20世紀初頭、世界の美術界に数々の伝説を遺した天才画家の藤田嗣治とダリの回顧展が注目される。二人の巨匠はほぼ同じ時代を生き、ともに80歳を超え長生きし、持てる才能を遺憾なく発揮した。パリで活躍した藤田と同じように、アメリカに進出して成功をおさめたスペイン出身のダリは、いずれも奇行と逸話で知られる異邦人画家。おかっぱ頭にロイド眼鏡とちょび髭の藤田に対し、上向きにピンとはねたカイゼル髭と目を大きく見開いたダリは、負けず劣らず独特の風貌で知られ、その言動も異端であった。筆者は朝日新聞社時代にこの2人の巨匠の展覧会企画に関わりながら、「著作権の壁」に阻まれた藤田展、著作権訴訟を超え実現したダリ展と向き合った思い出がある。二つの巨匠展を紹介するとともに、体験も書き記しておこう。

エコール・ド・パリの寵児となった藤田

名古屋市美術館の会場入り口掲げられた藤田嗣治の肖像写真

名古屋市美術館の会場入り口掲げられた藤田嗣治の肖像写真

 

藤田嗣治(1886-1968)は、東京の陸軍一等軍医の末っ子に生まれ、幼少から画家を志す。東京美術学校西洋画科で黒田清輝に師事。1913年渡仏し、ピカソやモディリアーニらと交友する。猫と女性を主な画題とし、日本画の技法を油彩画に取り入れつつ、独自の「乳白色の肌」と称された裸婦像は西洋画壇で絶賛を浴び、1920年代のエコール・ド・パリの寵児となる。

 

1929年に17年ぶりに一時帰国。1932年になって南米各地を回り、アメリカ経由で帰国する。沖縄や秋田、大阪、京都など国内各地を旅するも、1938年から画家として戦争記録画を描く。敗戦後、数多くの戦争画を描いたため、美術で戦争に加担したと追求され、責任の矢面に立たされる。「日本画壇も国際水準に達することを祈る」の言葉を残し、日本を後にした。そして再び祖国の土を踏むことがなかった。

 

再びフランスへ渡り、以前と同様にパリで評価を得た藤田は、1955年にフランス国籍を取得し、帰化する。さらに59年にはカトリックの洗礼を受けレオナール・フジタと名乗る。その後、独自の様式で裸婦はじめ自画像、猫、静物などを描き続ける。この間、私生活でも結婚、離婚を繰り返し、奔放に生きる。

 

晩年はノートルダム・ド・ラ・ベ礼拝堂(フジタ礼拝堂)の設計および壁画制作に情熱を注いだ。81歳、入院先のスイスで生涯を閉じる。奇行の生きざまもあって、藤田の業績は日本で正当な評価を受けなかった。やりきれない藤田の心情を知る君代未亡人が、作品の公開を頑なに拒否し続けた。

 

藤田の最期を看取った君代夫人は、没するまで藤田旧蔵作品を守り続けた。パリ郊外の旧宅をメゾン・アトリエ・フジタとして開館に向け尽力。晩年には個人画集・展覧会図録等の監修も行った。2007年に東京国立近代美術館アートライブラリーに藤田の旧蔵書約900点を寄贈し、その蔵書目録が公開された。藤田没後から40年余りを経た2009年、東京にて98歳で没した。遺言により遺骨は藤田が造営に関わったランスのフジタ礼拝堂に埋葬された。君代夫人が所有した藤田作品の大半はポーラ美術館とランス美術館に収蔵されたのだった。

 

藤田嗣治展、内外から約150点集め全容展

 

今回の特別展「生誕130年記念 藤田嗣治展 東と西を結ぶ絵画」は、名古屋市美術館(~7月3日)に続き、兵庫県立美術館(7月16日~9月22日)、府中市美術館(10月1日~12月11日)に巡回する。テーマは洋の東西交流。藤田は81年の生涯の半分近くをフランスはじめ異国に身を置き、多くの名作を国内外に遺した。近年、遺族からフランスのランス市に800余点が寄贈されたのを受け、その中から未公開作品多数を含む、国内外のコレクションを合わせ約150点の作品による全容展だ。

 

展覧会の構成は、「模索の時代」(1909-1918)から「パリ画壇の寵児」(1919-1937)、「さまよう画家」(1930-1937)、そして「戦争と国家」(1938-1948)を経て、「フランスとの再会」(1949-1963)、「平和への祈り」(1952-1968)の6章に分け、ほぼ時系列に、日本とパリを行き来し花開いた藤田芸術の全貌を紹介している。

 

藤田にとって、1913年の渡仏が大きな転機となった。モンパルナスでモディリアーニはじめ、パスキンやピカソ、ザッキン、キスリングらと交友を結ぶ。パリではキュビスムやシュルレアリスムなど、新しい20世紀絵画が登場しており、日本で黒田清輝流の印象派の絵こそが洋画だと教えられてきた藤田は衝撃を受ける。この時代の作品として、《キュビスム風静物》(ポーラ美術館)、《トランプ占いの女》(徳島県立近代美術館)、《シャンタル嬢の肖像》(以上3点とも1914年、個人蔵)などが出品されている。

 

《婦人像》(1909年、右)と《自画像》(1910年)

《婦人像》(1909年、右)と《自画像》(1910年)

 

パリでの画家生活になじんだ藤田は、面相筆による線描を生かした独自の技法による、独特の透きとおるような画風はこの頃確立した。数多くの裸婦を描くが、《五人の裸婦》(1923年、東京国立近代美術館)が出色。150号に近い大作で、ベッドを前に、まさに乳白色の5人の裸婦がポーズを取る。夢のような構図にキジトラの猫と白い犬が配されている。このほかにもベッドに座る《裸婦像 長い髪のユキ》(1923年、ユニマットグループ)、《二人の若い女》(1926年、個人蔵)、《立てる裸婦》(1929年、個人蔵)などが並ぶ。

 

《五人の裸婦》(1923年)

《五人の裸婦》(1923年)

《裸婦像、長い髪のユキ》(1923年、左)と《座る女性と猫》(1932年)

《裸婦像、長い髪のユキ》(1923年、左)と《座る女性と猫》(1932年)

 

エコール・ド・パリの画家として名声を博した藤田は1929年、17年ぶりに日本へ一帰国する。しかし1930年代に入るとアメリカや南米のブラジルやペルー、メキシコなど、さらには中国、日本各地も旅し、好奇心あふれるままに絵筆を走らせる。これまでとは違った筆致で《カーナバルの後》《室内の女二人》(いずれも公益財団法人平野政吉美術財団)や《夫人像(リオ)》(以上3点とも1932年、広島県立美術館)、さらには《力士と病児》(1934年、大日本印刷株式会社)や《北平の力士》(1935年、公益財団法人平野政吉美術財団)など多彩な作品を仕上げている。

 

《カーナバルの夜》(1932年、右) と《室内の女二人》(1910年)

《カーナバルの夜》(1932年、右) と《室内の女二人》(1910年)

《婦人像(リオ)》(1932年、右) と《メキシコに於けるマドレーヌ》(1933年)

《婦人像(リオ)》(1932年、右) と《メキシコに於けるマドレーヌ》(1933年)

《北平の力士》(1935年、右)

《北平の力士》(1935年、右)

 

満州事変に始まった日本の「15年戦争」下、藤田は陸軍報道部から戦争記録画(戦争画)を描くように要請があった。国民を鼓舞するために大きなキャンバスに写実的な絵を、と求められて、戦場の残酷さ、凄惨、混乱を細部まで濃密に描き出した。中でも《アッツ島玉砕》(1943年)は圧巻だ。銃剣と日本刀で米兵に襲いかかる戦闘の様子がリアルに描かれ、あの裸婦を描く藤田の巧みさと力量に驚く。《ソロモン海域に於ける米兵の末路》(1943年)、《サイパン島同胞臣節を全うす》(1945年、以上3点とも、東京国立近代美術館)も展示されている。

 

《サイパン島同胞臣節を全うす》(1945年、右)と《アッツ島玉砕》(1943年)

《サイパン島同胞臣節を全うす》(1945年、右)と《アッツ島玉砕》(1943年)

 

敗戦後、画壇から戦争協力者の烙印を押された藤田は、再びフランスへ。有名な代表作《カフェにて》(1949年、フランス国立近代美術館)は出品されていないが、《カフェにて(習作)》(1949‐63年、ランス美術館)が展示されている。この時期の作品に《藤田君代の肖像》(1950年)などランス美術館所蔵で日本初公開の作品が並ぶ。

 

藤田の写真コーナー

藤田の写真コーナー

 

晩年は、子どもを主題とした連作、最後はキリスト教をテーマにした制作に取り組む。《聖母子》(1959年、ノートルダム大聖堂、ランス美術館寄託)や《磔刑》(1960年)、黙示録シリーズも山梨県立美術館所蔵(1959年)と、パリ市立近代美術館(1960年、ランス美術館寄託)などがあり、充実した内容だ。

 

《聖母子》(1965年、右)と《キリスト》(1965年)

《聖母子》(1965年、右)と《キリスト》(1965年)

《十字架降架》(1959年、左)と《磔刑》(1960年)

《十字架降架》(1959年、左)と《磔刑》(1960年)

《黙示録》シリーズ(1959年)

《黙示録》シリーズ(1959年)

 

この展覧会を企画した名古屋市美術館の深谷克典副館長は、次のようなコメントを寄せている。

 

改めて藤田という作家の幅の広さ、複雑さを感じました。フランスでは高く評価されたにもかかわらず、藤田は日本では常に毀誉褒貶に晒されました。日本で正当に評価されない、というジレンマが様々な様式への挑戦に結び付いたのではと考えます。戦争画は破綻している作品だと個人的には考えます。破綻した作品を描かねばならないほど藤田は追い詰められていたということではないでしょうか。それゆえに、子供やパリの街並み、宗教画などの戦後の作品を見ると、ほっとするというよりも痛々しさのようなものを感じます。こういう主題で、こういう描き方をしないと日本で負った傷を癒すことはできなかったのだ、という痛々しさです。今回の展覧会のサブタイトルは「東と西を結ぶ絵画」ですが、藤田自身は東と西に引き裂かれたまま生涯を終えてしまったような気がします。

「著作権の壁」、2006年やっと藤田展開催

ところで、私は朝日新聞社企画部時代の2000年、藤田展開催に向け取り組んだ経緯がある。当時、藤田の展覧会は不可能というのが美術界の定説となっていた。戦後いくつかの藤田展が開催されたが、トラブル続き。図録の販売が差し止めになったケースもあった。君代夫人は作品の掲載を認めないため、図録はもちろんポスターやチラシなども印刷できないとなると、展覧会の計画を立てても観客を集めることができないからだ。

 

藤田の作品はポーラ美術館をはじめ、ひろしま美術館、ブリヂストン美術館など日本各地の美術館に散在する。仕事柄、日本各地の美術館で藤田の作品を見る機会に恵まれたが、どの作品にも気品がただよい、その魅力に限りなく惹かれた。こうした作品を一堂に集め、鑑賞の機会を設けることができるなら、企画冥利に尽きる。私はひそかに機会を窺っていた。

 

その年7月、思いもかけぬ話が持ち込まれた。旧知の元・日本ヘラルドの企画開発室長だったSさんが、藤田自身が撮影したという未公開映像を入手したという。フィルムは3153メートル、時間にして4時間44分もあった。藤田は1927年ごろから3年間、マルセイユやナポリ、インドや香港など世界各地に旅をした記念に撮っていた。このフィルムには、日本に帰国した際の東京はじめ大阪や京都、熊本などの風景や街並み、土地の人々らも収められていた。さらに富士山に登ったり、とりわけ藤田の家族と再会したりするシーンが含まれていた。

 

展覧会が実現できれば貴重なドキュメンタリー映像として編集できそうだ。私は一気に展覧会企画を進めようと、さっそく君代夫人の著作権を日本側で管理している美術著作権協会に連絡を取った。理事長から前向きな意向が伝えられ、期待を抱いた。「新世紀にあたって、20世紀が生んだ世界のフジタの全容を」が趣旨だった。

 

理事長は君代夫人に会い、私どもの要請を伝え、早急に具体的な企画書を提出するよう求められた。一応の出展候補作品リストも出来上がり、理事長は再び君代夫人と会った。その際「今の若い人たちの中には藤田の絵を知らない人もいる。新世紀に、朝日新聞社が展覧会を計画しているのは大きなチャンス」と、口添えしてもらった。しかし夫人は首を縦に振ることはなく、再考を促すにとどまった。

 

展覧会話が進展しない中、私どもが君代夫人を説得したいと申し出たが、「今は朝日新聞社の方とは会いたくない」とのつれない返事。ただ唯一、心を開いている人にNHKエンタープライズのプロデューサーである近藤史人さんがいた。近藤さんは1999年にNHKスペシャル「空白の自伝・藤田嗣治」を担当し、2002年に『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(講談社刊)を著していた。

 

近藤さんは、私どもの展覧会企画に理解を示し、NHKと共催の方向で君代夫人に進言しましょう、と約束してくれた。近藤さんも新たなハイビジョン番組「乳白色の肌の輝き 藤田嗣治・美の秘密」の放映をめぐって交渉中だった。2001年になって、番組は放映された。私はますます展覧会実現への意欲を強めた。しかし君代夫人からの許諾は、ついに出されることはなかった。

 

協会理事長から「戦後、日本でボイコットされた心の傷がまだ残っているのでしょう。日本の新聞社に対しても良い印象を持っていないようです」と伝えられた。君代夫人に一度も面会がかなわず、私は展覧会計画をあきらめざるをえなかった。近藤さんの著書と同時期、講談社から『藤田嗣治画集 素晴らしき乳白色』が刊行された。豪華本の監修者は君代夫人だった。画集として出すのなら、展覧会で作品を見せるほうが、私はよほど藤田の再評価につながると確信したものだ。

 

著作権の保護期間は、著作者の死後50年だ。藤田の作品は2019年1月に著作権が切れる。しかし2006年、藤田の生誕120年を期して全画業を回顧する「藤田嗣治展」が東京国立近代美術館と京都国立近代美術館、広島県立美術館で巡回開催された。その後は2008年から09年にかけて没後40年「レオナール・フジタ展」、2013年から14年にかけて藤田嗣治渡仏100周年記念「レオナール・フジタとパリ 1913-1931」が開催されている。

 

数奇な生涯を貫いた藤田の作品は多層多面的で魅力に溢れる。これから益々、藤田展はテーマを変えて展開されることだろう。私にとって苦い思い出が付きまとうが楽しみでもある。今回、名古屋市美での展覧会も感慨深く鑑賞したが、残念なことに、「著作権の壁」で、作品画像の掲載が厳しく制限され、会場風景としての紹介になった。

 

10年ぶりのダリ展は最大規模の約200点

一方、シュルレアリスム(超現実主義)の代表的画家の初期から晩年までの活動を網羅的に紹介する「ダリ展」は、京都市美術館(7月1日~9月4日)と国立新美術館(9月14日~12月12日)で開催される。10年ぶりの本格的な回顧展で、スペインのガラ=サルバドール・ダリ財団と国立ソフィア王妃芸術センター、アメリカのサルバドール・ダリ美術館のダリ三大コレクションが一堂に会するのは初めて。それに加え、日本国内の8美術館14作品も出揃い、合わせて約200点の過去最大規模になるという。

 

「ダリの写真」

「ダリの写真」

サルバドール・ダリ(1904-1989)は、バルセロナ近郊のフィゲラスで生まれ、少年期から卓越した写実的描写力と特別な幻覚的資質を備えた早熟児だった。マドリードで美術を学んだ後、パリに出て、親交のあったピカソや映画監督のルイス・ブニュエル、精神分析学者のフロイトらの影響を受けた。そして詩人の夫と子供を持つガラとの運命的に出会う。

 

1920年には未来派、23年から25年まではデ・キリコの形而上絵画の感化を受けた。28年にパリに出てシュルレアリスムの運動に参加し、翌29年に最初の個展を開いて、フロイトの影響下に、夢や幻覚による内面の無意識世界への探求を目ざした。

 

芸術活動の傍ら、フランスパンを頭に乗せて人前に出たり、ゾウを連れて歩けば、潜水服姿で講演し、窒息死しかける奇行もあって、毀誉褒貶の激しい画家として受け止められていた。しかしその誇大妄想的な自己顕示欲こそがダリの創造力を生み出していたとも理解できる。

 

1930年代後半からはシュルレアリスムの運動を離れて、古典主義への傾斜を深め、40年にはアメリカに移住した。第二次世界大戦後は数度のイタリア旅行でルネサンス絵画の影響を受け、カトリシズムに接近して、現代物理学の原子体系とキリスト教的イコンが混交する神秘主義的ビジョンをアカデミックな技法で展開した。

 

また、ダリ自身も露出狂的な奇行で絶えず話題を提供し、ルイス・ブニュエル監督と前衛映画『アンダルシアの犬』(1928)、『黄金時代』(1930)を合作。ヒッチコックの『白い恐怖』(1945)に協力したほか、版画、宝石デザインも手がけた。

 

プレスリリースによると、展覧会の構成は、「初期作品」(1904-1922)に始まって、「モダニズムの探求」(1922-1929)、「シュルレアリスムの時代」(1929-1938)、「ミューズとしてのガラ」を挟み、「アメリカへの亡命」(1939-1948)、そして「ダリ的世界の拡張」を経て「原子力時代の芸術」(1945-1950)、「ポルト・リガトへの帰還―晩年の作品」」(1960-1980)の8章に分け、ほぼ時系列に、ダリ芸術の全貌を迫る。

 

展覧会は開催前なので、過去のダリ展で見た作品と、今回の代表作を提供画像で紹介する。まず《ラファエロ風の顔をした自画像》(1921年頃、ガラ=サルバドール・ダリ財団)は、初期の作品で、後期印象派の影響を受け、色彩の強さが印象的だ。尊敬する画家の肖像と、親しみのある風景を一つの画面に取り込んでいる。

 

《ラファエロ風の顔をした自画像》(1921年頃、ガラ=サルバドール・ダリ財団)

《ラファエロ風の顔をした自画像》(1921年頃、ガラ=サルバドール・ダリ財団)

 

《狂えるトリスタン》(1938-39年、サルバドール・ダリ美術館)は、同名のバレエの舞台美術を担当し、舞台装置の構想を練るために描いた習作と言う。鍵穴のような開口部の上部にメデューサ、左右の壁面には人間の腕に形を変えた枝が配され、なんとも不気味な作品だ。

 

《狂えるトリスタン》(1938 年、サルバドール・ダリ美術館)

《狂えるトリスタン》(1938 年、サルバドール・ダリ美術館)

 

《「幻覚を与える闘牛士」のための習作》(1968-70、ガラ=サルバドール・ダリ財団)は、ダブル・イメージの幻覚的な作品だ。ミロのヴィーナスと、オマージュとして闘牛士の顔を中央に描き、画面右下のセーラー服の少年はダリ自身であり、左上の後光に浮かぶ女性は妻のガラとされる。

 

《「幻覚を与える闘牛士」のための習作》(1968-70、ガラ=サルバドール・ダリ財団)

《「幻覚を与える闘牛士」のための習作》(1968-70、ガラ=サルバドール・ダリ財団)

 

このほかガラ=サルバドール・ダリ財団から《謎めいた要素のある風景》(1934 年)や《奇妙なものたち》(1935年頃)、《記憶の固執(ピン)》(1949年)、国立ソフィア王妃芸術センターから《子ども、女への壮大な記念碑》(1929年)と《ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌》(1945年)、サルバドール・ダリ美術館蔵から《炸裂する柔らかい時計》(1954年)などが展示されている。

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こうした油彩作品のほか,ドローイング,オブジェ,ジュエリー,書籍,彫刻など様々な表現媒体で展開された初期から晩年までのダリの多方面にわたる創作の軌跡をたどる。

 

生誕100年記念の2006年に二つのダリ展

 

ダリ展についても、藤田展と同様にアンタッチャブルなイメージを抱いていた。というのも私が在籍した朝日新聞大阪企画部時代に、著作権をめぐって係争中だったからだ。先輩が企画し1990年秋に大阪や東京など4ヵ所で開かれた展覧会で、ダリ作品の複製を掲載したカタログを販売した朝日新聞社に対し、ダリから著作権を譲渡されたと主張するオランダの法人が損害賠償を求めたのだった。

 

訴えていたのは、1986年にダリと契約を結んだデマート・プロ・アルテ・ビー・ブイ社で、朝日側は1989年1月のダリの死去に伴い「著作権は全財産を相続したスペイン政府に帰属する」と主張していた。東京地裁の判決は1997年に出されたが、デ社側の勝訴となった。しかし、その後も別の展覧会を開催した日本の美術館を相手取り、デ社が同様の訴訟を起こしたが、この時は敗訴したのだった。

 

当時、裁判の経過は時折り耳にし、展覧会を企画する私にとって著作権に神経を尖らせることになった。藤田嗣治展を企画したものの、実現には「著作権の壁」がつきまとった苦い経験がある。その後、ダリの著作権は全ての権利をスペイン政府が有し、ガラ=サルバドール・ダリ財団が管理することになった。

 

「朝日でリベンジされては」との誘いが、質の高い西洋絵画を日本に紹介することで定評のあるブレーントラスト社(東京)からもたらされたのは2003年春のこと。スペインでは2004年はダリ生誕100年にあたるため、政府が祝賀委員会を組織し世界各地で展覧会を巡回させることになっていた。

 

ダリの作品をまとまって見たのは、1982年に大阪・大丸のアート・ミュージアムで開かれた「ダリ展」が最初だった。シュルレアリスムの旗手として活躍中で、トレード・マークのピンとはねあがった口ひげとともに幻想的な作品に衝撃を受けたものだ。歿後には、朝日新聞社主催などで、いくつかの展覧会が開かれ、スペイン絵画のグループ展や所蔵美術館で目に留めていたが、訴訟が影響していたのか、日本でのダリ展はお目にかからなくなった。

 

生誕100年を記念しての展覧会に意義を感じたが、私は2004年8月に退職することが決まっており、やむなく朝日新聞東京企画部に話を持ち込んだのだった。すでにブレーントラスト社ではスペインのダリ財団と折衝を進めており、朝日も参入することになった。

 

ところが、同時期にフジテレビがアメリカにあるサルバドール・ダリ美術館と折衝を重ねていたため、朝日とフジが異例の共催を決めた。その結果、ブレーントラスト社はスペインのダリ財団とダリ美術館の意向により、東京以外の大阪、名古屋、札幌で、東京展とは異なるコンセプトの展覧会を開催したのだった。