なぜか日本より世界が評価した北斎。今秋、大阪と東京で北斎にスポットを当てた特別企画展が開催中だ。大英博物館 国際共同プロジェクト「北斎-富士を超えて-」は、肉筆画を中心に世界中から約200点の作品を集め、大阪のあべのハルカス美術館館で11月19日まで開かれている。一方、東京の国立西洋美術館では、西洋と北斎の名作が夢の共演を謳った「北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」が来年1月28日まで催されている。アメリカ合衆国の雑誌『LIFE』が1998年に実施した企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の100人」で、日本人として唯一86位にランクインされた北斎の凄さと魅力を再認識する絶好の機会だ。

大英博物館 国際共同プロジェクト「北斎-富士を超えて-」
《冨嶽三十六景》や肉筆画など約200点

葛飾北斎(1760-1849〉は、武蔵国葛飾郡(現・東京都墨田区)の一角で貧しい百姓の子として生まれ、幕府御用達鏡磨師の養子になる。しかし養家を出て貸本屋の丁稚や木版彫刻師の徒弟など労苦を重ね、実家に戻る。画家を志し、1778年に浮世絵師・勝川春章の門下となる。名所絵や役者絵を手がけるも満足せず、狩野派や琳派、唐絵や西洋画などの画法を学ぶ。やがて「絵に描けぬものはない」と豪語し、森羅万象を描き、江戸を代表する浮世絵師となった。

 

83歳の《北斎自画像》(1842年、ライデン国立民族学博物館)が出品されている。皺が目立つ容貌で、版元に宛てたものだ。90歳まで生き約70年の画業で、約3万点の作品を遺したとされる。中でも『北斎漫画』(1814年)は、北斎55歳のとき名古屋の版元から絵手本として発行される。人物、風俗、動植物、妖怪変化まで約4000図が描かれている。70歳を過ぎて、浮世絵版画の最高傑作とされる《冨嶽三十六景》(1830-33年頃)を生み出した。その構図の斬新さ、デザイン性は、フランスの印象派の画家らに影響を与えた。

 

葛飾北斎《北斎自画像》(1842年、ライデン国立民族学博物館)

葛飾北斎《北斎自画像》(1842年、ライデン国立民族学博物館)

 

「北斎-富士を超えて-」展は、北斎研究の第一人者である、あべのハルカス美術館の浅野秀剛館長と、大英博物館の北斎研究者とが協力して企画した。北斎が高い創造性を発揮した晩年30年間の人生と作品に焦点を当て、《冨嶽三十六景》をはじめ、貴重な肉筆画を集めた展覧会だ。大英博物館では、日本での開催より一足早く開催し、約15万人が入場したという。

 

まず重要文化財の作品2点に注目。《二美人図》(1801-04年頃、MOA美術館)は、40歳代の美人画で立ち姿の遊女と座る既婚の女性が対照的に描かれ、着物の裾が広がり優雅な作品だ。《潮干狩図》(1807-10年頃、大阪市立美術館)は、遠くに富士をのぞむ浜辺で、潮干狩りを楽しむ人々を精彩あふれる筆致で捉えている。

 

左)葛飾北斎《二美人図》(1801-04年頃、MOA美術館) 右)葛飾北斎《潮干狩図》(1807-10年頃、大阪市立美術館)

左)葛飾北斎《二美人図》(1801-04年頃、MOA美術館)
右)葛飾北斎《潮干狩図》(1807-10年頃、大阪市立美術館)

 

当時のオランダ商館長の依頼で描かれたという《花見》(1824-26年頃)は、供を連れ花見に繰り出す2人の女性をオランダ紙に描く。西洋画のように遠近を際立たせているのが特徴だ。

 

葛飾北斎《花見》(1824-26年頃、ライデン国立民族学博物館)

葛飾北斎《花見》(1824-26年頃、ライデン国立民族学博物館)

 

還暦を過ぎた頃から本領を発揮。代表作となった《冨嶽三十六景》シリーズの「神奈川沖浪裏」は、「The Great Wave」として世界で最も知られる作品の一つ。大英博物館の展覧会タイトルは、「北斎-大波の彼方へ」だった。版画なので、国内外の有名な美術館・博物館でも所蔵されている。《冨嶽三十六景》の名場面は、かつて永谷園がお茶漬けふりかけのおまけでなじみの浮世絵カードだったが、新パスポートのデザインに採用される。

 

葛飾北斎《富嶽三十六景 神奈川沖浪裏》(1830-33年頃、大英博物館)

葛飾北斎《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》(1830-33年頃、大英博物館)

 

「神奈川沖浪裏」(大英博物館)は、巨大な荒波に揺られる3艘の船と、沖から遠望で見える富士山の構図の巧みさは、何度見ても見事だ。荒れ狂う波の円とその中に富士の小さな三角形の対比構図に、緻密とダイナミック、動と静、相反するモティーフが絶妙に配置され、画面全体からは生き生きとした躍動感が伝わってくる。

 

同じく《冨嶽三十六景》シリーズの「凱風快晴」(大英博物館)も、赤富士と呼ばれ有名な作品だ。「凱風」とは南から柔らかく吹く風を意味し、鱗雲が浮かぶ快晴の空に、山肌が赤く染まった色鮮やかな富士山が描かれている。シンプルな配色と大胆な構図が印象的だ。

 

葛飾北斎《富嶽三十六景 凱風快晴》(1830-33年頃、大英博物館)

葛飾北斎《冨嶽三十六景 凱風快晴》(1830-33年頃、大英博物館)

 

富士山を描くもう1点「山下白雨」(大英博物館)。白雨とは夕立のことで、快晴の山頂に対し、山麓に下ると漆黒の闇に包まれ強烈に走る一瞬の稲妻が描かれ、そこに激しい雨が降っている光景を捉えている。これら3点は、富士を様々な視点からイメージできた北斎の力量を遺憾なく発揮している。

 

葛飾北斎《富嶽三十六景山下白雨》(1830-33年頃、大英博物館)

葛飾北斎《冨嶽三十六景山下白雨》(1830-33年頃、大英博物館)

 

北斎は、「神奈川沖浪裏」を描く前から波の描き方を研究していたとされ、《上町祭屋台天井絵「濤図」》(1845年、小布施上町自治会)の2作品に結実させる。豪商、高井鴻山の招きで信州・小布施を訪れた際、祭屋台の天井絵として一対の「濤図」を描く。86歳にして辿りついた「北斎の波」の集大成とも言える作品だ。

 

葛飾北斎《上町祭屋台天井絵「濤図」》(1845年、小布施上町自治会)

葛飾北斎《上町祭屋台天井絵「濤図」》(1845年、小布施上町自治会)

「濤図」の2作品が展示された会場(あべのハルカス美術館)

「濤図」の2作品が展示された会場(あべのハルカス美術館)

 

小布施にはしばしば訪れ、鴻山にすすめられて描いた極彩色の《鳳凰図天井絵》(1846年頃)が岩松院本堂に現存する。天井絵は21畳敷もある大作で、どこから見ても鋭い目でこちらを見据えられる「八方睨みの大鳳凰図」と言われる迫力だそうだ。その《鳳凰図天井絵彩色下絵》(1846年頃、小布施町・岩松院)が展覧会に出品されている。

 

葛飾北斎《鳳凰図天井絵彩色下絵》(1846年頃、小布施町・岩松院)

葛飾北斎《鳳凰図天井絵彩色下絵》(1846年頃、小布施町・岩松院)

 

北斎は《冨嶽三十六景》の成功で浮世絵師として名を馳せるが、晩年30年に数多くの肉筆画を手がけ、「画老狂老人卍」と名乗った70歳代から優れた肉筆画を世に出している。龍や獅子、鳳凰、鷹などの生き物、そして《雪中中国武人図》(1843年、氏家浮世絵コレクション)など力強いエネルギーにあふれた伝説上の人物や聖人などが生き生きと描く。

 

葛飾北斎《雪中中国武人図》(1843年、氏家浮世絵コレクション)

葛飾北斎《雪中中国武人図》(1843年、氏家浮世絵コレクション)

 

驚くことに、最晩年の1849年に傑作を遺しており、《富士越竜図》(北斎館)はじめ《雲竜図》(ギメ美術館)、《雨中の虎図》(太田記念美術館)などが並ぶ。《富士越竜図》は、富士を越えて天に昇る竜の姿を描き、自らの画業を重ね合わせたようだ。

 

葛飾北斎《富士越竜図》(1849年、北斎館) 13 葛飾北斎《雨中の虎図》(1849年、太田記念美術館)

左)葛飾北斎《富士越竜図》(1849年、北斎館)
右)葛飾北斎《雨中の虎図》(1849年、太田記念美術館)

 

とりわけ《雪中虎図》(1849年、ニューヨーク・個人蔵)は貴重で、この作品を描いた3ヵ月後に亡くなっている。雪の中を満足げな表情を浮かべ駆け上がる一匹の虎を描いているが、天に昇ろうとする北斎の自画像にも見えてくる。

 

葛飾北斎《雪中虎図》(1849年、ニューヨーク・個人蔵)

葛飾北斎《雪中虎図》(1849年、ニューヨーク・個人蔵)

 

この展覧会のみどころの一つに、もう一人の「北斎」を取り上げている。晩年の北斎と暮らしたのは三女・お栄だ。葛飾応為の画号で、父を支え作品も手伝ったとされる。《菊図》(1840-49年頃、北斎館)は北斎の落款があるものの応為の描き方が繁栄され、父娘合作との推定で2幅の作品が展示されている。

 

葛飾北斎・応為《菊図》(1840-49年頃、北斎館)

葛飾北斎・応為《菊図》(1840-49年頃、北斎館)

 

応為は、北斎に「美人画ではかなわない」と言わせた程の力量を持っていたが、肉筆画は少なく、推定作を含めても10点も現存していない。そのうち3点が出品されている。《吉原格子先之図》(1840-54年頃、太田記念美術館)は、吉原の遊女の顔見世の情景を光と影を使い分け幻想的に描いている。落款がないが、提灯に記された3文字から応為の作と判明する。ほかに《関羽割臂(かんうかっぴ)図》(1840-54年頃、クリーブランド美術館)も出品されていて、興味深い。

 

葛飾応為《吉原格子先之図》(1840-54年頃、太田記念美術館)

葛飾応為《吉原格子先之図》(1840-54年頃、太田記念美術館)

葛飾応為《関羽割臂(かんうかっぴ)図》(1840-54年頃、クリーブランド美術館)

葛飾応為《関羽割臂(かんうかっぴ)図》(1840-54年頃、クリーブランド美術館)

「北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」
モネらの傑作と北斎の名品を対比展示

見た目ではない風景や人物、風俗、動植物などを自在に、しかもリアルに描く北斎の作品は19世紀半ば、海を渡り、まずフランスで、その後ヨーロッパ各地やアメリカの画家たちに衝撃を与える。《冨嶽三十六景》や『北斎漫画』の斬新で大胆な表現は欧米には無かったからだ。「北斎とジャポニスム」展は、西洋近代芸術の展開を、北斎が与えた影響という観点から見る、世界で初めての試みだ。西洋美術の傑作と北斎の名品を並べて展示する、まさに「東西・夢の共演」だ。

 

日本の美術は西洋で新しい表現を求める芸術家たちを魅了し、「ジャポニスム」という現象が生まれた。なかでももっとも注目された存在が、天才浮世絵師の北斎だった。その影響は、印象派の画家をはじめとして欧米の全域にわたり、また絵画だけでなく彫刻や装飾工芸などあらゆる分野に及んだ。今回の展覧会(会期中に展示替えあり)では、モネ、ドガ、セザンヌ、ゴッホをはじめ、西洋美術の名作約220点と、北斎の錦絵約40点、版本約70冊など計約110点が一堂に会する。

 

展覧会は「北斎の浸透」「北斎と人物」「北斎と動物」「北斎と植物」「北斎と風景」「波と富士」の6章構成で、北斎と西洋の作品を見比べることによって、北斎の魅力を再発見するとともに、西洋美術の表現に活路を拓いた足跡を辿っている。いくつかの作品対比を紹介しよう。

 

印象派を代表するクロード・モネ(1840-1926)は北斎の作品を数多く収集していた。モネが描いた《陽を浴びるポプラ並木》(1891年、国立西洋美術館[松方コレクション])の構図は、北斎の《冨嶽三十六景 東海道程ヶ谷》(1830-33年頃、ミネアポリス美術館)に描かれた松並木のリズム感に呼応する。北斎の風景の切り口がモネの創作意欲を刺激したのであろう。

 

左)クロード・モネ《陽を浴びるポプラ並木》(1891年、国立西洋美術館[松方コレクション]) 右)葛飾北斎《富嶽三十六景 東海道程ヶ谷》(1830-33年頃、ミネアポリス美術館)

左)クロード・モネ《陽を浴びるポプラ並木》(1891年、国立西洋美術館[松方コレクション])
右)葛飾北斎《冨嶽三十六景 東海道程ヶ谷》(1830-33年頃、ミネアポリス美術館)
Minneapolis Institute of Art, Bequest of Richard P. Gale 74.1.237 Photo: Minneapolis Institute of Art

次いでポール・セザンヌ(1839-1906)の《サント=ヴィクトワール山》(1886-87年、フィリップス・コレクション、ワシントンD.C.)と、北斎の《冨嶽三十六景 駿州片倉茶園ノ不二》(1830-33年頃、オーストリア応用美術館、ウィーン)とを見比べると、ともに遠景に主題である山を、手前に木々を配して、俯瞰的に中景を眺める構図になっている。

 

左)ポール・セザンヌ《サント=ヴィクトワール山》(1886-87年、フィリップス・コレクション) 右)葛飾北斎《富嶽三十六景 駿州片倉茶園ノ不二》(1830-33年頃、オーストリア応用美術館)

左)ポール・セザンヌ《サント=ヴィクトワール山》(1886-87年、フィリップス・コレクション、ワシントンD.C.)
The Phillips Collection, Washington, D. C.
右)葛飾北斎《冨嶽三十六景 駿州片倉茶園ノ不二》(1830-33年頃、オーストリア応用美術館、ウィーン)
MAK – Austrian Museum of Applied Arts / Contemporary Art, Vienna  Photo: ©MAK / Georg Mayer

 

「踊り子の画家」と呼ばれたエドガー・ドガ(1834-1917)にとって、バレリーナは人体表現の研究のための重要なモティーフだった。《踊り子たち、ピンクと緑》 (1894年、吉野石膏株式会社[山形美術館寄託])は、『北斎漫画』十一編[部分](刊年不詳、浦上蒼穹堂)に登場するお相撲さんのポーズに似かよっている。

 

左)エドガー・ドガ《踊り子たち、ピンクと緑》(1894年、吉野石膏株式会社[山形美術館寄託]) 右)葛飾北斎《北斎漫画 十一編(部分)》(刊年不詳、浦上蒼穹堂)

左)エドガー・ドガ《踊り子たち、ピンクと緑》(1894年、吉野石膏株式会社[山形美術館寄託])
右)葛飾北斎『北斎漫画』 十一編[部分](刊年不詳、浦上蒼穹堂)

アメリカ出身の女流画家のメアリー・カサット(1844-1926)の人物表現にも影響をもたらせている。《青い肘掛け椅子に座る少女》(1878年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)の幼い女の子のソファにくつろぐ様子と、『北斎漫画』初編[部分](1814年、浦上蒼穹堂)の七福神の布袋が背負っている袋で眠るありのままの姿に類似性がある。

 

左)メアリー・カサット《青い肘掛け椅子に座る少女》(1878年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー) 右)葛飾北斎《北斎漫画 十一編(部分)》(1814年、浦上蒼穹堂)

上)メアリー・カサット《青い肘掛け椅子に座る少女》(1878年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
National Gallery of Art, Washington, Collection of Mr. and Mrs. Paul Mellon, 1983.1.18 Courtesy National Gallery of Art, Washington
下)葛飾北斎『北斎漫画』 初編[部分](1814年、浦上蒼穹堂)

このほか、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-90)の《ばら》(1889年、国立西洋美術館[松方コレクション])と北斎の《牡丹に蝶》(1831-33年頃、ミネアポリス美術館)や、ポール・ゴーガン(1848-1903)の《三匹の子犬のいる静物》(1888年、ニューヨーク近代美術館)と北斎の『三体画譜』[部分](1816年、浦上蒼穹堂)などが、対比して展示されている。

 

こうした北斎作品にヒントを得た作品は、絵画だけでなく彫刻や装飾工芸などの分野に及んだ。とりわけ《冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏》は、カミーユ・クローデル(1864-1943)の彫刻《波》(1897-1903年、ロダン美術館、パリ)や、クリストファー・ドレッサー(1834-1904)の陶器《波型鉢》(1879-82年、メトロポリタン美術館、ニューヨーク)、さらには作曲家のクロード・ドビュッシー(1862-1918)の《交響詩『 海』》の着想につながり、初版楽譜の表紙にも「北斎の波」が採用されている。

 

この展覧会の監修者である馬渕明子・国立西洋美術館長は「なぜ多くの芸術家たちが、北斎の作品を参照し、そこから創造のヒントを得ようとしたのでしょうか。今回の展覧会からその答えを見つけていただきたい。また西洋人が北斎から様々なものを学び、新しいものを作り出そうとする芸術のエネルギーを感じてほしい」と強調している。

 

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東西二つの展覧会企画は、大阪が大英博物館との国際共同プロジェクトであり、東京が西洋に与えた衝撃をテーマにしていて、東洋と西洋をつなぐ北斎の存在を改めて見直す画期的な意義がある。冒頭に記した『LIFE』の評価と異なり、北斎を生んだ日本ではなぜか軽んじられてきたのではなかろうか。

 

北斎の作品が初めて重要文化財に指定されたのは《潮干狩》で、1997年のことだ。浮世絵師では、北斎が門下となった師匠の勝川春章はじめ鳥居清長、喜多川歌麿らの先輩格や後輩の歌川広重ら10人の作品が1964年までに指定を受けている。北斎の作品は、その後2点が追加されたが、いずれも版画ではない。

 

近年脚光を浴びる江戸絵画では、雪舟に6点、長谷川等伯に3点の国宝がある。いま人気の伊藤若冲には、国宝が無く重要文化財は13点もある。ただ浮世絵で国宝に指定されているものは1点も無い。浮世絵は日本の文化的伝統と高い技術、芸術性を持ち、これほど海外から評価されながら、なぜの疑念は解けない。版画は1点ものでないことや、庶民文化として普及した経緯もありそうだ。それならば肉筆画はもっと評価されていいはずだ。

 

こうした疑問はともかく、画人としての北斎の生き様に魅力と凄さを感じた。北斎は『富嶽百景』の巻末に、「73歳で鳥獣虫魚の骨格や草木の何たるかを、いくらかは悟ることができた。ゆえに86歳でますます向上し、90歳になればさらにその奥意を極めて、100歳でまさに神妙の域を超えるのではないだろうか」といった意味の一文を記している。そして「天があと5年命をくれたなら、真の絵師になれたのに…」との言葉も伝わる。死を前にしてもなお、画家として理想を追求し続けた北斎の真骨頂を物語るものだ。