京都国立近代美術館の会場ロビーに飾られたヒマワリ。初日の先着100   名にプレゼントされた

京都国立近代美術館の会場ロビーに飾られたヒマワリ。初日の先着100名にプレゼントされた

37歳で自ら命を絶った短い生涯で、画家としてはわずか10年ながら2000点もの作品を遺したゴッホは、19世紀を代表する巨匠となった。そのゴッホの名画にまたまた出合えた。今回のタイトルは「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」で、京都国立近代美術館で3月4日まで開催中だ。ゴッホは浮世絵から色彩や構図に影響を受けていたのは、これまで良く知られていたが、今回は日本美術に憧れていたゴッホと、没後そのゴッホを慕う日本の画家や文学者たちが終焉の地を巡礼していたことに焦点を当てた、オランダのファン・ゴッホ美術館との国際共同企画だ。日本初公開を含むゴッホ作品約40点と、同時代の画家の作品や浮世絵など50点余、さらに終焉の地に遺された日本人たちの資料約80点などによって、その実像を多角的に検証している。展覧会は北海道立近代美術館、東京都美術館を巡回し、日本での最終会場で、ファン・ゴッホ美術館でも開催される。

生前は無名、銃で自殺した数奇な生涯

フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)は、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた。画商グーピル商会に勤めていたこともあり、一時は聖職者を志したが、いずれも挫折し、画家を目指すことを決意する。以降はオランダのエッテンやハーグ、ニューネン、ベルギーのアントウェルペンと移り、4歳下の弟テオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画作を続けた。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ《画家としての自画像》(1887/88年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団] 蔵)

フィンセント・ファン・ゴッホ《画家としての自画像》(1887/88年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団] 蔵)

1886年、テオを頼ってパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。88年2月から南仏のアルルへ移住し、黄色い家をアトリエに、《ひまわり》や《夜のカフェテラス》などの名作を次々に生み出した。

 

芸術家たちの共同体を作ろうとポール・ゴーギャンを迎えての共同生活を試みたものの、次第に行き詰まり、「耳切り事件」を契機にたった2ヵ月で破綻した。以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した。

 

89年5月からはアルル近郊のサン=レミにある療養所に入所した。発作の合間にも《星月夜》など多くの風景画、人物画を描き続けた。90年5月、療養所を退所してパリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズに移り、画作を続けたが、7月に銃で自らを撃ち、2日後に死亡した。

 

私がゴッホ作品を初めて見たのは、1976年に今回と同じ会場の京都国立近代美術館だった。87年には安田火災(現損保ジャパン)が58億円もの巨費で、《ひまわり》(1889年)を購入しており、東郷青児美術館で公開された作品を見に出向いた。黄色を基調とした厚塗りで描かれた「一点見せ」は効果抜群で、鮮烈に脳裏に焼きついた。

 

そして2000年にオランダの旅で、アムステルダムにある国立ゴッホ美術館と、そこから東南東約80キロ先のクレラー=ミュラー美術館を訪ね、ゴッホの作品を満喫した。その後も日本で開催のゴッホ展には足を運んでいるが、見るごとに、ゴッホの境遇や生き方と密接に関わっていた作品に思いを深くする。

 

日本でのゴッホ展では、2002年秋の兵庫県立美術館に続いて、05年夏にも大阪の国立国際美術館でも鑑賞した。11年に名古屋市美術館で開かれたゴッホ展は、「こうして私はゴッホになった」との名サブタイトルが付けられ、いかにして独自の画風を確立したかに着目した構成だった。13年にも京都市美術館で鑑賞した。「世界の名画をこんな頻度で日本に持ち込んでいいものか」とさえ感じてしまうが、企画する側のコンセプトは異なっていた。

 

ゴッホは全生涯を通じても一枚の絵しか売れることはなく、ほとんど無名のままこの世を去った。生きた時代に評価されなかった作品を、ただ一人弟テオが支援し、遺族によって、作品の多くが書簡も含め管理された先見性に驚きと敬意を禁じえない。そうした数奇な生涯の画家ゆえ、新たな視点の展覧会「巡りゆく日本の夢」のテーマは興味が持てた。

浮世絵で創意、夢にまで見た憧れの日本

ゴッホ展の展示会場

ゴッホ展の展示会場

さて今回の展覧会は、ファン・ゴッホと日本との相互の関係を大きく分けて2部、5章で構成している。会場を入ると、冒頭に《画家としての自画像》(1887/88年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団] 蔵)が掲げられている。画架を前に筆を取る自画像で、パリ滞在中の最後期に描かれた。ゴッホはパリに移住して以降、約40点もの自画像を描き残す。印象派や浮世絵との出会いによる意識や画風の変化の他、モデルを雇う金がなかったためという理由が考えられている。

 

まず1部が「ファン・ゴッホのジャポニスム」。ゴッホが日本から如何なる影響を受け、如何なるイメージを抱いていたのか。国内外のコレクションから厳選したゴッホ作品と、同時代に生きた画家の作品や浮世絵などによって、その実像を検証する。

 

1部は4章からなっており、章ごとに主な作品を取り上げる。ゴッホは、パリで様々な刺激を受けながら、自らの絵画表現を模索する。そこで大きな役割を果たしたのが、日本の鮮烈な色彩で描かれた浮世絵だった。浮世絵版画を収集し、それを模写した油彩画を描き、構図や色彩を学び取っていく。ゴッホにとって、日本は創意の源であり、夢にまで見た理想郷であった。

 

1章の「パリ 浮世絵との出逢い」で、目を引くのが《花魁(溪斎英泉による)》(1887年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団] 蔵)だ。現地と大阪でも見ているが、何度見てもゴッホならでは色遣いでインパクトがある。溪斎英泉の《雲龍打掛の花魁》(1820-30年代、展示品は及川茂コレクション)の写しだが、単なる模写のレベルを超え独創的な表現力だ。水辺の風景を捉えた独自な図柄の額縁を配していて、右側に竹の幹、左側には2羽の鶴、上部に小船に乗る2人の姿、下部には蛙が描かれている。

 

左)フィンセント・ファン・ゴッホ《花魁(溪斎英泉による)》(1887年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団] 蔵) 右)溪斎英泉《雲龍打掛の花魁》(1820-30年代、及川茂コレクション)

左)フィンセント・ファン・ゴッホ《花魁(溪斎英泉による)》(1887年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団] 蔵)
右)溪斎英泉《雲龍打掛の花魁》(1820-30年代、及川茂コレクション)

この章の《カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガト-リ》(1887年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団] 蔵)は、浮世絵展も開いていた店の女主人を描いた作品だが、背景の壁に女性を描いた浮世絵が見える。会場には、歌川広重の《名所江戸百景》(1857年、中右コレクション)や、《五十三次名所図会》(1855年、及川茂コレクション)なども並ぶ。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ《カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガト-リ》(1887年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団])

フィンセント・ファン・ゴッホ《カフェ・ル・タンブランのアゴスティーナ・セガト-リ》(1887年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団])

2章の「アルル 日本の夢」では、日本初公開の《雪景色》(1888年、個人蔵)と、《アイリスの咲くアルル風景》(1888年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団] 蔵)が展示されている。テオへの書簡によると、「日本人画家たちが描いた冬景色のようだった」、「小黄色とスミレ色の花が一面に咲いた野原に取り囲まれた小さな町、まるで日本の夢のようだ」と、それぞれ書き記している。日本の版画から学んだ繊細な線描で、南仏と日本の風景を重ね合わせていたようだ。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ《雪景色》(1888年、個人蔵)

フィンセント・ファン・ゴッホ《雪景色》(1888年、個人蔵)

フィンセント・ファン・ゴッホ《アイリスの咲くアルル風景》(1888年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団])

フィンセント・ファン・ゴッホ《アイリスの咲くアルル風景》(1888年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団])


《種まく人》(1888年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団] 蔵)も、現地と名古屋で鑑賞していた。ミレーの《種まく人》(1850年、ボストン美術館蔵)を念頭に、構図は木の幹で画面を分断する歌川広重の《名所江戸百景/亀戸梅屋舗》(1857年)や《東海道五十三次/濱松》(1833-34年、展示品はいずれも中右コレクション)に着想を得たようだ。種まく人は巨大なレモン色の太陽に対しシルエットのように描かれ印象的だ。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ《種まく人》(1888年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団])

フィンセント・ファン・ゴッホ《種まく人》(1888年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団])

左)歌川広重《名所江戸百景/亀戸梅屋舗》(1857年、中右コレクション) 右)歌川広重《東海道五十三次/濱松》(1833-34年、中右コレクション、~2月12日)

左)歌川広重《名所江戸百景/亀戸梅屋舗》(1857年、中右コレクション)
右)歌川広重《東海道五十三次/濱松》(1833-34年、中右コレクション、~2月12日)

 

3章の「深まるジャポニスム」に、なじみの代表作《寝室》(1888年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団] 蔵)が出展されていた。芸術家の共同体を夢見て、アルルに居を構え、ゴーガンの到着を待つ自身の寝室を描く。自画像や自作を飾る簡素な室内は、明るい色彩によって表され、何よりも休息や睡眠を求めたのであろう。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ《寝室》(1888年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団])

フィンセント・ファン・ゴッホ《寝室》(1888年、ファン・ゴッホ美術館[フィンセント・ファン・ゴッホ財団])

この章の《ムスメの肖像》(1888年、プーシキン美術館蔵)と、日本初公開の《夾竹桃と本のある静物》(1888年、メトロポリタン美術館[ジョン・L・ローブ夫妻寄贈] 蔵)も、日本に関わる作品だ。ゴッホはピエール・ロティの小説『お菊さん』を読んでいて、アルルの少女をモデルに、小説の「ムスメ」の風貌になぞらえて肖像画を制作したとされる、この「ムスメ」の手に持たせているのが夾竹桃であり、小説の中でも少女と花が一緒に記述されている場面があるという。

 

《ムスメの肖像》(1888年、プーシキン美術館蔵、~2月12日)

《ムスメの肖像》(1888年、プーシキン美術館蔵、~2月12日)

《夾竹桃と本のある静物》(1888年、メトロポリタン美術館[ジョン・L・ローブ夫妻寄贈] 蔵)

《夾竹桃と本のある静物》(1888年、メトロポリタン美術館[ジョン・L・ローブ夫妻寄贈] 蔵)

《アルルの女》(1900年、ローマ国立近代美術館)と、《男の肖像》(1888年、クレラー=ミュラー美術館)の人物画は、浮世絵の美人画や大首絵に着想を得たのではと思える。三代歌川豊国の《三世岩井粂三郎の三浦屋の高尾》(1861年、及川茂コレクション)と、東洲斎写楽の《市川鰕蔵の竹村定之進》(1794年、株式会社ニトリ)と比較すれば、よく理解できる。

 

左)フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの女》(1900年、ローマ国立近代美術館) 右)フィンセント・ファン・ゴッホ《男の肖像》(1888年、クレラー=ミュラー美術館)

左)フィンセント・ファン・ゴッホ《アルルの女》(1900年、ローマ国立近代美術館)
右)フィンセント・ファン・ゴッホ《男の肖像》(1888年、クレラー=ミュラー美術館)

左)三代歌川豊国《三世岩井粂三郎の三浦屋の高尾》(1861年、及川茂コレクション) 右)東洲斎写楽《市川鰕蔵の竹村定之進》(1794年、株式会社ニトリ))

左)三代歌川豊国《三世岩井粂三郎の三浦屋の高尾》(1861年、及川茂コレクション)
右)東洲斎写楽《市川鰕蔵の竹村定之進》(1794年、株式会社ニトリ))

 

4章の「自然の中へ 遠ざかる日本の夢」に出品されている風景画で、晩年の1889年以降の作品は暗い色調が目立つ。《ポプラ林の中の二人》(1890年、シンシナティ美術館[メアリー・E・ジョンストン遺贈] 蔵)も日本初公開作品だが、小さく描かれた男女は暗い林の中に吸い込まれていくような雰囲気が漂う。

 

フィンセント・ファン・ゴッホ《ポプラ林の中の二人》(1890年、シンシナティ美術館[メアリー・E・ジョンストン遺贈] 蔵)

フィンセント・ファン・ゴッホ《ポプラ林の中の二人》(1890年、シンシナティ美術館[メアリー・E・ジョンストン遺贈] 蔵)

ゴッホ終焉の地を訪れた日本人芳名録3冊

2部は「日本人のファン・ゴッホ巡礼」。ゴッホは1890年、パリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズで亡くなる。そしてその後、今度は日本人がゴッホを賞賛し、理想化するようになった。 最晩年に交友を持ったオーヴェールの医師ガシェの一族のもとに、3冊の芳名録が残されていた。そこには1920年代から30年代にかけて憧れの画家の終焉の地を訪れ、その足跡をたどった日本の画家や文学者たち240名あまりの署名が記されていた。 まさに交差する夢の軌跡といえよう。

 

5章は「日本人のゴッホ巡礼」。ガシェ家芳名録の1冊目は、表紙に『芳名録 初編』(国立ギメ東洋美術館蔵)と記されている。署名は1922年3月9日から12月17日までで、26名が訪ねている。洋画家の中澤弘光や里見勝蔵の署名頁などがあり、関連の資料などが展示されている。

 

『芳名録』(国立ギメ東洋美術館蔵)とだけ記された芳名録の2冊目は、1922年12月17日から28年10月27日まで146名の署名がある。里見勝蔵と前田寛治が一緒に訪れ、ゴッホ兄弟の墓前にもお参りしている。前田はその晩、パリで描いたという《ゴッホの墓》(1923年、個人蔵)も展示されている。

 

《芳名録》(1922-28年、国立ギメ東洋美術館蔵)

《芳名録》(1922-28年、国立ギメ東洋美術館蔵)

 

『芳名録』(国立ギメ東洋美術館蔵)とだけ記された芳名録の2冊目は、1922年12月17日から28年10月27日まで146名の署名がある。里見勝蔵と前田寛治が一緒に訪れ、ゴッホ兄弟の墓前にもお参りしている。前田はその晩、パリで描いたという《ゴッホの墓》(1923年、個人蔵)も展示されている。

 

署名頁などの資料展示

署名頁などの資料展示

 

パリに在住し、ゴッホを崇拝していた佐伯祐三の署名頁もある。《オーヴェールの教会》(1924年、鳥取県立博物館蔵)が出品されているが、このほかにもゴッホが描いたアルルの跳ね橋やカフェのテラス、郵便配達夫などの作品もある。洋画家だけでなく、日本画家の橋本関雪もヨーロッパ旅行時に立ち寄っている。

 

佐伯祐三《オーヴェールの教会》(1924年、鳥取県立博物館蔵)

佐伯祐三《オーヴェールの教会》(1924年、鳥取県立博物館蔵)

 

精神科医で歌人の斎藤茂吉の署名頁や、『折本画帖/斎藤茂吉による短歌』(1924年、国立ギメ東洋美術館蔵)には「澄みとほりたる たましひの ゴオホが寝たる 床を見にけり」と歌われている。

 

3冊目の『芳名録』(国立ギメ東洋美術館蔵)には、表紙に日本語で「出頭没頭(しゅっとうぼっとう)」とポール・ルイ・ガシェ氏の手になると思われる題名が墨書されている。ここには1929年3月3日から39年12月3日まで、94名の署名がある。精神科医の式場隆三郎の名頁と著書『ファン・ゴッホの生涯と精神病』なども展示されている。

 

ガシェ家のものと異なる芳名録として、『「ファン・ゴッホ展 1929」の芳名録』(1929年、クレラー=ミュラー美術館蔵)には2750名余りの署名のうち、日本人21名も含まれていた。1939年開催のゴッホ展の展示風景写真も残されていて、当時の鑑賞の雰囲気を伝えている。

 

今回の展覧会の総合監修者の圀府寺(こうでら)司・大阪大学文学研究科教授は、「夢はそこで、画家の死によって断たれます。しかし、消え去ってはいなかった。数十年の時を経て、その夢にふれた日本の画家たちが今度はファン・ゴッホにふれることを夢見て、ファン・ゴッホ終焉の地オーヴェールに次々に巡礼に訪れ、芳名録に言葉や絵を残していきます。それは時空を越えて巡った夢の物語、日本の夢の生成と転生の物語と言ってよいでしょう」とのメッセージを寄せている。

 

京都展限定企画として、4階のコレクション・ギャラリーに「森村泰昌、ゴッホの部屋を訪れる」のコーナーを設け、ほぼ原寸大のレプリカ《ゴッホの寝室》を展示している。森村は大阪を拠点に活躍する現代美術家で、自らの身体を使って西洋名画や著名人に扮した写真による自画像シリーズで知られ、未出品ながら《肖像(ゴッホ)》(1985年 国立国際美術館蔵)などの作品も制作している。

 

森村泰昌《ゴッホの寝室》

森村泰昌《ゴッホの寝室》

森村泰昌《肖像(ゴッホ)》(1985年、国立国際美術館蔵、未出品)

森村泰昌《肖像(ゴッホ)》(1985年、国立国際美術館蔵、未出品)

 

「わだばゴッホになる」。あの鬼才・棟方志功をして、憧れさせたゴッホは、生前は作品が売れず、弟のテオの援助で活動を続けた。いわば無名の画家の作品は、《ひまわり》1点に58億円もの値がつけられる。画家に、その作品に物語がある。それが美術の面白さであり、魅力であろう。

 

ゴッホは短命ながら一生懸命生き、よく描き、よく書いた。テオへの手紙だけで650通余が遺された。そこには自作について記し、自伝にもなっているが、何より魂の記録である。その最期の手紙には「ぼくらは、絵を通してのみ、何かを語ることができる」と。