全国津々浦々、各地の美術・博物館では多種多様な展覧会が開かれている。ルノワールやモネ、ゴッホらの巨匠展や、古代エジプト、中国文明展などが度々開催され人気を博する中で、地味ながら戦後70年余、あの時代を見据えた二つのテーマ展に注目した。京都国立近代美術館独自の「あの時みんな熱かった!アンフォルメルと日本の美術」は9月11日までの開催。広島市現代美術館では「1945年±5年 戦争と復興:激動の時代に美術家は何を描いたのか」が10月10日まで開催されている。こうしたテーマ展は、企画者の確固たるコンセプトを基に出品作品の選定や、多岐にわたる所蔵先への出品交渉や借用作業など課題が多い。二つの展覧会の趣旨や作品について紹介するとともに、多くの展覧会に関わってきた私の経験から「労多くして益少なし」が通り相場ながら有意義なテーマ展についても言及しておきたい。

 

「あの時みんな熱かった!アンフォルメルと日本の美術」
「未定形の芸術」、洋画その他で「熱い」表現

「アンフォルメルと日本の美術」展は、第二次世界大戦の終戦から約10年が経った時代、日本美術へ大きな影響を及ぼした「アンフォルメル」に着目し、日本で果たした役割なども考察する。展覧会ではジャンルの広範さと展開の多様さにおいて日本の美術史上例を見ない特筆すべきアンフォルメル現象を、岡本太郎や具体美術協会メンバーら内外の作品約100点で回顧する。

 

立体や平面作品が並ぶ「アンフォルメル」の展示会場

立体や平面作品が並ぶ「アンフォルメル」の展示会場

 

そもそも「アンフォルメル」とは、フランス語で「未定形の芸術」を意味し、1940年代半ばから50年代にかけてフランスをはじめヨーロッパ各地に現れた、激しい抽象絵画を中心とした美術の動向を表した言葉で、パリで展覧会企画などでも活躍していた美術評論家ミシェル・タピエが名づけた。

 

第二次世界大戦の破壊や殺戮による傷跡が癒えない1945年前後のパリで、画家の筆や体の動きに重点を置く絵画であった。また戦争という不条理を通過した人間が、絵画の制作や絵具を不安定に重ねたり削ったりすることを通して自己の存在や身体感覚や実存を探ろうとした。

 

日本では国民と国土が深く傷ついた敗戦からほぼ10年後の1956年、経済白書に「もはや戦後ではない」と記され流行語となり、時代は高度経済成長へと向かっていた。そんな時期に欧米の最新美術作品の「アンフォルメル」が日本に上陸したのだった。

 

作者の行為(アクション)の痕跡や鮮烈な色彩、素材そのものの生々しい物質感を強調した斬新な表現は、日本の美術家たちに大きな衝撃を与えた。そして以後も、洋画や彫刻のみならず、日本画や陶芸、生け花といった日本の伝統的な表現ジャンルに至るまで、こうした「熱い」表現が脚光を浴びた。

 

その激しさは、当時のメディアで「アンフォルメル旋風」「アンフォルメル・ショック」「アンフォルメル台風」とまで形容された。今回の展覧会では、そんな日本の美術史上例を見ない現象を、単に「アンフォルメル」の様式的影響や類似点、共通点を見るだけでなく、上陸以前の作品を含めジャンルや世代を超えて多くの美術家たちが「熱い」表現をめざし、そして日本の戦後美術において「アンフォルメル」が果たした役割も再考する趣旨だ。

 

展覧会の構成は5章建てで、図録などを参考に主な展示作品を紹介する。第1章が「ミシェル・タピエとアンフォルメル」。タピエと知り合った留学中の今井俊満(1928-2002)が1956年、タピエ・コレクションから選んだ作品を東京・大阪などで「世界・今日の美術展」で披露。翌年にはタピエが訪日し、日本人美術家らの作品を組み入れ「世界・現代芸術展」を開き、アンフォルメル作品が大きな影響を与えことになった。

 

この章では、先駆的な美術家の作品をまず紹介。ジャン・デュビュッフェ(1901-85)の《ご婦人のからだ(「ぼさぼさ髪」)》(1950年、国立西洋美術館)は、形態が失われるほどの抽象化を進めた人体像が描かれていた。デュビュッフェと並びタピエが評価したジャン・フォートリエ(1898-1964)や、日本で個展が開かれなじみのサム・フランシス(1923-94)らの作品も並ぶ。

 

ジャン・デュビュッフェ《ご婦人のからだ(「ぼさぼさ髪」)》(1950年、国立西洋美術館)

ジャン・デュビュッフェ《ご婦人のからだ(「ぼさぼさ髪」)》(1950年、国立西洋美術館)

 

第2章の「身体・アクション・線の流動」からは日本の美術だ。「アンフォルメル」上陸以前から線と余白で構成した井上有一(1916-85)や森田子龍(1912-98)らの「書」の作品にも着目だ。吉原治良(1905-78)や津高和一(1911-95)らの具体美術家らの抽象絵画に類似性が見られる。さらに流動的な形態の表現が陶芸作品にも波及する。

 

篠原有司男《ボクシング・ペインティング》(1991年、国立国際美術館)

篠原有司男《ボクシング・ペインティング》(1991年、国立国際美術館)

 

篠原有司男(1932-)の《ボクシング・ペインティング》(1991年、国立国際美術館)が眼を引く。何しろ高さ1メートル50センチ、幅が16メートル20センチの超大作だ。篠原がグローブに墨を付けキャンパスと格闘した痕跡だ。白髪一雄(1924-2008)の《天暗星青面獣》(1960年、兵庫県立美術館)は身体をロープにぶら下がり足で描いた作品だ。

 

白髪一雄《天暗星青面獣》(1960年、兵庫県立美術館)

白髪一雄《天暗星青面獣》(1960年、兵庫県立美術館)

 

花鳥画や山水画から洋画風俗画など多彩な制作の堂本印象(1891-1975)の六曲一隻屏風《風神》(1961年、京都府立堂本印象美術館)も見ごたえがある。民藝作品で知られる陶芸家の河井寛次郎(1890-1966)の《打薬扁壺》(1962年、京都国立近代美術館)も従来の殻を超えた作品だ。

 

堂本印象の六曲一隻屏風《風神》(1961年、京都府立堂本印象美術館)

堂本印象の六曲一隻屏風《風神》(1961年、京都府立堂本印象美術館)

河井寛次郎《打薬扁壺》(1962年、京都国立近代美術館)

河井寛次郎《打薬扁壺》(1962年、京都国立近代美術館)

 

第3章は「原始・生命・生態的イメージ」。日本の主権が回復した1951年、岡本太郎(1911-96)は縄文土器の荒々しい形態に驚き、「我国の土壌の中にも掘り下げるべき文化の層が深みにひそんでいることを知った」と絶賛し、原始的な生命力に、日本美術の再生を求めた。《燃える人》(1955年、東京国立近代美術館)は原色を多用し、大胆なタッチで描いた一点だ。

 

岡本太郎《燃える人》(1955年、東京国立近代美術館)

岡本太郎《燃える人》(1955年、東京国立近代美術館)

 

いけばな草月流を創始した勅使河蒼風(1900-79)の《樹獣》(1957年、一般財団法人草月会)は巨木を素材に前衛的なオブジェを制作した。

 

勅使河原蒼風《樹獣》(1957年、一般財団法人草月会)

勅使河原蒼風《樹獣》(1957年、一般財団法人草月会)

来日したミシェル・タピエと勅使河原蒼風や堂本印象との交流写真

来日したミシェル・タピエと勅使河原蒼風や堂本印象との交流写真

 

第4章は「反復・集合・覆われる画面」で、均一的なモチーフの反復や集合、明確な輪郭を持たない形態や色面を展開した作品コーナー。中西夏之(1935-)の《韻》(1960年、国立国際美術館)は、絵画表現の出発点となった抽象的な連作の一つだ。《原爆の図》で知られる丸木位里(1901-95)の四曲一隻屏風《臥竜梅》(1961年、東京国立近代美術館)や、写真家の東松照明(1930-2012)の《廃園 東京》(1964年、国立国際美術館)なども展示されている。

 

中西夏之《韻》(1960年、国立国際美術館)の展示

中西夏之《韻》(1960年、国立国際美術館)の展示

丸木位里の四曲一隻屏風《臥竜梅》(1961年、東京国立近代美術館)

丸木位里の四曲一隻屏風《臥竜梅》(1961年、東京国立近代美術館)

 

最後の第5章は「マチエール・物質」で、画面に砂や石膏など絵具以外の物質を駆使して表現した作品が出品されている。「反芸術」世代の代表格とされる工藤哲巳(1935-90)の《増殖性連鎖反応》(1956-57年、国立国際美術館)は不気味な作品だが、文明批評的な視点で制作され、海外での評価も高い。

 

工藤哲巳《増殖性連鎖反応》(1956-57年、国立国際美術館)

工藤哲巳《増殖性連鎖反応》(1956-57年、国立国際美術館)

 

紙や粘土、廃材などを活用した抽象絵画に取り組んだ岩田重義(1935-)の《WORK-139》(1963年、京都国立近代美術館)も個性的だ。上前智祐(1920-)は具体美術協会のメンバーで、解散後も新しい表現の開拓に取り組んでいる。《作品》(1958-59年、兵庫県立美術館)は38-39歳の作品だ。

 

岩田重義《WORK-139》(1963年、京都国立近代美術館)

岩田重義《WORK-139》(1963年、京都国立近代美術館)

 

この展覧会企画した京都国立近代美術館の平井章一・主任研究員は「日本におけるアンフォルメルとその役割」と題して、次のように記している。

 

アンフォルメル旋風が吹き荒れた一時期だけでなく1950年代初頭から60年半ばに至る時間の流れのなかで作品を眺め直してみることで、アンフォルメルが日本の美術に直接、間接的に果たした役割が浮かび上がって来ないだろうか。(中略)作品の紹介やタピエの来日で突如火が付いたかに思われているアンフォルメルという表現様式が、実は敗戦直後から日本の美術家が抱えてきた表現上の課題や、ひいては日本人全体に内在してきた精神的な課題を覚醒させ、新たな表現へと導く触媒として機能したということであるつまり、アンフォルメルの爆発的な流行の発端には、そこに至る複数の伏流が存在したように思われる。

 

「1945年±5年 戦争と復興:激動の時代に美術家は何を描いたのか」
約70作家の約200点で転換期を回顧

「1945年±5年」展は、第二次世界大戦が終戦した1945(昭和20)年を境にして、その前後それぞれ5年間、具体的には時代の大きな転換期であった1940~50年の11年間の日本の美術に焦点を当てた展覧会だ。油彩画を中心に一部日本画と版画も加え約70作家の約200点(9月4日までの前期と、9月6日からの後期で一部展示替え)の作品によって振り返る。こちらは兵庫県立美術館からの巡回展だ。

 

戦前の前半は1937年から始まった日中戦争や、1941年からのアジア・太平洋戦争の時代であった。敗戦で迎えた戦後の後半は連合国によって占領統治された時代だ。アンフォルメル旋風より少し前の日本近代史上、最も激動の時代、美術家はどのような表現を行い、社会とどのような関係を築いたのかがテーマとなっている。

 

戦時下、戦況が厳しくなるほど、戦争が軍事力だけではなく、国のあらゆる力を総動員して行われる総力戦となった。この時代、美術の活動は厳しく統制され、戦争遂行に協力することが求められた。画家たちはやむなく戦争画や、銃後の人々を顕彰する絵などを描いた。敗戦を経た戦後は廃墟の絵が多く取り上げられた。言わば画家たちは廃墟から出発したといえよう。

 

今回の展覧会は、こうした時代の大きな渦に巻き込まれながらも、時代を生きぬき、戦後文化に名を残す美術家たちの作品によって概観しようとの趣旨だ。章建ては細かく11章もあるが、時代区分で大きく4つに分けられ、それぞれの区分ごとに主な作品を紹介する。

 

まず「1940年~42年頃」は、戦争の影が日増しに濃くなるが、軍需景気もあって、「モダン・ライフ」の一面も残す。中西利雄(1900-48)の《散策》(1940年、茨城県近代美術館)は水彩ながら豊かな色彩でモダンな女性を取り上げているのをはじめ女性像3点が出品されている。小磯良平(1903-88)の《斉唱》(1941年、兵庫県立美術館)は清楚な黒い服に身を包んだ女性たちが楽譜を手に合唱する姿を描いた。小磯は後に従軍画家として戦争画を描くことになる。

 

中西利雄《散策》(1940年、茨城県近代美術館)

中西利雄《散策》(1940年、茨城県近代美術館)

 

この時期、戦後の代表作《立てる像》を遺している松本竣介(1912-48)の《議事堂のある風景》(1942年、岩手県立美術館)は重苦しい光景だ。靉光(1907-46)も世相を反映し、静物画を集中的に制作。《蝶》(1941年、広島市現代美術館)もその一点で、薄暗い背景の中で生死をさまよう存在を表現しているのであろう。

 

松本竣介《議事堂のある風景》(1942年、岩手県立美術館)

松本竣介《議事堂のある風景》(1942年、岩手県立美術館)

靉光《蝶》(1941年、広島市現代美術館)

靉光《蝶》(1941年、広島市現代美術館)

 

日本が軍事的に進出し地域や、とりわけ日本による傀儡国家「満州国」には、画家たちも「外地へ」出向き、作品も数多く残されている。森堯之(1915-44)の《ロシア教会》、《ハルビン風景》(いずれも1941年頃、徳島県立近代美術館)や、制作年はややずれるが、前田藤四郎(1904-90)の《満映の女優》、《満州スケッチ》(いずれも1943-45年、大阪新美術館建設準備室)などが展示されている。

 

森堯之《ロシア教会》

森堯之《ロシア教会》

 

「1942~45年頃」にかけては、日中から太平洋戦争のさなかで、従軍画家となった藤田嗣治(1886-1968)の《シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)》や、中村研一(1895-1967)の《シンガポールへの道》は戦地の様子を伝える。また一兵卒として従軍した山下菊二(1919-86)や、南方戦線に派遣された清水登之(1887-1945)、小磯の戦争画も複数出品されている。

 

内地での作品も重い。小早川秋聲(1889-1974)の《国之盾》(1944年、京都霊山護国神社)は実の息子をモデルに兵士の亡骸を筆に託したという。須田国太郎(1891-1961)の《学徒出陣壮行の図》(1944年、京都大学)や、銃後の女流美術家奉公隊の大作《大東亜戦皇国婦女皆働之図(春夏の部)》(1944年、筥崎宮)などが時代を映す。

 

小早川秋聲《国之盾》(1944年、京都霊山護国神社)

小早川秋聲《国之盾》(1944年、京都霊山護国神社)

 

「1945~46年頃」は、敗戦で廃虚から出直しの世の中。「ゲゲゲの鬼太郎」の妖怪漫画で活躍した水木しげる(1922-2015)は捕虜となるが、南方の人々や風景をモチーフにしたデッサンを描いていた。

 

廃墟が広がる都市風景を数多く作品化した松本の《Y市の橋》(1946年、京都国立近代美術館)や、北川民次(1894-1989)の《焼跡》(1945年、名古屋市美術館)などに、言いようの無い悲しみや虚しさが漂う。

 

一方、洋画の重鎮、石井柏亭(1882-1958)は杜甫の詩を題名にした《山河在》で、人間の営みのはかなさに対する、自然の不変性を表現する。久保守(1905-92)の《戦後の風景》(1947年、東京都現代美術館)は明るい色調ながら、どこか寂寥感が漂う。

 

久保守「戦後の風景」(1947年、東京都現代美術館)

久保守「戦後の風景」(1947年、東京都現代美術館)

 

「1947年頃~50年」は戦後、復興への道を歩む日本にあって、美術も多様な表現へ。戦後の風俗を描いた作品に、いくつかの女性像も並ぶ。その中で、鶴岡政男(1907-79)の《重い手》(1949年、東京都現代美術館)は存在感がある。

 

鶴岡政男《重い手》(1949年、東京都現代美術館)

鶴岡政男《重い手》(1949年、東京都現代美術館)

 

また戦中の統制で押さえられていた前衛美術も復活。戦前から活躍していた具体の吉原治良はじめ、岡本太郎、福沢一郎(1898-1992)、鶴岡政男らが再び精力的に制作する。吉原の《群像》(1946年頃、兵庫県立美術館)は白と黒の直線と曲線で人の群れを表現した作家会心の作だ。

 

吉原治良《群像》(1946年頃、兵庫県立美術館)

吉原治良《群像》(1946年頃、兵庫県立美術館)

 

最後に「戦争回顧」の作品を忘れてはならない。香月泰男(1911-74)の《埋葬》(1948年、山口県立美術館)や、丸木位里(1901-95・丸木俊(1912-2000)の《原爆の図》シリーズ(1950年頃)、苛酷な体験を版画作品にした《初年兵哀歌》シリーズで知られる浜田知明(1917-)の《聖馬》(1950年、兵庫県立美術館)などは、いずれもメッセージ性のある作品だ。

 

こちらの企画者は兵庫県立美術館の出原均学芸員で、浜田作品について「小さな画面が、あるいは、小さな画面だからこそ、戦争画の大画面に対抗できることを証明したといえよう。おそらく、戦争の回顧において、《原爆の図》と《初年兵哀歌》の大きな幅こそ、戦後美術の豊かさを示すものかもしれない」と記している。

筆者注:《初年兵哀歌》の画像は過去の記事からご覧ください

×

 

最後に、この二つのテーマ展を開催した美術館や関係者に拍手を贈りたい。戦後70年の節目の昨年は、名古屋市美術館で「画家たちと戦争:彼らはいかにして生きぬいたのか」、広島県立美術館で「広島・長崎 被爆70周年 戦争と平和展」の特別展が開催されたのをはじめ、横浜市美術館でも「戦後70年記念特別展示 戦争と美術」や熊本県立美術館で「浜田知明のすべて」などが開かれ鑑賞した。いずれも美術の視点から戦争を見直す好企画だった。その流れが今年に継続され、内容的にも充実していた。

 

テーマ展については、朝日新聞社企画部に在籍していた時に、いくつか取り組んだ。その一つに戦後50年記念の「戦後文化の軌跡 1945‐1995」展(戦後文化展)があった。絵画や彫刻のみならず写真、建築、デザイン、ファッション、いけばな、映像、マンガにいたる様々な視覚文化を検証しようという壮大なテーマ展だった。

 

戦後の50年を、廃墟から復興への5年間、国家再生への道をたどるが東西の冷戦構造が支配した1950年代、そして60年にかけて伝統と革新が入り混じり、前衛芸術が展開する一方で大衆文化が形成された60年代、近代への懐疑からポストモダンの時代への70-90年代といった時代区分で、それぞれの時代を象徴する作品を選定し展示しようという趣旨だ。

 

こんな雲をつかむような企画を進めたのが、会場予定の目黒区、兵庫県立近代、広島市現代、福岡県立の4美術館の担当学芸員たちと朝日の担当者。約20人で研究会をつくり、2年余にわたって20数回も学芸会議を重ね、二泊三日の合宿までした。

 

当時は、美術館や新聞社もゆとりがあり、採算を度外視しても美術館の存在意義や新聞社のイメージアップにつなげれば、時間と経費のかさむ文化事業にも取り組めた。近年は美術館や新聞社を取り巻く状況が厳しくなっており、今では当初から赤字覚悟での企画展は成り立たなくなった。

 

こうした事情もあって、テーマ展は「労多くして、益少なし」が実情だ。しかしプロセスこそ企画の醍醐味であり、スタッフにとっては相互研修となり、人的パイプの連携や拡大につながる。展覧会に足を運ぶ鑑賞者も、単にPRにつられてではなく、新聞や雑誌を通じ、事前に開催の意図などにも目を通してもらえばと思う。