新しい年が明けたが、新型コロナ禍の収束が見通せないどころか、大都市圏に2度目の緊急事態宣言の中での「辛年」となった。多くの人命を奪うとともに、私たちの日常を変えてしまった。美術など文化活動も制限を強いられている。外出自粛とはいえ、感染リスクの少ない美術館賞はリフレッシュの場とも考えられる。今回は東京ステーションギャラリーで2月7日まで開かれている「河鍋暁斎の底力」と、京都国立近代美術館で3月7日まで開催の「分離派建築会100年 建築は芸術か?」を取り上げる。まったく異質の展覧会であるが、激動期のいずれも日本にあって独自の境地を拓いた絵師と建築家を、新たな視点で仕立てている。江戸末期から明治にかけて活躍した絵師・河鍋暁斎のあえて下絵や素描に特化した企画展と、大正から昭和初期の建築界で衝撃的な活動を展開した若き建築家たちが主人公だ。コロナ禍の閉塞した心身を解き放ってほしい。

東京ステーションギャラリーの「河鍋暁斎の底力」
下絵や画稿で魅せる暁斎の生の筆勢
初公開の約50点含む160余点を展示

河鍋暁斎展と言えば、2019年に「河鍋暁斎 その手に描けぬものなし」展を東京・六本木のサントリー美術館で見た直後に、兵庫県立美術館で「没後130年 河鍋暁斎」を鑑賞した。それまでも花鳥画や山水画から、浮世絵や風刺画、戯画など幅広い画業の展覧会は各地で開催されていて、暁斎の描く作品を数多く見てきたが、今回の企画展はひと味違っている。これまでの暁斎展は彩色を施した本画が中心だったが、今回の企画展では、本画が一切出品されず、素描や下絵、画稿、宴席などにおいて即興で描かれた席画、絵手本などだ。会場には、河鍋暁斎記念美術館の収蔵品から厳選し、初公開作品約50余点を含め前、後期合わせ160余点が並ぶ。なおチケットは日時指定の事前購入制となっている。

 

その企画趣旨はうなずける。本画は完成度が高い一方で筆勢が抑制され、色などには時に弟子の手が入ることもある。また版画作品などでは、原画を彫師と摺師などの協力を得て完成させる。これに対して制作過程の分かる下絵や画稿は正真正銘、暁斎の手によるため、その卓越した筆力を直に感じることができる。あえて本画を展示しないで、暁斎の描写と表現の力量を味わってほしい、といった挑戦的な試みなのだ。

 

河鍋暁斎(かわなべきょうさい1831~89)は、下総国古河石町(現茨城県古河市)に生まれ、数え7歳の時に浮世絵師歌川国芳に学ぶ。その後、狩野派にも入門し、修業を積む。こうして浮世絵をはじめ、伝統的な狩野派、土佐派、琳派、四条派など日本古来の画流も広く身につけ、多種多様な作品を手がける。

 

暁斎は当時の画家や版元・出版社、寺院や神社、料亭や老舗商店、能や歌舞伎の役者らとも広範囲に交友を築いた。こうして時代の状況を敏感に感じ取り、時に体制批判の精神を研ぎ澄まし、日本的な人間・自然観、身体観、死生観といったテーマを独自の視線で掘り下げ、屏風や掛軸、巻物や画帖といった数多くの作品に反映させた。

 

今回の展覧会を構成に沿って、リリースや図録を参考に見どころと主な作品を掲載する。1章は「描かずにはいられない―写生・模写・席画等」。暁斎は絶え間なく写生して対象の形状を学び、その真の姿を絵に捉えようとした。幼少時から先人たちの技を会得した。まず《象 写生》(1863年)は、象の見世物を見物して描いた。暁斎は実際に象を見て生態を理解し、さまざまな曲芸をさせた戯画へと発展させていく。《龍図(牧谿の模写)》(1847年)は、中国・宋末元初の箒臨済宗画僧の水墨画を模写している。

 

河鍋暁斎《象 写生》(1863年)河鍋暁斎記念美術館蔵

河鍋暁斎《象 写生》(1863年)河鍋暁斎記念美術館蔵

河鍋暁斎《龍図(牧谿の模写)》(1847年)河鍋暁斎記念美術館蔵

河鍋暁斎《龍図(牧谿の模写)》(1847年)河鍋暁斎記念美術館蔵

 

書画会の宴席などで客を前にして描かれる席画は、客が注文する多種多様な画題を、下描きもなく当意即妙に早描きしなければならない。絵師の実力を如実に表すもので、暁斎は見事な筆さばきを披露した。そうした書画会の様子を描いた《書画展覧余興之図》(1881年頃)をはじめ、《松上一烏之図》(1885年)、《竹虎之図》(1888年頃)などが展示されている。こうした席画の数々からは、暁斎がこなした多岐にわたる画題と見事な表現力が垣間見える。

 

左)河鍋暁斎《書画展覧余興之図》(1881年頃)右)河鍋暁斎《松上一烏之図》(1885年)河鍋暁斎記念美術館蔵

左)河鍋暁斎《書画展覧余興之図》(1881年頃)
右)河鍋暁斎《松上一烏之図》(1885年)
河鍋暁斎記念美術館蔵

河鍋暁斎《竹虎之図》(1888年)河鍋暁斎記念美術館蔵

河鍋暁斎《竹虎之図》(1888年)河鍋暁斎記念美術館蔵

 

2章は「暁斎の勝負どころー下絵類」で、下絵は本画を生み出すは設計図ともいえ、独自の魅力に満ちている。画面を埋め尽くすように描き込まれた無数の線は生々しい試行錯誤の跡で、画家の熱意や筆の勢いが伝わってくる。《日本武尊の熊襲退治 下絵》(1879年)は迫力がある。

 

河鍋暁斎《日本武尊の熊襲退治 下絵》(1879年)河鍋暁斎記念美術館蔵

河鍋暁斎《日本武尊の熊襲退治 下絵》(1879年)河鍋暁斎記念美術館蔵

 

《河竹黙阿弥作『漂流奇譚西洋劇』米国砂漠原野の場 下絵》(1879年)は、歌舞伎狂言の宣伝のために描かれた行燈絵の下絵。《女人群像 下絵》(制作年不詳)は、時代の異なる衣装や髪型、好みや身分の異なる女性像を同一画面に再構築したもの。本画では見えなくなってしまう衣服の襞や髪の毛の描写が興味深い。

 

河鍋暁斎《河竹黙阿弥作『漂流奇譚西洋劇』米国砂漠原野の場 下絵》(1879年)河鍋暁斎記念美術館蔵

河鍋暁斎《河竹黙阿弥作『漂流奇譚西洋劇』米国砂漠原野の場 下絵》(1879年)河鍋暁斎記念美術館蔵

河鍋暁斎《女人群像 下絵》(制作年不詳)河鍋暁斎記念美術館蔵

河鍋暁斎《女人群像 下絵》(制作年不詳)河鍋暁斎記念美術館蔵

 

《鳥獣戯画 猫又と狸 下絵》(制作年不詳)は、修復の過程で失われていたピースが発見された注目の一点だ。初公開された作品では、鼠がしっかり握りしめていた一本の線が猫又の横顔から左上へ伸びた線と一致したからだという。このほか《遊君江口 宝暦時代 屏風十二枚之内 下絵》(1883年)や、《能「高砂」下絵》(1888年)、《幽霊図 下絵》(制作年不詳)などが多種多様な作品で楽しい。

 

河鍋暁斎《鳥獣戯画 猫又と狸 下絵》(制作年不詳)河鍋暁斎記念美術館蔵

河鍋暁斎《鳥獣戯画 猫又と狸 下絵》(制作年不詳)河鍋暁斎記念美術館蔵

左)河鍋暁斎《遊君江口 宝暦時代 屏風十二枚之内 下絵》(1883年) 中)河鍋暁斎《能「高砂」下絵》(1888年) 右)河鍋暁斎《幽霊図 下絵》(制作年不詳)河鍋暁斎記念美術館蔵

左)河鍋暁斎《遊君江口 宝暦時代 屏風十二枚之内 下絵》(1883年)
中)河鍋暁斎《能「高砂」下絵》(1888年)
右)河鍋暁斎《幽霊図 下絵》(制作年不詳)
河鍋暁斎記念美術館蔵

 

画稿では、顔や身体の皺など、本画では整理されてしまう細部が、執拗に描かれる。それがかえって、本画では薄められてしまった迫力とダイナミックな動きを表現していて、魅力となっている。ここでは題材が面白い《骸骨の茶の湯 画稿》(制作年不詳)などが出品されている。

 

河鍋暁斎《骸骨の茶の湯 画稿》(制作年不詳)河鍋暁斎記念美術館蔵

河鍋暁斎《骸骨の茶の湯 画稿》(制作年不詳)河鍋暁斎記念美術館蔵

 

最後の3章は「暁斎の遺産―絵手本」。暁斎は狩野派の絵師に修行した豊富な手本から多くを学んだ経験から、弟子のために数多くの絵手本をつくった。暁斎は一度その対象を把握してしまえば、実物を前にしなくとも、あらゆる方向から見た、どんなポーズの姿でも描くことができた。

 

画稿類には、この能力がいかんなく発揮され、神や仏、仙人や動物などが細部にわたって描かれた。《柿に鳩 絵手本》(1872年)は、暁斎が数え5歳の娘・暁翠に与えたとされ、後に暁翠は表装して画室に架けていた作品だ。さらに《蜂を避ける女 絵手本》や、《人物動態 拝む・石を抱える 絵手本》(ともに制作年不詳)など、興味が尽きない。

 

左)河鍋暁斎《柿に鳩 絵手本》(1872年) 右)河鍋暁斎《蜂を避ける女 絵手本》(制作年不詳)河鍋暁斎記念美術館蔵

左)河鍋暁斎《柿に鳩 絵手本》(1872年)
右)河鍋暁斎《蜂を避ける女 絵手本》(制作年不詳)
河鍋暁斎記念美術館蔵

河鍋暁斎《人物胴体 拝む・石を抱える 絵手本》(制作年不詳)河鍋暁斎記念美術館蔵

河鍋暁斎《人物胴体 拝む・石を抱える 絵手本》(制作年不詳)河鍋暁斎記念美術館蔵

 

幕末から明治の激動期に仏画から戯画まで何でもこなした「画鬼」暁斎は、「画狂人」と称し、90歳まで生きた葛飾北斎(1760~1849)と比肩できよう。ただ暁斎は胃がんのため北斎より30歳も若く59歳で没したのが惜しまれる。前代未聞の本画を出さない展覧会は、その底力を証明したのではなかろうか。この企画を仕立てた東京ステーションギャラリーの田中晴子学芸室長は、図録で次のように締めくくっている。

 

河鍋楠美館長によれば、西洋ではデッサンなどが作品として重視されてきた歴史があるのに対し、日本では過去に暁斎の下絵が「紙屑」と評されたこともあったという。そのような評価が低かった時代に河鍋暁斎記念美術館は、バラバラな状態であった下絵を直して収蔵品として守り、必要な作品や資料も強化して専門館として研究を進展させていった。当たり前のことだが、この展覧会は河鍋暁斎記念美術館の長年にわたる研究の積み重ねゆえに開催が可能となった。その地道な活動に心からの経緯を表したい。

京都国立近代美術館の「分離派建築会100年 建築は芸術か?」
新しい建築を模索した若者の軌跡
図面や模型、写真…約250点で検証

彫刻などの美術作品も並ぶ京都国立近代美術館の展示会場

彫刻などの美術作品も並ぶ京都国立近代美術館の展示会場

前述の展覧会と同じように書き始めるなら、「分離派」と言えば、19世紀末から20世紀初頭にウィーンで展開した絵画や建築、ファッション、デザインなどの領域を超えた新しい芸術を求めて、独自の装飾性豊かな文化の開花を想像する。しかし大正時代の日本の建築界でも、建築の芸術性を世に訴え、建築界の革新を目指した若者たちがいた。日本で最初の建築運動とされる、その名も「分離派建築会」の結成から2020年で100年となった。この展覧会は、変革の時代を駆け抜けた彼らの軌跡を振り返り、彼らが希求した建築の芸術とは何かを問い、日本近代建築の歩みのなかで果たした役割を検証する企画だ。会場には、図面や模型、写真や映像、さらには関連する美術作品など約250点以上の展示品が並ぶ。

 

文明開化によって、明治から大正にかけて西洋の建築を模した様式的で権威的な近代建築が進展した。それに対し、新しい時代に見合った建築の形を模索する運動が起こった。その背景には鉄筋コンクリートの普及や、現在の国会議事堂など議院建築を建設するにあたって、日本は今後どんな建築様式を選ぶべきかという、建築界を取り巻く議論があった。

 

「我々は起(た)つ」。過去建築圏から分離し、全ての建築を真に意義あらしめる新建築圏のために――。大正9年(1920年)、東京帝国大学建築学科の同期だった石本喜久治、瀧澤眞弓、堀口捨己、森田慶一、矢田茂、山田守の6人は、卒業設計を集めた第1回作品展を開き、「分離派建築會の宣言」を発表すると同時に、「分離派建築会」を結成した。その後、大内秀一郎、蔵田周忠、山口文象が加わり、昭和3年(1928年)まで作品展と出版活動を展開した。

 

分離派建築会創立時の集合写真 1920年2月1日 写真提供:NTTファシリティーズ

分離派建築会創立時の集合写真 1920年2月1日 写真提供:NTTファシリティーズ

 

いま世界から注目を集める日本の現代建築は、自然との新しい関係による繊細な表現だ。そのルーツは、機能主義では語り得ない、自然や美を探求した「分離派建築会」ともいえる。彼らは、自然主義を掲げた文学運動である「白樺派」からの影響もうけて、過去の様式主義的な建築ではない、自然や自己と対峙する建築を目指したからだ。

 

今回の展覧会では、「彫刻」「田園」「都市」「家具」といったテーマで、メンバーの作品を中心にしながら、ほかにも彼らが参照した建築以外のロダンやマイヨールの彫刻芸術作品を含めて展示している。さらに現代において新たな解釈のもとで彼らの活動を再考するため、多くのアーティストも関わり、現代につながる動向を追っている。

 

展示は、第1章…迷える日本の建築様式、第2章…大正9年「我々は起つ」、第3章…彫刻へ向かう「手」、第4章…田園へ向かう「足」、第5章…構造と意匠のはざまで、第6章…都市から家具 社会を貫く「構成」、第7章…散開、それぞれのモダニズム建築、の7つの章で構成されている。この間、平和記念東京博覧会―分離派建築会のデビューや、関東大震災―新しい東京、といったトピック展示も設けられている。

 

章ごとの説明は紙数に限りがあるので、「分離派建築会」結成メンバーが設計した主な仕事を取り上げる。現存するものが少なく、そのほとんどが取り壊されていて、設計図や模型、当時の写真でたどるしかない。

 

発起人の一人で旗振り役だった石本喜久治は卒業後、竹中工務店に所属し、東京・有楽町にあった《東京朝日新聞社》(1927年)を設計。大阪朝日新聞社に在籍していた筆者は築地移転のため出張し、この旧ビル(現マリオン)で働いたこともある懐かしい建物だ。石本は《旧横須賀海仁会病院》(1939年)や、山口文象とともに《白木屋百貨店》(1928年)も手がけている。

 

石本喜久治(竹中工務店設計部)《東京朝日新聞社》(1927年)模型(制作:1988年、植野石膏)

石本喜久治(竹中工務店設計部)《東京朝日新聞社》(1927年)模型(制作:1988年、植野石膏)

石本喜久治《旧横須賀海仁会病院》(1939年)撮影:2020年 若林勇人

石本喜久治《旧横須賀海仁会病院》(1939年)撮影:2020年 若林勇人

石本喜久治・山口文象《白木屋百貨店 透視図》(1928年)石本建築事務所蔵

石本喜久治・山口文象《白木屋百貨店 透視図》(1928年)石本建築事務所蔵

 

立ち上げに加わった瀧澤眞弓の卒業設計《山岳倶楽部》(1920年)や、設計にも参加した《平和記念東京博覧会全景図》(1922年)などが展示されている。堀口捨己も平和記念東京博覧会の《動力・機械館》(1922年)や《紫烟荘》(1926年)を設計した。理論派の森田慶一は京都大学で教鞭を執る傍ら《京都帝国大学楽友会館》(1925年)を手がけている。

 

左)瀧澤眞弓《卒業設計・山岳倶楽部》(1920年)東京大学大学院工学系研究科建築学専攻 右)《平和記念東京博覧会全景図》(1922年)個人蔵

左)瀧澤眞弓《卒業設計・山岳倶楽部》(1920年)東京大学大学院工学系研究科建築学専攻
右)《平和記念東京博覧会全景図》(1922年)個人蔵

左)堀口捨己設計《動力・機械館》(平和記念東京博覧会 絵葉書、1922年)個人蔵 右)堀口捨己《紫烟荘》(1926年)『紫烟荘図集』(洪洋社)所収 東京都市大学図書館

左)堀口捨己設計《動力・機械館》(平和記念東京博覧会 絵葉書、1922年)個人蔵
右)堀口捨己《紫烟荘》(1926年)『紫烟荘図集』(洪洋社)所収 東京都市大学図書館

森田慶一 「京都帝国大学楽友会館」 1925(大正14)年 撮影:2020(令和2)年、若林勇人

森田慶一 「京都帝国大学楽友会館」 1925年 撮影:2020年、若林勇人

 

このほか、山田守が卒業設計の《国際労働協会》(1920年)と《東京中央電信局》(1925年)や、大内秀一郎が関与した《大阪市立電気科学館》(1937年)、蔵田周忠の《聖シオン会堂 ステンドグラス》(1926年)などの展示品が並ぶ。

 

左)山田守《卒業設計・国際労働協会》(1920年)東京大学大学院工学系研究科建築学専攻 右)山田守《東京中央電信局》(1925年)写真提供:郵政博物館

左)山田守《卒業設計・国際労働協会》(1920年)東京大学大学院工学系研究科建築学専攻
右)山田守《東京中央電信局》(1925年)写真提供:郵政博物館

大阪市電気局(大内秀一郎も関与) 《大阪市立電気科学館》(1937年)写真提供:大阪市立科学館 蔵田周忠 《聖シオン会堂 ステンドグラス》(1926年) 撮影:2020(令和2)年 若林勇人

左)大阪市電気局(大内秀一郎も関与) 《大阪市立電気科学館》(1937年)写真提供:大阪市立科学館
右)蔵田周忠 《聖シオン会堂 ステンドグラス》(1926年) 撮影:2020年 若林勇人

 

この展覧会を通覧して「なんとての込んだ、問題意識に満ちた企画展であることを強く感じた。監修者の京都大学の田路貴浩教授(建築論)は図録に「自己と社会、主観的な美と客観的な用をいかにつなぐか、彼らなりに必死にまた真摯に問いかけたことは、日本におけるモダニズム建築の受容に精神的な厚みをもたらすことになった。(中略)分離派建築会が切り拓いた問題群は、いまにも生き続けている」と結論付けている。