について、没後に発行された『素顔の芸術家 東山魁夷―大いなる自然への祈り』(2003年、ビジョン企画出版社)の中で、東山の言葉として次のように語られている。

 

これは何処の風景というものではない。そして誰も知らない場所で、実は私も行ったことがない。つまり私が夢の中で見た風景である。

私は今迄ずいぶん多くの国々を旅し、写生をしてきた。しかし、或る晩に見た夢の中の、この風景がなぜか忘れられない。

たぶん、もう旅に出ることが無理な我が身には、ここが最後の憩いの場になるのではとの感を胸に秘めながら筆を進めている。

 

東山は1990年、90歳の生涯を閉じる。遙かに信濃の山々を望む善光寺大本願霊廟花岡平の墓所から見える風景に、絶筆の作品が良く似ているという。