絵画は、なぜ人を惹きつけるのであろうか。描写表現の巧みさだけではない。多様で奥深い世界が存在することも魅力に違いない。作品を生み出した画家の生き方が投影されていることに目を向けたい。関西に巡回中の二つの展覧会を取り上げる。「ユトリロ回顧展」が姫路市立美術館で7月2日まで、「マティスとルオー -友情50年の物語-」が大阪・あべのハルカス美術館で5月28日まで、それぞれ開催中だ。フランス生まれの3人の画家は、20世紀の同時代に生き、個性あふれる作品を遺した。3人の生きた時代や、社会や家庭、人生観などにも言及しつつ、作品の魅力を辿ってみたい。

孤独な画家、ユトリロの回顧展に80余点

ユトリロの作品がずらり展示された姫路市立美術館の会場

ユトリロの作品がずらり展示された姫路市立美術館の会場

 

「ユトリロ回顧展」は、モーリス・ユトリロ協会のセドリック・パイエ氏が監修し、初期から晩年までの代表作を中心に80余点が出展され、画業と人生を振り返る大回顧展である。人生のほとんどをユトリロ研究に尽力し、モーリス・ユトリロ美術館長や協会の会長を歴任し、84歳で一昨年に亡くなったジャン・ファブリス氏に捧げる展覧会という。年初の名古屋・松坂屋美術館に続き2会場のみの開催だ。

 

モーリス・ユトリロ(1883-1955)は、パリのモンマルトルに生まれた。母のシュザンヌ・ヴァラドンは画家だったが、父は不明である。91年、スペインの美術評論家ミゲル・ユトリロが見かねて認知する。その後、母の住んでいたモンマニ-で学校教育を受け、ロラン・カレッジに学んだ。

 

恋多き女性でもあった母の愛情に恵まれず飲酒癖が始まり、10歳代でアル中の症状を起こして入院する。その治療の目的で、医者の勧めもあって、母は絵を描くことを教えた。才能を発揮し始め、次第に本格的に描く様になった。初めは印象派の影響を受けたが、やがて独自の画風を確立する。

 

サロン・ドートンヌ展に出品したのは、1909年が最初である。この頃、白を基調とした作品を描いていたが、これが後に「白の時代」と呼ばれ、高い評価を得るようになる。13年にウジェーヌ・ブロ画廊で初めての個展を開催。この個展は評判を呼び、名声を得る。姫路市美所蔵(国富奎三コレクション)の《サン=メダール教会とムフタール通り》(1913年)はこの個展の出品作である。

 

モーリス・ユトリロ《サン=メダール教会とムフタール通り》(1913年、姫路市美蔵・国富奎三コレクション)

モーリス・ユトリロ《サン=メダール教会とムフタール通り》(1913年、姫路市美蔵・国富奎三コレクション)

 

ユトリロは放浪と乱酒で精神病院へも入った。1936年、51歳の時に結婚するが、師や友人もほとんどなく、孤独の画家だった。心身は病的であり不幸な生活の中から、繊細で美しい作品が次々と生まれた。1928年にレジオン・ドヌール勲章を受け、55年にはパリ名誉市民となる。その年、旅先のホテルで急死したのだった。

 

作風は「白の時代」から「色彩の時代」へ移行するが、ほとんど風景画で、それも小路や、教会、建物の壁などの身近な風景を描いた。ありふれた街の風景を描きながら、その画面は不思議な詩情と静謐さに満ちている。特に出品作の中から主な作品を紹介する。まず《サン=メダール教会とムフタール通り》は、教会を画面中央に静かな街並みを交差点から眺めた風景だ。自選による初個展出品の31点中の1点で、「白の時代」の最盛期の作品といわれている。これより先に描いた《サン=メダール教会、パリ》(1908-09年、八木コレクション蔵)は、建物の細部まで描き込んでいる。

 

モーリス・ユトリロ《サン=メダール教会、パリ》(1908-09年、八木コレクション蔵)

モーリス・ユトリロ《サン=メダール教会、パリ》(1908-09年、八木コレクション蔵)

 

「白の時代」を象徴するかのような作品に《可愛い聖体拝受者》(1912年頃、八木コレクション蔵)が目に付く。青みの空の下に、真っ白い教会が、白い道側に建っている。心身を病むユトリロが純粋で無垢な風景を描き求めた心象風景が垣間見える。

 

モーリス・ユトリロ《可愛い聖体拝受者》(1912年頃、八木コレクション蔵)

モーリス・ユトリロ《可愛い聖体拝受者》(1912年頃、八木コレクション蔵)

 

モンマルトルの街並みを描いた作品が多い。《ノルヴァン通り、モンマルトル》(1912-14年頃、個人蔵)や《モンマルトルのサン=ピエール広場から眺めたパリ》(1908年、八木コレクション蔵)、《モンマルトルのラパン・アジル》(1927年、個人蔵)、《ラヴィニャン通り、モンマルトル》(1940-42年頃、個人蔵)など、時代や季節を変え、何枚も何枚も描いている。

 

左)モーリス・ユトリロ《ノルヴァン通り、モンマルトル》(1912-14年頃、個人蔵) 右)モーリス・ユトリロ《モンマルトルのサン=ピエール広場から眺めたパリ》(1908年、八木コレクション蔵)

左)モーリス・ユトリロ《ノルヴァン通り、モンマルトル》(1912-14年頃、個人蔵)
右)《モンマルトルのサン=ピエール広場から眺めたパリ》(1908年、八木コレクション蔵)

左)モーリス・ユトリロ《モンマルトルのラパン・アジル》(1927年、個人蔵) 右)モーリス・ユトリロ《ラヴィニャン通り、モンマルトル》(1940-42年頃、個人蔵)

左)モーリス・ユトリロ《モンマルトルのラパン・アジル》(1927年、個人蔵)
右)モーリス・ユトリロ《ラヴィニャン通り、モンマルトル》(1940-42年頃、個人蔵)

 

モンマルトルにあるダンスホールで名高いムーラン・ド・ラ・ギャレットも数多い。《ムーラン・ド・ラ・ギャレット、ルピック通り、モンマルトル》(1916-18年頃、個人蔵)はじめ、《雪のムーラン・ド・ラ・ギャレット、モンマルトル》(1933-35年頃、マリーズ&マックス・マレシャル夫妻蔵、パリ)、《ムーラン・ド・ラ・ギャレット、モンマルトル》(1943-45年頃、個人蔵)など、ユトリロの郷愁を駆り立てる風景だったようだ。

 

モーリス・ユトリロ《ムーラン・ド・ラ・ギャレット、ルビック通り、モンマルトル》(1916-18年頃、個人蔵)

モーリス・ユトリロ《ムーラン・ド・ラ・ギャレット、ルビック通り、モンマルトル》(1916-18年頃、個人蔵)

モーリス・ユトリロ《雪のムーラン・ド・ラ・ギャレット、モンマルトル》(1933-35年頃、マリーズ&マックス・マレシャル夫妻蔵、パリ)

モーリス・ユトリロ《雪のムーラン・ド・ラ・ギャレット、モンマルトル》(1933-35年頃、マリーズ&マックス・マレシャル夫妻蔵、パリ)

 

モンマルトルと言えば、パリで一番高い丘で、画家たちの聖地でもあった。私も2度のフランスの旅で、散策した思い出がよぎる。ピカソやルノアール、ドガ、セザンヌら巨匠たちがアトリエにしていた洗濯船跡やロートレックらが通ったムーラン・ド・ラ・ギャレットの建物や、佐伯祐三、荻須高徳が何枚も何枚も描いた街角を歩き回った。

 

ユトリロが描いた風景画の数々は古きよき時代のモンマルトルであり、現在はすっかり観光地化している。そして20世紀前半、モンマルトを舞台にしたエコール・ド・パリの異郷の画家たちにあって、ユトリロは聖地に生まれ、ひたすらこよなく聖地を愛し描いた。

 

今回の展覧会には、母である画家のシュザンヌ・ヴァラドンと、ユトリロの友人で母の夫だった画家のアンドレ・ユッテルの日本初公開作品も展示されている。ヴァラドンの《城の塔、サン=ベルナール(アン県)》(1927年)や、ユッテルの《道化師の自画像》(1910年頃、いずれもマリーズ&マックス・マレシャル夫妻蔵、パリ)なども鑑賞できる。さらにユトリロの使用した鞄や筆、絵具と、最後のパレットなども展示され、興味を引く。

 

モーリス・ユトリロが使っていた最後のパレット(個人蔵、パリ)と愛用の鞄・筆・絵の具(個人蔵、パリ)

モーリス・ユトリロが使っていた最後のパレット(個人蔵、パリ)と愛用の鞄・筆・絵の具(個人蔵、パリ)

 

姫路市立美術館の担当学芸員の高瀬晴之さんは「当館でユトリロの作品を所蔵しているご縁があり、今回の展覧会開催にあたってお声掛けをいただきました。ユトリロ協会やユトリロの鑑定者など、フランス側のユトリロ関係者に協力をいただいていることもあり、ユトリロの主要な作品が勢ぞろいしています。数多くの作品が日本初公開です。また、ユトリロは特に壁の質感にこだわって描いており、時には本当の壁材を絵具に混ぜています。この貴重な機会に、ぜひ実物をごらんください」と、話している。

マティスとルオー、半世紀の友情の軌跡

風景画を追求したユトリロと異なり、自由な色彩による多様な絵画表現を駆使したマティスと、独自の自己の芸術を追究し宗教絵画に新境地を拓いたルオー。三者三様に20世紀フランス絵画を彩った。

 

マティスとルオーは、パリの美術学校の同級生で、生涯にわたって家族ぐるみの交流を続け、互いの創造活動を尊重し、支援し合っていた。今回の展覧会は、近年発見された往復書簡とともに、それぞれの個性を浮き彫りにする国内外の名品を通して、半世紀にわたる2人の厚き友情と芸術の軌跡を約140点の作品で辿っている。こちらも年初からの東京のパナソニック汐留ミュージアムとの2会場の開催だ。

 

アンリ・マティスの版画集『ジャズ』が展示されたあべのハルカス美術館の会場

アンリ・マティスの版画集『ジャズ』が展示されたあべのハルカス美術館の会場

 

アンリ・マティス(1869-1954)は、フランス・ノール県に、豊かな穀物商人の長男として生まれる。その後一家はピカルディ地域圏へ移動し、そこで育った。1887年、父の命で法律を学ぶためにパリへと出るが、89年、盲腸炎の療養中に母から画材を贈られたことで絵画に興味を持ち、やがて画家に転向する決意をする。

 

91年にパリの私立美術学校であるアカデミー・ジュリアンに入学し、絵画を学びつつ官立美術学校であるエコール・デ・ボザール(国立美術学校)への入学を目指した。入校は許可されなかったが、熱意を評価した教官ギュスターヴ・モローから特別に聴講生としての受講を許可される。この時、エコール・デ・ボザールに入校してモローの指導を受けていたジョルジュ・ルオーとは生涯の友情を結ぶ。

 

マティスの初期の作風は写実的なものを志していたが、次第にゴッホやゴーギャンら後期印象派の影響を受け、色彩の解放を基盤に大胆な色彩を特徴とする作品を次々と発表した。一時、野獣派と呼ばれるようになるが、比較的静かで心地の良い作品を描くようになる。そして線の単純化、色彩の純化を追求した結果、切り絵に到達する。

 

方やジョルジュ・ルオー(1871-1958)は、パリに指物(さしもの)職人の子として生まれた。ルオーの家族が住んでいたベルヴィル地区のヴィレットは、当時は場末の労働者街であった。ルオーは14歳の時、ステンドグラス職人イルシュに弟子入りする。後年のルオーの画風、特に黒く骨太に描かれた輪郭線には明らかにステンドグラスの影響が見られる。

 

1890年には本格的に画家を志し、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学した。92年から同校で指導にあたったのは象徴派の巨匠、ギュスターヴ・モローであった。教師としてのモローは自己の作風や主義を生徒に押し付けることなく、ルオーとマティスという、モロー自身とは全く資質の異なる2人の巨匠の個性と才能を巧みに引き出したのである。

 

ルオー20歳代の初期作品にはレンブラントの影響が見られ、茶系を主とした暗い色調が支配的だが、30歳代になり、20世紀に入ったころから、独特の骨太の輪郭線と宝石のような色彩があらわれる。画題としてはキリストを描いたもののほか、娼婦、道化、サーカス芸人など、社会の底辺にいる人々を描いたものが多い。

 

今回の展覧会のテーマは、二人の交流。往復書簡は1906年に始まり、マティスが没する前年の53年まで断続的ながら実に半世紀にわたっている。06年、アフリカ旅行から戻った36歳のマティスは、「中でも砂漠はすごかった」と、その強い印象を、ルオーに書き送る。53年にはルオーから「こんなにも長い間 病に苦しみながら勇気を振絞り 制作を続けている君の姿を見ていると…」と、マティスを励ましている。マティスからルオーに宛てた直筆の手紙2点が初来日している。

 

展覧会の見どころは、ルオーが描いたモロー教室時代のデッサン《〈学者たちの間の幼きイエス〉のための習作》(1894年)や、救国の少女の姿でフランスを描いた油彩画《聖ジャンヌ・ダルク 古い町外れ》(1951年、いずれも個人蔵・ルオー財団協力)を始めとする初来日の絵画2点とタピスリー3点のほか、晩年の《秋の夜景》(1952年、パナソニック汐留ミュージアム蔵)、さらに『気晴らし』シリーズの油彩画全15点(1943年、マティス美術館、ル・カトー=カンブレジ、アリス・テリアート寄贈)が、世界で初めて一堂に展示という。

 

ジョルジュ・ルオー《聖ジャンヌ・ダルク 古い町外れ》(1951年、個人蔵・ルオー財団協力)

ジョルジュ・ルオー《聖ジャンヌ・ダルク 古い町外れ》(1951年、個人蔵・ルオー財団協力)

ジョルジュ・ルオー《秋の夜景》(1952年、パナソニック汐留ミュージアム蔵)

ジョルジュ・ルオー《秋の夜景》(1952年、パナソニック汐留ミュージアム蔵)

 

マティスの作品も、貴重な初期作品《スヒーダムの瓶のある静物》(1896年、マティス美術館、ル・カトー=カンブレジ)や、窓辺にたたずむモデルを色彩豊かに捉えた《窓辺の女》(1920年、みぞえ画廊蔵)装飾的な構成で裸婦を取り上げた《肘掛椅子の裸婦》(1920年、DIC川村記念美術館蔵)、重層的なイメージで、お気に入りのモデルを描いた《鏡の前の青いドレス》(1937年、京都国立近代美術館蔵)などが出品されている。

 

左)アンリ・マティス《スヒーダムの瓶のある静物》(1896年、マティス美術館、ル・カトー=カンブレジ) 右)アンリ・マティス《窓辺の女》(1920年、みぞえ画廊)

左)アンリ・マティス《スヒーダムの瓶のある静物》(1896年、マティス美術館、ル・カトー=カンブレジ)
右)アンリ・マティス《窓辺の女》(1920年、みぞえ画廊)

左)アンリ・マティス《肘掛椅子の裸婦》(1920年、DIC川村記念美術館 右)アンリ・マティス《鏡の前の青いドレス》(1937年、京都国立近代美術館蔵)

左)アンリ・マティス《肘掛椅子の裸婦》(1920年、DIC川村記念美術館)
右)《鏡の前の青いドレス》(1937年、京都国立近代美術館蔵)

 

第二次世界大戦が終わり、巨匠として円熟期を迎えつつあって2人が取り組んだ作品シリーズに、ルオーの《聖顔》(パナソニック汐留ミュージアムなど所蔵)とマティスの版画集『ジャズ』(宇都宮・うらわ両美術館蔵)がある。《聖顔》は、ステンドグラスを思わせる厚塗りによる油彩画で、「キリスト像」や「聖なる風景」を数多く手がけたルオーは、20世紀を代表する宗教画家と目された。

 

ジョルジュ・ルオー《マドレーヌ》(1956年、パナソニック汐留ミュージアム蔵)

ジョルジュ・ルオー《マドレーヌ》(1956年、パナソニック汐留ミュージアム蔵)

 

一方、マティスの『ジャズ』は、絵画の可能性を具象・抽象の別なく切り拓く試みで、以後も切り紙絵を活用した明快な作品で、当代きっての色彩画家と評された。

 

アンリ・マティス《刀飲み》『ジャズ』より(1947年、うらわ美術館蔵)

アンリ・マティス《刀飲み》『ジャズ』より(1947年、うらわ美術館蔵)

 

あべのハルカス美術館・担当学芸員の浅川真紀さんは「50年も続く友情というのは、実際にはなかなか難しい。ましてやマティスとルオーという偉大なるふたつの個性が、これほどの長きにわたり互いを尊重し合い助け合っていたというのは驚くべきことである。芸術への真摯な姿勢と、師への思慕を共有していたことがその根幹にあったと察せられるが、そのうえにいわば『冷静と情熱の間』のような、絶妙なふたりの温度感のバランスが、長続きの理由であったのではないか。展覧会を通して、それをぜひ実感していただきたいと思う」と、コメントしている。

 

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マティスの代表作《ダンスⅡ》(1910年)を2006年秋にサンクトペテルブルグのエルミタージュ美術館で鑑賞した思い出がよぎる。裸体の朱と空の青、地面の緑という極めて少ない色彩で躍動感あふれる表現に感嘆した。その旅でモスクワのプーシキン美術館も訪ね《金魚》(1912年)に再会した。というのもこの年初め、大阪の国立国際美術館で開催の「プーシキン美術館展」で来日していた。

 

ユトリロやルオー作品も過去の展覧会や国内所蔵の作品を各地で随時見ていた。しかし今回はそれぞれ初期から晩年に至る作品を回顧できた。とりわけ作家について、ある程度予習をしていたこともあり、単に作品の描かれ方だけでなく、作品の生まれた背景についても想像しえたことが何よりの収穫だった。