1 問題の所在

我々人間が、どれほどの文化的生活を営んでいようと、その身体が自然的存在であることは改めて指摘するほどのことではない。人類はその誕生以来、自然を改変したり文化化したりすることによって、生活の快適さを実現してきた。そうした経緯が存在する故であろうか、身体部位を自然物にたとえることは多い。例えば、幼子の小さな手を紅葉の葉にたとえ、輝く瞳を星にたとえる。また、「白魚のような指」「イチゴのような唇」「リンゴのような頬」「岩のようなげんこつ」「げじげじ眉毛」「泥鰌ひげ」などとも表現され、そうした例は数え上げればきりがない。自然観照と身体部位認識とは、我々の文化の中ではごく自然に関連付けられている。

 

いうまでもなく、こうした見做しや見立ては文化的行為であり、その行為の背後には民族集団の思想が存在する。つまり、自然の中に身体部位的形態を見いだそうとする自然観照と身体部位認識の仕方も、民族集団の思想に基づいて創造された文化的行為ということができる。そうした身体部位の一つとして、性器がある。生物の身体部位以外の自然物を対象として、その全体あるいはその一部を性器に見立てたり、性器形態を見いだしたりしている例が民間伝承としてしばしば見られるのである。社会的慣習としては露出することを避ける性器を、何故人体以外の所に見做すのか。しかも、時には人工的に性器形態を作って、あえて衆目に曝す場合も存在するのである。さらに、性器或は性器形態物を神仏に奉納したり、性器形態神を祭祀の対象としたりする事実さえある。

 

親都神社の大ケヤキの説明板の写真

親都神社の大ケヤキの説明板

 

群馬県中之条町に鎮座する親都神社の神木である大ケヤキは、群馬県指定天然記念物であり、乳の出ない婦人の祈願対象とされている。なぜ祈願対象とされるのかは説明されていないが、ちょうど真向かう所に巨大な男根形の男岩がある。それを考慮すると、大ケヤキの割れ目を女陰に見立てたためかとも思われ、自然物を男根・女陰にたとえた例の一つである。

大嵩山の男岩

大嵩山の男岩

 

それでは、自然物の中に見いだし、あるいは見做した対象物に対して、どのような態度をとるのであろうか。一体文化とは個人的な所産ではなく、民族集団など特定の集団における類型的な行為である。そうであるとしたら、まずその集団において特定の認識を共有する必要があろう。そのためには、性器形態物であることを示す名付けを行い、特化し差異化するとともに、類型的な行為を行うことが多かったことであろう。そうした行為の一つとして、神格化して祭祀の対象としたり、効験を期待し祈願の対象としたりすることもあったであろう。

 

先述したごとく、自然物などを性器形態とみなし、あえて性器形態物を作り、神格化したり奉納したりする行為は文化事象である。したがって、そこには日本人の性、並びに身体に対する認識が表現されている筈である。そうした日本人の認識を明らかにすることは、日本の民間信仰の性格を明らかにすることに役立つだけではなく、日本文化を理解するためにも役立つはずである。いったい日本人は、何故に自然物の中に性(器)的形態を見いだしたのであろうか。そして日本人は何故に性器形態にそれほど関心を示し、身体部位の中でも特殊な部位として性器を位置付けようとしているのであろうか。

親都神社の大ケヤキの女陰形の割れ目の写真

親都神社大ケヤキの女陰形の割れ目

 

民族集団における社会・文化に対するいかような認識も、時代とともに変化するであろう。事実、性器を中核とする性認識は、現代社会において大きく変化した。人類という種の保存にかかわる性(器)に対する認識の変遷を確認することは、よりよい日本社会のありかたを考えるためには、欠くことのできない作業の一つであろう。

2 日本人の性器認識

数多い身体部位の中でも性器を特化し、差異化するということは、性器に深い関心を寄せていたとともに、それが身体部位の中でも特異な存在であったということであろう。それを端的に示すのが金精様・道鏡様、あるいはオンマラサマ等と呼ばれ、全国的に存在する男根型の性器形態神の存在である。道祖神の中にも性器形態神が存在し、それらはその形態から性にかかわる機能神であると考えられ、性神などとも称されることもある。しかし、性器形態を神体とする性器形態神は、性にかかわる機能を持つだけではない。もちろん性にかかわる子授けや安産、あるいは縁結びや性病治癒などの祈願に対象とされることが多い。しかしそれだけではなく、豊作祈願や災難除け、あるいは境に機能する境界神として信仰対象とされることもある。したがって、性器形態神は性に機能するだけの神と限定することはできない。

 

いったい日本人は、身体部位としての性器をどのように認識していたのであろうか。かつて筆者は、日本人の身体部位伝承としての性器伝承について、その呼称と民俗伝承の一部について概観したことがあった(倉石『身体伝承論―手指と性器の民俗―』2013、『道祖神と性器形態神』2013)。ただ呼称は女性性器の呼称に限定されていたし、民俗伝承は「道祖神」にかかわる伝承に限定されたものであり、十分な考察が加えられていたとはいえなかった。それでも、女性性器の呼称には地域性が存在することを指摘できたし、その比喩的表現として女性性器の形態を自然物にたとえる傾向のみられることは指摘することができた。

 

先述のごとく性器形態神は多く男根形態物を神体としているが、時には女陰形態物と対になった神体も見られる。また、性器形態物を神仏に奉納することも多く、それは性器形態神に対してだけではなく、立派な社に祀られている神に対して供えられている場合もあった。ただ、男根形態神に対する性器形態奉納物としては圧倒的に男根形態物が多い。しかし、女陰形態物も奉納されていることがある。

 

もちろん身体部位としての性器には男根と女陰とがあり、子孫誕生にかかわる性機能を発揮するためには両者の結合が欠かすことができない。そうした認識は、既に神話の世界においても見られる。神話はいうまでもなく世界の出現にかかわる神々の活躍から、人の出現と現世に続くこの世の様々な事象の起源を語る物語である。『古事記』『日本書紀』などに描かれる天津神の出現、イザナギノミコト・イザナミノミコトの天浮橋に立っての島作り、その島に降り下っての国作りなどは、日本神話の代表的な場面である。そしてオノコロジマにおける男女祖神の「なりなりて成り余れるところ」を、「なりなりて成り足らわぬところ」に塞いで子を生み出す説話は、男女の身体的差異を語る説話であるとともに性行為の起源を語るものでもあった。

 

いうまでもなく、記紀神話における起源説話としてはこれ以外にもある。例えば火の神カグツチノミコトはイザナミノミコトの女陰から誕生し、そのためにイザナミノミコトは女陰を焼かれて死に、火神も殺されるという、死や火の起源を語る説話も記されている。これらの説話は祖神イザナミノミコトの女陰にかかわる説話であり、女陰は国や神を生み出すだけではなく、この世の基本的な事物である死や火を生み出す機能をも担うと考えられていたのである。そうした女陰の機能に神性を認め、それを神格化することはむしろ当然でもあった。これに対し男神イザナギノミコトの男根の機能は、専ら性行為の場において発揮されるだけであり、女陰に比べるとその機能は貧弱であるという印象をぬぐいきれない。

 

ところが民間信仰における性器形態神、および性器形態奉納物としては、男根形態が圧倒的に多いのである。それは男性性が女性性に優越する現実社会のありかたの反映とも考えられるが、命を生み出す性としては男女両性が相揃わなければならないという認識は共有されていたが故に、生理的機能において優劣はないはずであった。そうした性器認識の変化は、様々な所にもみられる。

 

註 倉石忠彦『身体伝承論―手指と性器の民俗―』岩田書院 2013年
倉石忠彦『道祖神と性器形態神』岩田書院 2013年