「夢二繚乱」とは、東京ステーションギャラリーで7月1日まで開催中の展覧会のタイトルだ。「百花繚乱」をもじって名づけたと思われるが、過去最大級となる500点以上の展示で、まさに夢二満載だ。その「量」だけ誇っているのではなく、19歳の夢二が制作した外国文学の翻案と創作、また数点の挿絵を含む画文集『揺籃』や、半生を綴った自伝小説『出帆』の挿絵原画を初公開し、「質」も見ごたえたっぷりなのだ。今回は、一世を風靡し、なおも根強い人気の「夢二ワールド」へのお誘いだ。

故郷に生家保存、記念館各所に

竹久夢二(1884-1934)は、大正ロマンを代表する画家だ。「夢二式美人」と呼ばれる数多くの抒情的な美人画を残した。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描き、詩、歌謡、童話なども創作。なかでも詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。さらに書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの分野でも活躍した。

 

明治から大正、昭和と三時代を生きたが、わずか50年の生涯だった夢二。16歳まで過ごし、その芸術の原点ともいえる生家が岡山県・邑久にある。朝日新聞企画部に在籍していた私は、この近くの牛窓に窯のある備前の森陶岳さんの展覧会を企画し、開催したため、何度も生家にも立ち寄った。茅葺の家はそのまま保存され、家に上がると素描や版画が展示されていた。入り口には有島生馬の筆で「竹久夢二ここに生る」との碑が建てられている。

 

竹久夢二の肖像写真が掲げられている夢二郷土美術館本館(〒703-8256岡山市中区浜2丁目1-32)の展示室(夢二郷土美術館提供)。夢二の肉筆作品の随一の所蔵を誇る

竹久夢二の肖像写真が掲げられている夢二郷土美術館本館(〒703-8256岡山市中区浜2丁目1-32)の展示室(夢二郷土美術館提供)。夢二の肉筆作品の随一の所蔵を誇る

 

漂泊の詩画人・夢二は住まいを転々としているが、晩年に自ら設計しアトリエにした東京・松原の「少年山荘」も生家近くに復元されていた。この名は「山静かにして太古に似たり。日の長きこと少年の如し」という中国の詩からとって名づけたとパンフレットにあった。生涯をたどる記録を写真パネルで展示し、絵筆や絵の具などの遺品も置かれていた。

 

夢二郷土美術館分館として公開されている復元の少年山荘(〒701-421瀬戸内市邑久町本庄、夢二郷土美術館提供)

夢二郷土美術館分館として公開されている復元の少年山荘(〒701-421瀬戸内市邑久町本庄、夢二郷土美術館提供)

 

短い生涯だったにもかかわらず、自然の中にさすらい、永遠の女性美を純粋に求めた天才画家のロマンに満ちた人生は、通勤に明け暮れ平々凡々に生きる私たちにとって、憧れの存在であり、時代を超えて共感を呼ぶことになる。私も機会あるごとに展覧会で、夢二作品を追った。

 

本棚の図録から調べると、2004年に生誕120年記念「竹久夢二展」を大阪のなんば高島屋で、2007年には「竹久夢二展―描くことが生きること―」を和歌山県立近代美術館で、2011年にも川西英コレクション収蔵記念展「夢二とともに」を京都国立近代美術館で鑑賞している。さらに夢二作品を展示している記念館にも足を運んだことがある。記念館は岡山はじめ伊香保、金沢、東京にもある。

手書きの画文集、自伝小説初公開

さて今回の展覧会は、東京都千代田区九段南にある出版社・龍星閣の創業者・澤田伊四郎が収集した美術作品約700点、資料500点という膨大な夢二コレクションが千代田区に寄贈されたことを記念しての企画だ。龍星閣は、高村光太郎の『智恵子抄』の版元として知られ、戦後は竹久夢二の画集を次々と出版し、第二次夢二ブームを牽引した存在でもあった。

 

展示は4章構成(特記のないものはすべて千代田区教育委員会蔵)。第1章は「夢二のはじまり」で、夢二は学生時代、新聞や雑誌に絵や詩を投書して生活の糧としていた。転機となったのは、1905(明治38)年6月に『中学世界』夏期増刊「青年傑作集」へ投書したコマ絵「筒井筒」が第一賞に入選し、1909年に『夢二画集 春の巻』を刊行したことだ。

 

これより先、早稲田実業学校に在学中の1903年、手書きの画文集『揺籃(ようらん)』を制作していた。夢二19歳の肉筆作品で、今回が初公開という。推敲の跡も生々しいこの試作からは、豊かな才能と、自分の創作を世に問いたいという強い願望が感じられる。

 

左)画文集『揺籃』の表紙(1903年、千代田区教育委員会蔵) 右)『揺籃』の頁中

左)画文集『揺籃』の表紙(1903年、千代田区教育委員会蔵)         右)『揺籃』の頁中

 

『夢二画集 春の巻』は、洛陽堂から出版され版を重ねた。序文には、もともと詩人を志していたことや、従来の形式にとらわれない自由画だといった、姿勢が語られている。この画集を見た恩地孝四郎が夢二にファンレターを出し、交流が始まる。画集は、『夏の巻』『秋の巻』『冬の巻』『花の巻』『旅の巻』『野に山に』『都会の巻』と8巻にも及び、いずれも出品されている。

 

『夢二画集 春の巻』(1910年頃、千代田区教育委員会蔵)

『夢二画集 春の巻』(1910年頃、千代田区教育委員会蔵)

『夢二画集 秋の巻』(1910年、千代田区教育委員会蔵)

『夢二画集 秋の巻』(1910年、千代田区教育委員会蔵)

 

この章では、優雅な女性像を描いた最初期の《月見》(1907年頃)や、《月の出》(1906年)と《故郷の秋》(1909年、ともに夢二郷土美術館蔵)など、若い時代の夢二の姿を初期の作例を通して紹介すると同時に、どのように画家として歩み始めたのか、夢二の原点に迫っている。

 

左)《月見》(1907年頃、千代田区教育委員会蔵) 右)《月の出》(1906年、夢二郷土美術館蔵)

左)《月見》(1907年頃、千代田区教育委員会蔵)        右)《月の出》(1906年、夢二郷土美術館蔵)

《故郷の秋》(1909年、夢二郷土美術館蔵)

《故郷の秋》(1909年、夢二郷土美術館蔵)

 

第2章は「可愛いもの、美しいもの」。1914(大正3)年10月、日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」が開店する。夢二が正式に結婚した唯一の女性である岸たまきが主人を務めた港屋は、夢二がデザインした千代紙、便箋や封筒、祝儀袋から風呂敷、帯、浴衣など庶民の暮らしを彩るオリジナル商品を販売するブランドショップだった。恩地や田中恭吉ら若い芸術家たちが集い、港屋は作品を発表できるギャラリーでもあった。

 

《港屋絵草紙店》(1914年、千代田区教育委員会蔵)

《港屋絵草紙店》(1914年、千代田区教育委員会蔵)

 

この時期には、しなやかな体に色香漂う「夢二式美人」のスタイルができた。夢二は美人画にとどまらず多方面にわたって活動を展開させた。とりわけ夢二の創作活動は、出版と深い関わりをもっていた。自身の画集をはじめ、絵葉書、雑誌の表紙や挿絵、本の装幀、楽譜集、子どものための絵本など多彩な足跡をたどっている。

 

《文楽人形》《一座の花形》《小春》(左から、いずれもみなとや版1914-16年、千代田区教育委員会蔵)の展示

《文楽人形》《一座の花形》《小春》(左から、いずれもみなとや版1914-16年、千代田区教育委員会蔵)の展示

 

ここでは夢二が開いたみなとや版の《港屋絵草紙店》(1914年)はじめ、舞台宣伝用の《文楽人形》《一座の花形》《小春》(いずれも1914-16年)、掛軸の《たびの女》(1915年頃)《盆燈籠》(1918年頃)《白木蓮と乙女》(1919年頃)、さらには作品《秋》(1920年頃)が並ぶ。柳や版の《宝船》(1920年)、デザイン作品の《大椿》(1914-16年)など多種多様な作品が楽しめる。

 

《たびの女》(1915年頃)《盆燈籠》(1918年頃)《白木蓮と乙女》(左から、いずれも千代田区教育委員会蔵)

《たびの女》(1915年頃)《盆燈籠》(1918年頃)《白木蓮と乙女》(1919年頃)(左から、いずれも千代田区教育委員会蔵)

《白木蓮と乙女》(1919年頃、千代田区教育委員会蔵)

《白木蓮と乙女》(1919年頃、千代田区教育委員会蔵)

左)《大椿》(1914-16年、千代田区教育委員会蔵) 右)各種デザイン作品の展示

左)《大椿》(1914-16年、千代田区教育委員会蔵) 右)各種デザイン作品の展示

 

第3章は「目で見る音楽」で、夢二が描いた大正時代の豊かな音楽の世界を展開。代表的なのは、セノオ音楽出版社より発刊されたセノオ楽譜で、夢二は日本や世界各国の楽曲のイメージを様々なジャンルの要素を取り入れたデザインで表現した。任されたジャケットの数は270点余にも及ぶ。高い展示壁に数多くの楽譜の表紙が一覧展示されているのは壮観だ。

 

セノオ楽譜の表紙の一覧展示

セノオ楽譜の表紙の一覧展示

 

その装丁は得意の和装美人や洋装の少年少女像のほか、抽象的なものまで多岐にわたり、タイトル文字も図案化された。夢二の制作は表紙だけでなく、「宵待草」や「別れし宵」「かなしみ」など自ら作詞を手がけたものも。

 

こうしたセノオ楽譜の原画は残念ながら数が少なく、龍星閣コレクションには7点残存している。その1点《ロリタ》(1923年)は、グラフィックなデザインのパステル画だ。《雲雀》(1924年)の女性の髪はペンで丁寧に描かれた線が目を引く。原画には、制作過程の痕跡が認められ興味深い。

 

セノオ楽譜《ロリタ》原画(1923年、千代田区教育委員会蔵) 右)セノオ楽譜《雲雀》原画(1924年、千代田区教育委員会蔵)

セノオ楽譜《ロリタ》原画(1923年、千代田区教育委員会蔵) 右)セノオ楽譜《雲雀》原画(1924年、千代田区教育委員会蔵)

 

さらに夢二は童謡をはじめ小唄集、西洋のオペラ、ロシア民謡などにも積極的に参加した。とりわけ童謡は大正時代、『金の星』『赤い鳥』『コドモノクニ』などの児童雑誌に発表された。金の星童謡曲譜第6集の表紙にも、夢二らしい『子守唄』(1924年)の作品が登場。このほか『婦人グラフ』などの表紙にも「夢二式美人」が描かれている。

 

金の星童謡曲譜第6集『子守唄』(1924年、千代田区教育委員会蔵)

金の星童謡曲譜第6集『子守唄』(1924年、千代田区教育委員会蔵)

『婦人グラフ』第3巻第5号表紙(1926年、千代田区教育委員会蔵)

『婦人グラフ』第3巻第5号表紙(1926年、千代田区教育委員会蔵)

 

第4章は注目の「出帆」。1927(昭和2)年に都新聞で連載された『出帆(しゅっぱん)』は、夢二の半生を綴った自伝小説だ。挿絵には、彼の愛した女性たちや彼女たちと訪れた風景、あるいは抽象的な心理描写などが水墨で描かれている。

 

『出帆』原画(1927年、千代田区教育委員会蔵) 右)『出帆』原画(1927年、千代田区教育委員会蔵)

『出帆』原画(1927年、千代田区教育委員会蔵) 右)『出帆』原画(1927年、千代田区教育委員会蔵)

 

発表当時大きな話題となった『出帆』には、134点の挿絵が付けられていて、原画すべてが残されていた。今回の展覧会では、この挿絵原画全点を初めて公開している。
夢二円熟期の傑作挿絵といえる。

 

竹久夢二年譜に合わせた『出帆』原画の展示

竹久夢二年譜に合わせた『出帆』原画の展示

 

夢二は、『出帆』の連載後に海外へ旅立った。自ら新聞記事を切り抜いてまとめ、『出帆』の書籍化を友人らに託していた。刊行されたのは1940(昭和15)年、夢二の7回忌の記念としてのこと。恩地孝四郎が編集に携わり、アオイ書房より400部出版されたという。

 

『出帆』(1972年、龍星閣刊)の表紙(千代田区教育委員会蔵)

『出帆』(1972年、龍星閣刊)の表紙(千代田区教育委員会蔵)

龍星閣の著作

龍星閣の著作

 

この最後の章では、夢二と交流した人々や龍星閣が尽力した夢二の著作や画集の刊行を通して、夢二を見出し、支え、繋いだ出版についても再考している。今回、龍星閣コレクションを受け、展覧会を実現した千代田区立日比谷図書文化館文化財事務室の井上海学芸員は「出帆と深い関わりを持っていた夢二の多彩で豊かな創作活動を見てほしい」と話している。

郷愁と孤独、人の心をひきつける夢二

「夢二繚乱」展と同時期、神戸ファッション美術館では、「大正ロマン 昭和モダン―竹久夢二・高畠華宵とその時代―」展が同じく7月1日まで開かれている。叙情的な女性像で一世を風靡した竹久夢二に続き、高畠華宵や蕗谷虹児ら、甘美な少女像や少年像など独自の作風を展開して大正の大衆芸術を担う。昭和に入っても、岩田専太郎、中原淳一ら挿絵画家が、夢二の築いた叙情路線を引き継ぐ。このほか、北野恒富、鏑木清方、伊東深水、橋口五葉らの日本画、版画、挿絵原画、絵葉書、楽譜、装丁本などの作品約200点を展示している。

 

夢二の出品作品にしぼって取り上げると、《舞妓》《舞姫》(ともに大正末頃)の肉筆画や木版画、鉛筆画、オフセット印刷、楽譜、表紙絵など50点余が出品されている。大正から昭和初期にかけての30年間は、日本文化と西洋文化が交じり合い、明治の日本には見られなかった新しい大衆文化が花開いた時代だ。その先駆者が夢二であったことが頷ける。

 

「大正ロマン 昭和モダン」展に展示された肉筆画

「大正ロマン 昭和モダン」展に展示された肉筆画

 

私事だが、もう30年来、私の書斎の本棚の上に一枚の額絵が架けられている。夢二の版画《春まつ人》だ。当時、神戸・三宮の画廊に立ち寄った際に10数万円で求めたのだった。満開の梅の枝を背に古風な髪の物憂げな美しい女性が描かれた作品だが、「夢二」「春待つ」といった語感にも魅かれ衝動買いしたように思う。後になって、春になると嫁ぐ知人の女性をモデルに、夢二がお祝いに贈ったものだと知った。書斎は何度か所を移したが、「春まつ人」はいつもほのかな微笑を与え続けてくれている。

 

書斎の本棚の上に飾られた《春まつ人》の版画

書斎の本棚の上に飾られた《春まつ人》の版画

 

夢二が亡くなってから80年も過ぎ、印象派など西洋絵画展が目白押し、写実絵画や抽象絵画展が美術館や画廊にあふれる時代というのに、夢二の絵がなぜ人の心をひきつけるのだろうか。それは誰の心にも存在する郷愁や孤独感ではないだろうか。夢二は「絵を描き、詩を書き、いくつもの恋をし、旅をし、美しいものにあこがれ続けたにもかからず、なお満たされない心で若くして死んでしまった」という共感が大きい。

 

書斎の《春まつ人》をしみじみ眺めながら、どこかで誰かが言った「夢二の前に夢二なく、夢二の後に夢二なし」の言葉が、しみじみ思い起こされる。