明治維新より前の1866年に日本とイタリアが通商条約を結び国交が築かれた。その歴史的な年から150周年の今年、様々な記念事業が展開中だ。関西ではイタリアの人気観光スポットでもあるポンペイとヴェネツィアの芸術を紹介する二つの日伊国交樹立150周年特別展が開催されている。後世に語り継がれる古代ローマの繁栄の息吹を伝える「世界遺産 ポンペイの壁画展」が兵庫県立美術館で12月25日まで、ルネサンス期の水の都を彩った「アカデミア美術館所蔵 ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」が大阪の国立国際美術館で来年1月15日まで、それぞれの時代の芸術を競っている。その内容とともに、いずれの地にも足を運んでおり、現地の印象を書き添えたい。

噴火で埋もれたポンペイの街の復活

ポンペイ遺跡の中央広場からユピテル神殿跡と背後のヴェスヴィオ山を望む(2004年4月、筆者撮影)

ポンペイ遺跡の中央広場からユピテル神殿跡と背後のヴェスヴィオ山を望む(2004年4月、筆者撮影)

噴火によって埋没した都市ポンペイを訪れたのは2004年4月だった。1900年以上も前にタイムスリップしたような気分になったことを鮮明に思い出す。その遺跡の街を歩く時、古代ローマ人の栄華に驚愕し、一方で自然災害のすさまじさに戦慄を覚えた。それから2年有余経た2006~07年に「ポンペイの輝き 古代ローマ都市 最後の日」展が東京や大阪で催された。発掘された壁画や宝飾などの出土品、被災者の姿を型どりした石膏などを展示していた。そして今回はポンペイとその近郊の遺跡から出土した壁画にスポットを当て、描かれた主題ごとに展示する内容だ。

 

まずポンペイの史実を記しておく。文献によれば、79年8月24日午昼過ぎに、300年の眠りから目覚めたヴェスヴィオ火山が大音響とともに噴火。周囲の住民約2万5千人の頭上に、火山灰や焼けた小石が降り注いだ。さらに火砕流や火山灰に混じった高熱の有毒ガスは、逃げ惑う人々に襲いかかり、2千人以上の命を奪った。その後3日間にわたって、6メートル以上もの火山灰が降り積り、ポンペイの街は、灰の下に埋もれてしまったのだ。

 

以上のような記録は文書や碑文にはっきり銘記されているにもかかわらず、次第に人々の記憶から忘れさられた。ところが18世紀に入って、ここに別荘が建てられるようになり、井戸を掘っていて、古代の彫像や円柱などを発見したのだ。1748年にナポリのカルロ王(後のスペイン王カルロスⅢ世)が発掘物を王宮に運ばせ、注目を集めることになった。発掘は現在も続き、2世紀半過ぎてもまだ都市の全貌が明らかになっていない。

 

掘り出されたかつてのポンペイの街並み(2004年4月、筆者撮影)

掘り出されたかつてのポンペイの街並み(2004年4月、筆者撮影)

こうしたポンペイの栄光と悲劇に関心を寄せたのは、1997年にユネスコがポンペイと周辺地域の遺跡を世界遺産に登録したからだった。私はその頃、シルクロードの旅で侵略者や歴史の風化によって滅び残骸をさらす遺跡を数多く見ていただけに、ポンペイを訪れたいとの思いに駆られた。なにしろ高度な文明を持った都市が、邪馬台国の卑弥呼が登場する前の倭の時代に、こつ然と姿を消した。そして発掘されたかつての都市規模に大いに興味がそそられた。

 

現地では約2時間かけて、遺構が残る「過去の世界」を歩いた。その保存状態の良さに感嘆するばかりだった。2000年も前に水道や舗装道路などの公共施設を設け、建物を整備し、都市を形成、豊かな社会を求めた古代人の知恵に驚かされ通しだった。その建物跡から一日の労働の疲れを浴場でいやし、劇場で芝居を楽しみ、絵画などの芸術を好み、市場で買い物をした市民生活の様子を想像することができた。まさに時代を奇跡の都市の復活だった。

 

壁画約80点、甦る古代ローマの彩り

前置きが長くなったが、「ポンペイの壁画展」は古代ローマ人のすばらしい資質を再認識させるに十分だった。出土遺物の中でも、とりわけ人々を驚かせたのは、色鮮やかな壁画の数々だ。火山灰が乾燥剤に似た役割を果たし、劣化を防いだことにより、奇跡的に保存されたという。住宅や公共建築など、さまざまな建造物を美しい絵画で飾り、人生を謳歌した古代ローマの豊かな暮らしをつぶさに見ることできる機会である。門外不出とされる壁画など日本初公開を含む約80点が出展されている。

 

展示構成は4つの章に分かれ、第Ⅰ章は「建築と風景」で、幻想的な建築物や風景を描いた壁画が時代とともに変化した様式を取り上げ、制作に使われた道具や顔料も合わせて展示。《赤い建築を描いた壁面装飾》(前1世紀後半、ポンペイ監督局)は、ヴェスヴィオ火山麓にあった別荘の壁を飾っていた。盗掘者によって不法にスイスに持ち出されていたが、近年イタリアへ戻ってきた。赤い色を基調に、柱や欄干で仕切られた建物の中央には女性の頭部が描かれ、上部には長い髪を持つ優美な女性像、さらには窓外の風景などが独特な遠近法で描かれている。

 

《赤い建築を描いた壁面装飾》(前1世紀後半、ポンペイ監督局)

《赤い建築を描いた壁面装飾》(前1世紀後半、ポンペイ監督局)

 

第Ⅱ章「日常の生活」では、いかに優雅な都会生活に満たされていたかがうかがえる。古代ローマでは街なかに家(ドムス)があり、郊外に別荘(ウィラ)を設けていた。ドムスの壁面は、植物や小動物のモチーフで飾られていた。《犬のシュンクレトゥス》(後1世紀、ナポリ国立考古学博物館)は、黒パネルに中央に犬が右向きに、トカゲをくわえた蛇食鳥が左向きに、鮮烈な色彩で捉えられている。

 

《犬のシュンクレトゥス》(後1世紀、ナポリ国立考古学博物館)

《犬のシュンクレトゥス》(後1世紀、ナポリ国立考古学博物館)

 

《カルミアーノ農園別荘、トリクリニウム》(後 62-79 年、ポンペイ監督局)は、ぶどう酒の生産を営み、美しい自然の中にあったウィラの食堂を再現展示している。この壁画は1963年に発見され、薄く切り取られ保存されてきた。農園にふさわしく、ギリシャ神話に登場する豊穣とぶどう酒と酩酊の神であるディオニュソスをモチーフに描いた一連の壁画に、極めて高度な装飾が施されている。この立体展示は見どころの一つだ。

 

《カルミアーノ農園別荘、トリクリニウム》(後62-79年、ポンペイ監督局)

《カルミアーノ農園別荘、トリクリニウム》(後62-79年、ポンペイ監督局)

《カルミアーノ農園別荘、トリクリニウム》の立体展示    (兵庫県立美術館で筆者撮影)

《カルミアーノ農園別荘、トリクリニウム》の立体展示    (兵庫県立美術館で筆者撮影)

 

第Ⅲ章は「神話」がテーマ。ポンペイの古代ローマ人はギリシャ文化に憧れ、自ら好む神話のエピソードを組み合わせ、部屋に配置したのだった。ポンペイと同じく世界遺産に登録されたエルコラーノ。この街の皇帝崇拝の場であった公共建築「アウグステウム」を飾った壁画は、最高水準の質を誇っていたとみられる。

 

《赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス》(後1世紀後半、ナポリ国立考古学博物館)

《赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス》(後1世紀後半、ナポリ国立考古学博物館)

 

中でも「アウグステウム」から出土した《赤ん坊のテレフォスを発見するヘラクレス》(後1世紀後半、ナポリ国立考古学博物館)は、これまで国外ではベルリンにしか出たことがなく、日本初公開。英雄ヘラクレスが山に捨てられ雌鹿の乳で育てられた赤ん坊の息子と出会った場面を描く大壁画で、重さが約500キロもある。このほか《テセウスのミノタウロス退治》や《ケイロンによるアキレウスの教育》(いずれも後1世紀後半、ナポリ国立考古学博物館)など見ごたえのある作品が並ぶ。

 

左)《テセウスのミノタウロス退治》(後1世紀後半、ナポリ国立考古学博物館) 右)《ケイロンによるアキレウスの教育》(後1世紀後半、ナポリ国立考古学博物館)

左)《テセウスのミノタウロス退治》(後1世紀後半、ナポリ国立考古学博物館)
右)《ケイロンによるアキレウスの教育》(後1世紀後半、ナポリ国立考古学博物館)

 

最後の第Ⅳ章は「神々と信仰」。古代ローマの世界にはさまざまな神があふれ、信仰の対象として多くの壁画が描かれた。ポンペイの位置するカンパニア地方はぶどう酒の産地であり、ディオニュソスが植物の生育を司る神として篤い信仰を集めた。またローマ帝国の領土拡大とともに、外来の神々でエジプト由来の女神イシスなども登場する。

 

《踊るマイナス》(後1世紀後半、ナポリ国立考古学博物館)は、黒地を背景にオリーブの冠を被り、細い杖を持ち宙を舞う優雅な作品だ。マイナスはギリシャ神話に登場するが、狂暴で理性を失った女性として知られる。この章では、《横たわるマイナス》(後1世紀後半、ポンペイ・考古遺物収蔵庫)、《有翼のウィクトリア》(前1世紀、ポンペイ・考古遺物収蔵庫)、さらに《イシス女神官のヘルマ柱》(前30年頃、ナポリ国立考古学博物館)などが展示されている。

 

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海に浮かんだ迷宮都市・ヴェネツィア

ヴェネツィアを訪れたのも、ポンペイと同じイタリアの旅だった。水の都と謳われるが、海に浮かんだ都市だ。大陸からの川の流れに乗ってくる土砂、そしてアドリア海の波と風の力によって作られた湿地帯である。5世紀半ば、北イタリアの住民が、ゲルマン人の侵略から逃れ棲み始めたといわれる。697年にはヴェネツィア人は初代総督を選出してヴェネツィア共和国の樹立したのである。

 

ここには一泊したが、道は迷路のように入り組み、袋小路も多く、見通しもきかない。川に架かる橋には階段がついている。文明の利器・車も、この街では無用。乗り物といえば、水上バスや水上タクシー。有名なゴンドラが運河を縫うように行き来する。路地から路地へ、人は歩く。よそ者にはさぞかし非機能的で住みにくい街に思えるが、車社会の弊害を排したこの街は、住めば楽園かもしれない。

 

運河を縫うように行き来する観光船のゴンドラ(2004年4月、筆者撮影)運河を縫うように行き来する観光船のゴンドラ(2004年4月、筆者撮影)

運河を縫うように行き来する観光船のゴンドラ(2004年4月、筆者撮影)

 

ヴェネツィアの中心であり、玄関口となるのが本島の湾に面したサン・マルコ広場だ。時計塔に囲まれたこの広場と周辺にサン・マルコ寺院はじめ、ドゥカーレ宮殿、コッレール博物館、新政庁などが建つ。今回の展覧会の所蔵先であるアカデミア美術館もその一角にあったが、入館していない。ここにこれほどのルネサンスの巨匠たちの絵画があったとは知らなかった。

 

ヴェネツィアの中心で本島の湾に面したサン・マルコ広場(2004年4月、筆者撮影)

ヴェネツィアの中心で本島の湾に面したサン・マルコ広場(2004年4月、筆者撮影)

 

ルネサンスは、15世紀にイタリアで始まった人間性復興をめざした社会・文化の革命運動だ。その発祥の地となったのがフィレンツェで、ルネサンス以前の中世では、絵画や彫刻はほとんど教会の依頼で制作されていた。商業で栄えたフィレンツェではメディチ家の支配の下におかれ、その経済的な庇護によって、多くの芸術家が育った。貿易で栄えたヴェネツィアに波及し、ルネサンスの名画が数多く制作され、遺されているのもうなずける。

 

ルネサンスの巨匠作品、厳選の約60点

「ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠たち」展は、アカデミア美術館所蔵品による本邦初の展覧会だ。同館はヴェネツィアの美術アカデミーが管理していた作品を礎として、1817年に開館した。14~18世紀にかけてのヴェネツィア絵画を中心に、約2000点を数える充実したコレクションを有す。今回の企画展は、15~17世紀初頭に至るヴェネツィア・ルネサンス絵画約60点を厳選し催された。

 

こちらは5章立てで構成。プレスリリースを基に各章と主な作品を取り上げる。まず第1章が「ルネサンスの黎明―15世紀画家たち」。フィレンツェより少し遅れて1440年頃に始まったヴェネツィアのルネサンス美術は、ベッリーニ一族とヴィヴァリーニ一族の二大工房が中心となった。フィレンツェの先進的な美術の刺激を受けて、ヴェネツィア独自の豊かな色彩による装飾的趣味と融合させた。

 

初期ルネサンス絵画を代表する最大の画家がジョヴァンニ・ベッリーニ(1424/28-1516)で、詩的な聖母子像を数多く描いた。その一枚が《聖母子(赤い智天使の聖母)》(1485-90年)だ。またヴィットーレ・カルパッチョ(1460頃-1526)は、《聖母マリアのエリサベト訪問》(1504-08年)のように宗教的主題のなかに、当時のヴェネツィアの風俗を見事に描き出した。

 

左)ジョヴァンニ・ベッリーニ《聖母子(赤い智天使の聖母)》(1485-90年、アカデミア美術館) 右)ヴィットーレ・カルパッチョ《聖母マリアのエリサベト訪問》(1504-08年、アカデミア美術館)

左)ジョヴァンニ・ベッリーニ《聖母子(赤い智天使の聖母)》(1485-90年、アカデミア美術館)
右)ヴィットーレ・カルパッチョ《聖母マリアのエリサベト訪問》(1504-08年、アカデミア美術館)

 

第2章は「黄金時代の幕開け―ティツィアーノとその周辺」。16世紀初頭、二人の若い画家によってヴェネツィア絵画に革命がもたらされる。光と影の効果や色彩の調和に対する感覚によって、柔らかい光に包まれた風景や官能的な女性像を詩的な感性で描き出し、ヴェネツィア絵画の黄金時代を創り出した。

 

その一人、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1488/90-1576)の晩年の大作《受胎告知》(1563-65年頃)がサン・サルヴァドール聖堂から特別出品されている。大天使ガブリエルがマリアに受胎を告げる場面は、聖堂や教会を飾るテーマながら、ティツィアーは、天が開け、まばゆい光とともに聖霊が降臨し、お告げに耳を傾けるマリアの姿を大胆に力強く描出した。

 

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《受胎告知》(1563-65年頃、ヴェネツィア、サン・サルヴァドール聖堂)

ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《受胎告知》(1563-65年頃、ヴェネツィア、サン・サルヴァドール聖堂)

 

この章では、アンドレア・プレヴィターリ(1475/80-1528)の《キリストの降誕》(1515-25年)や、ボニファーチョ・ヴェロネーゼ(本名ボニファーチョ・デ・ピターティ、1487頃-1553年)の《父なる神のサン・マルコ広場への顕現(「受胎告知」三連画より》(1543-1553年)、パリス・ボルドーネ(1500-71)の《眠るヴィーナスとキュービッド》(1540-50年頃、ヴェネツィア、ジョルジョ・フランケッティ美術館[カ・ドーロ])などの力作が出揃う。

 

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第3章の「三人の巨匠たち―ティントレット、ヴェロネーゼ、バッサーノ」では、16世紀になって華々しくデビューした三人の巨匠たちの大作を中心に展示。ヤコポ・ティントレット(本名ヤコポ・ロブスティ、1519-94)の《聖母被昇天》(1550年頃)、パオロ・ヴェロネーゼ(本名パオロ・カリアーリ、1528-88)の《レパントの海戦の寓意》(1572-73年頃)、ヤコポ・バッサーノ(本名ヤコポ・ダル・ポンテ、1515頃-92)と工房による《ノアの箱舟に入っていく動物たち》(1580-90年頃)などが並ぶ。

 

左)ヤコポ・ティントレット(本名ヤコポ・ロブスティ)《聖母被昇天》(1550年頃、アカデミア美術館) 右)ヤコポ・バッサーノ(本名ヤコポ・ダル・ポンテ)と工房《ノアの箱舟に入っていく動物たち》(1580-90年頃、アカデミア美術館)

左)ヤコポ・ティントレット(本名ヤコポ・ロブスティ)《聖母被昇天》(1550年頃、アカデミア美術館)
右)ヤコポ・バッサーノ(本名ヤコポ・ダル・ポンテ)と工房《ノアの箱舟に入っていく動物たち》(1580-90年頃、アカデミア美術館)

 

第4章は「ルネサンスの終焉―巨匠たちの後継者」で、前章の三人の巨匠が次々に他界し、ルネサンスからバロックへの過渡期に移る。代表的な作品では、パルマ・イル・ジョーヴァネ(本名ヤコポ・ネグレッティ、1548/50-1628)の《聖母子と聖ドミニクス、聖ヒュアキントゥス、聖フランチェスコ》(1595年頃)は、3メートルを超す大型祭壇画だ。パドヴァニーノ(本名アレッサンドロ・ヴァロターリ、1588-1649)の《オルフェウスとエウリュディケ》(1620年頃)や、《プロセルピナの略奪》(1620-30年)など、暗い闇の中に浮かぶ官能的な裸身を際立たせた神話画が目を引きつける。

 

左)パルマ・イル・ジョーヴァネ(本名ヤコポ・ネグレッティ)《聖母子と聖ドミニクス、聖ヒュアキントゥス、聖フランチェスコ》(1595年頃、アカデミア美術館) 右)パドヴァニーノ(本名アレッサンドロ・ヴァロターリ)《オルフェウスとエウリュディケ》(1620年頃、アカデミア美術館)

左)パルマ・イル・ジョーヴァネ(本名ヤコポ・ネグレッティ)《聖母子と聖ドミニクス、聖ヒュアキントゥス、聖フランチェスコ》(1595年頃、アカデミア美術館)
右)パドヴァニーノ(本名アレッサンドロ・ヴァロターリ)《オルフェウスとエウリュディケ》(1620年頃、アカデミア美術館)

 

最後の第5章は「ヴェネツィアの肖像画」。これまでの宮廷風の堅苦しさから、自由でカジュアルな、時に内面性への深い洞察を含んだ様式に発展させ、その後の西洋美術の肖像画制作のモデルとなる。ベルナルディーノ・リチーニオ(1485/90-1549以降)の《バルツォ帽をかぶった女性の肖像》(1530-40年頃)は、女性の肌を引き立たせる斬新な構図だ。ドメニコ・ティントレット(本名ドメニコ・ロビステ、1560-1635)の《サン・マルコ財務官の肖像》(1600年頃)も入念に仕上げられ素晴らしい。

 

ベルナルディーノ・リチーニオ《バルツォ帽をかぶった女性の肖像》(1530-40年頃、アカデミア美術館)

ベルナルディーノ・リチーニオ《バルツォ帽をかぶった女性の肖像》(1530-40年頃、アカデミア美術館)

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イタリアは多面的な顔を持っている。ポンペイとヴェネツィアで一時代を彩った美は、時代を経ても色褪せない。歴史や地域を異にするものの、人間性尊重の街づくりや芸術活動創生の精神性に、私たちが学び、次世代へ教えてくれるものは少なくない。