豊満な女性美の作品で知られ、フランス印象派を代表するルノワールは、今や日本で広く愛される画家の一人で、毎年のように展覧会が催されている。そんなルノワールを100年以上も前に、パリのアトリエに出向き師と仰いだ画家がいた。日本の洋画界を牽引した梅原龍三郎だ。「拝啓ルノワール先生―梅原龍三郎が出会った西洋美術」展が、大阪・あべのハルカス美術館で3月26日まで開催中だ。タイトルにルノワールと謳うが、主役は梅原だ。師弟関係にあった両者の作品と言葉を紹介し、作風への影響などにアプローチする展示内容で興味を引く。単に表現の巧みさや美しさだけで名画を鑑賞するのとは異なり、テーマ性のある視点や切り口による企画展の醍醐味が感じられる展覧会だ。

47歳の年齢差超え、巨匠の弟子に

梅原の作品は各地の美術館の所蔵作品で時折見てきたが、個展としては近年関西で開催されていない。昨秋、上京の際に三菱一号館美術館で開催されていた今回の展覧会を見ていた。その時のサブタイトルが「梅原龍三郎に息づく師の教え」だった。年が明けて大阪に巡回開催されたので、じっくり鑑賞できた。

 

梅原龍三郎の言葉も随所に掲げられている

梅原龍三郎の言葉も随所に掲げられている

 

梅原龍三郎(1888-1986)は、京都の裕福な染め呉服業を営む家に生まれ、15歳で画家を志し、浅井忠の聖護院洋画研究所や関西美術院にて学ぶ。京の伝統文化に育まれながら、西洋画に魅かれ、20歳を迎えた1908年に渡仏する。

 

「此の画こそ、私が求めて居た、夢見て居た、そして自分の成したい画である。かゝる絵を見る事が出来てこそかく遠く海を越えてこゝにやってきた価値があった」とは、梅原がリュクサンブール美術館で初めてルノワール作品を見て、書き残した言葉だ。

 

その翌年に南フランスのカーニュにあるルノワールの自宅・アトリエを訪問し親しくなる。当時、47歳の年齢差であった巨匠ルノワール弟子入りを願い出て許されたのだった。「私は彼に見られるに値する、私は彼の芸術をあまりに愛する、彼はそれを知らねばならぬ」と自身を励ましている。

 

一方、ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919)は、初期にはドラクロワなどの影響を受け、1870年代になってクロード・モネ(1840-1926)らと交流し、印象主義のグループに加わり、フランス印象派の代表格として活躍する。しかし後年に古典絵画の研究を通じて画風が変化し、晩年は豊満な裸婦像などの人物画に独自の境地を拓いた。

 

梅原が出会ったルノワールは晩年で、その制作現場を見て、師との対話から多くを学んだという。5年間の留学から帰国後も手紙のやりとりや、日本でのルノワールの紹介に努める。学究心の旺盛な梅原はピカソらとも交流する。今回の展覧会では、梅原、ルノワール作品を軸に、梅原が蒐集した西洋美術コレクションなども合わせ約80点が展示されている。

 

出色!《パリスの審判》を3点展示

梅原龍三郎《黄金の首飾り》(1913年、東京国立近代美術館蔵)が展示された会場

梅原龍三郎《黄金の首飾り》(1913年、東京国立近代美術館蔵)が展示された会場

 

展示は、テーマに沿って6章で構成されている。展覧会図録などを参考に章ごとに主な作品を掲載する。1章「ルノワールとの出会い」では、フランス留学からルノワールとの出会い、帰朝までの作品を展示。梅原の《読書》(1911年、個人蔵・三菱一号館美術館寄託)は、留学時代半ばに描かれ、師が得意とした柔らかい筆触は師から会得したとされる。

 

梅原は1912年、滞欧先からイタリアのポンペイ遺跡を訪れている。帰国直前に描いた《黄金の首飾り》(1913年、東京国立近代美術館蔵)は、ポンペイに遺された壁画の色調から、赤が基調となった作品だが、裸婦の顔つきや、弾力のある柔らかな表現にルノワールの描法が見てとれる。

 

2章の「梅原龍三郎 掌(たなごころ)の小品」では、梅原特有の趣味で仕立てられた蒐集品を並べている。ルノワール作品も6点あり、《バラ色のブラウスを着た女(ガブリエル?)》(1914年頃、三菱一号館美術館寄託)は、ルノワールがお気に入りのモデルであり、お手伝いを描いたと梅原が思っていた作品だが、真偽は不明だ。

 

ピエール=オーギュスト・ルノワール《バラ色のブラウスを着けた女(ガブリエル?)》(1914年、三菱一号館美術館寄託)

ピエール=オーギュスト・ルノワール《バラ色のブラウスを着けた女(ガブリエル?)》(1914年、三菱一号館美術館寄託)

 

《バラ》(制作年不明、三菱一号館美術館寄託)は、ルノワールの愛したばらの題材だが、フランスで入手した古い様式の額を使い古裂を入れ子に配している。このコーナーでは、梅原が外箱蓋に油彩を施したキュクラデス彫刻やアポロ神、イビス神などの彫刻もある。梅原の趣味は幅広く絵画作品にとどまらず、展示品以外にもエジプトの彫刻やコプト織、ポンペイの壁画、大津絵など古今東西に及ぶ。

 

ルノワール《バラ》(制作年不明、三菱一号館美術館寄託)

ルノワール《バラ》(制作年不明、三菱一号館美術館寄託)

 

3章は「私蔵品から公的コレクションへ」という流れで、美術館へ寄贈された蒐集品が並ぶ。ここでも《キュクラデス彫刻》(いずれも紀元前2500-2000年、国立西洋美術館蔵)が4点あり、関心の深さが窺い知れる。ルノワール作品に裸婦が登場し、ルノワール《横たわる浴女》(1906年、国立西洋美術館蔵)は、最晩年まで追求した「浴女」の中でも代表作に数えられる一作だ。

 

外箱蓋に油彩を施したキュクラデス彫刻

外箱蓋に油彩を施したキュクラデス彫刻

ルノワール《横たわる浴女》(1906年、国立西洋美術館蔵)

ルノワール《横たわる浴女》(1906年、国立西洋美術館蔵)

 

このほか梅原と交友のあったジョルジュ・ルオー(1871-1958)の《エバイ(びっくりした男)》(1948-52年頃、国立西洋美術館蔵)など3点、バブロ・ピカソ(1881-1973)の《横たわる女》(1960年、国立西洋美術館蔵)など3点、さらにエドガー・ドガ(1834-1917)も《ラファエロ〔アテネの学園〕の模写》(1857-58年、三菱一号館美術館寄託)が出品されていて、梅原の美意識を探る上でも興味深い。

 

ジョルジュ・ルオーの《エバイ(びっくりした男)》(1948-52年頃、国立西洋美術館蔵)

ジョルジュ・ルオーの《エバイ(びっくりした男)》(1948-52年頃、国立西洋美術館蔵)

ルノワールのブロンズ《勝利のヴィーナス》(1914年頃、国立西洋美術館蔵)の後方にはバブロ・ピカソの作品も展示

ルノワールのブロンズ《勝利のヴィーナス》(1914年頃、国立西洋美術館蔵)の後方にはバブロ・ピカソの作品も展示

 

4章が「交友と共鳴 梅原と時代、梅原の時代」。ここでも梅原の交友関係と蒐集品を取り上げているが、留学時には故人となっていたが、一時印象派の有力メンバーだったポール・セザンヌ(1839-1906)の作品にも注目したようだ。《リンゴとテーブルクロス》(1879-80年、三菱一号館美術館寄託)蒐集品ではないが、参考出品されている。さらにピカソやルオーをはじめクロード・モネ、アンリ・マティス、カミーユ・ピサロ、ジョルジュ・ブラックらの作品も並び、壮観だ。

 

ポール・セザンヌ《リンゴとテーブルクロス》(1879-80年、三菱一号館美術館寄託)

ポール・セザンヌ《リンゴとテーブルクロス》(1879-80年、三菱一号館美術館寄託)

 

この章では庶民向けの絵画として江戸時代に宿場町で売られた大津絵も。かつての師の浅井忠の影響もあったのか、複数集めていた。神仏や鬼、動植物をモチーフに大胆なデフォルメと擬人化で味わい深く、《鬼の念仏》と《長刀弁慶》(いずれも作者不詳、江戸時代、個人蔵)が出品されている。

 

大津絵《鬼の念仏》と《長刀弁慶》(江戸時代、個人蔵)

大津絵《鬼の念仏》と《長刀弁慶》(江戸時代、個人蔵)

 

5章は「ルノワールの死」で、ルノワールの訃報を知った梅原は自宅とルノワールから譲りうけた絵を売って渡航費用を捻出し、死後の翌年になって2度目の渡欧を果たす。1921年年初に師の遺族を弔問した際、梅原はアトリエに同じような図柄の3点の《パリスの審判》があったと、回想録に記している。パリスの審判とは、トロイア王子パリスが、3人の女神のうちアフロディテを最高の美神と認め、黄金のリンゴを渡したというギリシャ神話に基づく。

 

梅原が模写した《パリスの審判》(左、1978年、個人蔵)と、ルノワールの《パリスの審判》(1908年、三菱一号館美術館寄託)について説明する あべのハルカス美術館の新谷式子学芸員

梅原が模写した《パリスの審判》(左、1978年、個人蔵)と、ルノワールの《パリスの審判》(1908年、三菱一号館美術館寄託)について説明する あべのハルカス美術館の新谷式子学芸員

 

梅原がアトリエで見た3点とは別の作品と考えられる《パリスの審判》が、日本に持ち込まれた際に模写している。構図はほぼ同じだが、師の作品に見られる繊細な描写ではなく、太い輪郭線で縁取られた自在な筆さばき。風景には緑や青など鮮やかな色彩が使われ、女性の顔は大胆に簡略化され、画風は梅原そのもの。梅原90歳の作で、ルノワールが死去して60年近くが過ぎていた。

 

ルノワール《パリスの審判》(1913-14年、ひろしま美術館蔵)

ルノワール《パリスの審判》(1913-14年、ひろしま美術館蔵)

今回の展示で特筆すべきが、ルノワールの描いた《パリスの審判》(1908年、三菱一号館美術館寄託)と、《パリスの審判》(1913-14年、ひろしま美術館蔵)、さらに梅原が模写した《パリスの審判》(1978年、個人蔵)がそろって展示されている点で、最大の見どころだ。この章では、梅原の描いた裸婦の《裸婦図》と《裸婦脱衣立図》(いずれ1921年、東京国立近代美術館蔵)も展示されていて味わい深い。

 

梅原の描いた裸婦2点の展示

梅原の描いた裸婦2点の展示

 

最後の6章が「ルノワールの遺産」で、ルノワールの弔問の旅以降、師からの脱却と新たな方向性や師の思い出を、両者の作品を通じ探っている。ルノワールは1880年代に入ると印象派から新しい手法を模索するが、「絵画とは、好ましく、楽しく、きれいなものでなくてはならない」との信念から、純粋で無垢な少女を描き続ける。そうした時代の傑作《長い髪をした若い娘(麦藁帽子の若い娘)》(1984年)と、《麦藁帽子の若い娘》(1888-89年、いずれも三菱一号館美術館寄託)が出品されている。

 

ルノワール《麦藁帽子の若い娘》(1888-89年、三菱一号館美術館寄託)

ルノワール《麦藁帽子の若い娘》(1888-89年、三菱一号館美術館寄託)

 

梅原の作品も、50歳代の円熟期に描いた《紫禁城》(1940年、三菱一号館美術館寄託)や《天壇遠望》(1942年か43年)と、《北京裸婦》(1942年、いずれも個人蔵)の中国テーマの3部作が展示されている。さらにルノワールの愛したバラなど花の絵も好み、《ひまわり》(1975年、個人蔵)なども梅原らしい作品だ。

 

梅原龍三郎《紫禁城》(中央)など中国テーマの3部作の展示

梅原龍三郎《紫禁城》(中央)など中国テーマの3部作の展示

梅原龍三郎《ひまわり》(手前)など花の展示

梅原龍三郎《ひまわり》(手前)など花の展示

 

さらにルノワールが後年手がけたブロンズ彫刻《ヴェールを持つ踊り子》(1964年鋳造、個人蔵)が出品され、その作品を描いた梅原の油彩《薔薇とルノワルのブロンズ》(1972年、東京都現代美術館)も比較し鑑賞できる。

 

ルノワール《ヴェールを持つ踊り子》(1964鋳造、個人蔵)

ルノワール《ヴェールを持つ踊り子》(1964鋳造、個人蔵)

梅原龍三郎《薔薇とルノワルのブロンズ》(1972年、東京都現代美術館)と《ヴェールを持つ踊り子》(手前)

梅原龍三郎《薔薇とルノワルのブロンズ》(1972年、東京都現代美術館)と《ヴェールを持つ踊り子》(手前)

東西交流果たし新たな油彩画を追求

私は作品に就て語る事を好まない。

作品が凡てを語るものでなければならない。

然し私の不幸は自分の作品が余りに雄弁でなさ過ぎる事である。

私の夢みる処は余りに多く、表現し得る処が余りに少しである。

そして表現のみが作品の価値を決定するものである事を知って悲哀である。

 

この文章は、私の手元にある画集に寄せた梅原の有名な言葉である。梅原は京都の伝統文化に育まれ、滞欧時にはルノワールをはじめ名だたる画家たちと交流し、東西両洋の美術から様々な養分を吸収して、豊潤で活力に満ちた独自の芸術を築きあげた。その画業は明治末から大正・昭和期まで、約80年間にわたっているが、日本の風土に立脚した油彩画の確立をめざし、苦闘していたことを裏付ける文言である。

 

東京から開幕に来場していた三菱一号館美術館の高橋明也館長(右)と梅原のひ孫の嶋田華子さん

東京から開幕に来場していた三菱一号館美術館の高橋明也館長(右)と梅原のひ孫の嶋田華子さん

今回の展覧会はこうした梅原の足跡をたどる格好の企画であった。あべのハルカス美術館の開会式に出席していた企画立案に関わった三菱一号館美術館の高橋明也館長は「近代洋画が忘れられかけているのではと思い、3年前から準備に入りました。梅原がルノワールから何かを学んだというより、その美学に愛情と共感を抱き続けたのです。これまで神格化された二人の画家に対して、新しい見方を感じていただければありがたいです」と話していた。

 

昨秋、神戸市立博物館で「松方コレクション展―松方幸次郎 夢の軌跡―」が開催された。松方が蒐集し、戦後フランスから日本へ寄贈返還された膨大な「松方コレクション」の絵画や彫刻を保存・公開する施設として、国立西洋美術館が1959年に建設されたのだった。梅原も蒐集した作品を国立西洋美術館はじめ公的な美術館に寄贈していることも注目される。

 

開会式には、梅原のひ孫で美術史家の嶋田華子さんも来場していて、「コレクションの大半がルノワールやピカソ、ルオーの作品が占め、嗜好がはっきりしており、画家として目指していた境地を推し量ることができます」と強調していた。

 

最後にこの展覧会を監修した三菱一号館美術館の安井裕雄・学芸グループ副グループ長は図録に次のような文章を記している。

 

梅原龍三郎がはじめて、師のルノワールの思い出を語った1917(大正6)年4月から数えてちょうど100年目の2017(平成29)年4月には、本展もその会期を終えている。私たちは100年もの間、梅原の言葉のおかげでルノワールを身近に感じてきた。だが最新の文献研究や科学調査は、これまで知らされていなかった事実を明らかにしており、これを無視することは歴史に対する良心的な態度とはいえない。新しい事実が明らかになった今こそ、100年前に梅原龍三郎が語ったルノワールとの出会いと、その影響力を見直してみる良い機会ではないだろうか。