3 乖離する性認識

命を生み出す行為にかかわる性器は、生殖機能にかかわる身体部位である。そして命の誕生は不可思議な現象であって、人の力をもってしてはいかんともできない現象であった。それゆえ性器に対する認識も関心も強かったのである。新たな命を生み出すための生殖行為は男女両性によって行われるが、受胎以降出産までは専ら女性の生殖機能がかかわる。種の保存の作業に長時間にわたって携わるのは、女性なのである。そのため女性という性に託された役割は、男性という性に比較して女性の社会的活動を束縛することになった。したがって女性が社会的に進出するためには、種の保存にかかわる生殖機能の束縛から脱却せざるを得ないという事情があった。そして現代社会においては、それを許す社会的文化的条件が整ってもいた。それは性の自然的・生物的側面より、社会的・文化的側面を重視することになった。

 

生殖機能を必要とされなくなった性(器)は、マイノリティーとしての同性愛の社会的認知を求めたり、同姓不婚ならぬ同性不婚を法律的にも認知を求めたりするようになった。またかつてはほとんど表面化しなかった性同一性障害もその存在の公認を求め、芸能界はその特異性を発揮する代表的な場の一つとなった。こうした状況は、性(器)のもつ生殖機能以外の機能を表面化することになった。つまり元来は生殖機能を効果的に発揮させるためであった性的快楽を変質させ、顕在化することとなったのである。

 

いうまでもなく性的快楽は、両性外性器交合に伴う刹那的な肉体的感覚であり、受胎から出産に至る生殖機能とは異なった存在である。それは身体的部位である性器を特化し、道具化した行為であり、より生物的・生理的な行為に伴うものとすることもできよう。つまり性(器)の機能としては生殖機能から性的快楽機能への関心の移動であり、身体部位としては内性器から外性器への価値の移動でもあった。

 

生殖機能を伴わない性的快楽機能に対する関心は、異性の外性器を一時的に購入し(売買春)、他人の性行為を鑑賞し(アダルトビデオ・映画・写真)、あるいは性風俗店を出現させることになった。要すれば、性を商品化する社会的行為や現象などは、種の保存を目的とする自然的・生物的な性行為とはかけ離れた性に対する関心に基づくものであり、身体部位としての外性器の存在にかかわる快楽を目的とするものであった。こうして種の保存という生物的本能は軽視されるようになり、母性・父性という世代にかかわる性の存在も影を薄くならざるを得なかった。

 

こうした生殖器の機能を否定するかのような性的快楽の存在は、種の保存を基盤とし、家族集団を基本的単位とする社会を維持するための社会的規範にとっては、社会的秩序を根底から否定するものであった。そしてその生理的・刹那的快楽は、人間の理性をもってしては制御しがたいほどの強烈な存在でもあった。それ故、その中核に位置する肉体的部位としての性器は猥褻物とされ、公開されると猥褻図画陳列罪とされるなど、その描写には様々な規制が行われた。文字表現には伏せ字、映像表現にはモザイクなどが施され、そうした配慮をしないと出版禁止の対象ともなった。人間存在の根源に存在する性は、それ故に社会的には隠蔽されることになったのである。

 

しかしそれは近代以降の対応であり、近世以前においては性にかかわる、あるいは性的行為にかかわる春画(枕絵・笑絵)・枕草紙など様々文化事象が形成され、多くの人々に享受された。こうした文化事象は、芳醇な日本文化の一翼を担っていた。春画における誇張された性器描写や、性的行為における独特な描写は、人々の性に対する認識が示されるとともに、日本人の性器に対する認識と深くかかわっていた。だが近代以降は、こうした性にかかわる文化事象も、性は社会的秩序を侵すものという認識のもとに隠蔽されてしまった。その結果、性文化は人目を避けるようにいびつな形で、日陰の花として密かに咲くより外に生き残る術をなくしてしまったのである。

 

そうした性文化の貧弱さは性に対する認識をゆがめるとともに、生殖機能の軽視化は少子化という社会的問題を生み出した。同時にそれは性に対する価値観の偏差を生み出し、不妊の悩みを肥大化させることにもなった。それは子供の誕生をもって世代間の連続を実現することを生活集団継続の基本としていたのにもかかわらず、社会の基本集団としてのイエの維持すら難しくなってきたからでもあった。そうした悩みを受けて、生命の神秘を明らかにしようとする科学者の探求心は、生殖医療の驚異的な進展を実現し、分子生物学などの成立や遺伝子操作などは、かつては神の領域とされていた分野にまで足を踏み入れるものであった。それは確かに性の生殖機能の復活でもあったが、それらの知識と技術とは性文化の存在とは異なっていた。それ故に生殖医療の成果は、科学的発展としては高く評価されながらも、人として生きる意義や生命観、あるいは社会倫理などとは十分馴染んでおらず、その技術を持て余すだけではなく、それに振り回されることになってしまっている。

 

4 性認識の再構築

生殖医療の著しい進展は、性器に対する生殖機能の復権をもたらした。しかし、未だその技術的進歩の歴史は浅く、文化的には孤立した状態にある。つまり、社会の継続になくてはならない命を繋ぎ、種を保存する行為は、自然界の生物の生まれながらに持つ使命であり、その必然である性的行為と生殖医療技術とは、現状では全く異なるものとしても存在しているのである。もちろん生殖医療は性的快楽とも無縁の存在であり、いわばこうした従来から性文化を形成してきた性の存在とは断絶しており、これらの認識の間には、強い緊張関係が存在する。

 

生物体としての我々の身体において、性器は欠くことのできない存在であり、それに伴う性文化もまた本来は豊かであるべきなのである。性もしくは性器に対する我々の対応の仕方は肉体的行為にとどまらず、文化的行為として行われるものであり、そこには文化集団の持つ一つの基本的な認識が存在している。そしてそれは、身体認識における性器にかかわる認識でもあり、身体部位をどう考えるかという身体部位認識でもある。身体部位伝承は身体部位をどう認識していくか、あるいは認識してきたかという文化認識伝承であるが、身体伝承は身体についての伝承であり、それは主として身体機能についての伝承である。そうした、身体機能伝承は社会的存在としての身体を対象とするが故にモノ(肉体)としての身体ではなく、社会的機能を果たすコトとしての身体である。

 

そもそも文化としての身体とは、人体としての有機的全体が発揮する社会的能力や機能に対する認識であり、特に形態や能力、社会的機能の異常・異能に対して注目される傾向が強い。それに対して、身体部位とはモノとしての人体の構成部位であり、その部位の果たす機能に対する関心によって認識されている。性にかかわる身体部位は、性器のみではない。異性との関係における性別形態・性的機能・性的快楽にかかわる身体部位はすべて性的部位である。しかし、生物体としての身体の形態的差異で最も明確なのは、個体の性別が判断できる第一次性徴である性器(男性性器・女性性器)である。

 

形態の異なる男女性器は、視覚によってその差異が明確に認識される。だが、その身体的差異を異常と認識する故であろうか、人類は性器を隠そうとしてきた。聖書におけるアダムとイヴが初めてイチジクの葉で性器を覆ったとする説話はその起源を語るものであるが、衣服を身につけない裸族といわれた人々であっても腰蓑をつけたり、ペニスケースをつけたりして性器を覆っている。それは社会的秩序を維持するためであるとされるが、性的快楽をもたらす身体的部位の存在を強調する行為でもあり、いわゆる劣情と理性とがせめぎ合う部位を示している。

 

隠蔽することが、実は顕在化することにもなることは少なくなく、隠蔽された性器はむしろその存在を強調することになり、隠蔽された性文化は隠微な輝きを放っている。かつて文化事象として自然の中に性器形態物を見いだし、あえて隠蔽しようとしなかった民俗文化の存在が、いかに豊かな日本文化を形成していたことか。そしてそこに民族文化の長い歴史の成果を蓄積していたことか。そうであるならむしろ性器の存在もただ隠蔽するだけではなく、生物体としての人間存在の根源的機能である生殖機能を果たす部位であり、また性的快楽をもたらす身体的部位でもあることを正確に評価し、しかも、神の領域に踏み込むこととなる生殖医療をも考慮した成熟した文化の形成こそが望ましいことなのであろう。それは次の世代を豊かにしつつ日本社会を継続することになり、これからの芳醇な日本文化を構築することにもなるであろう。

註 倉石忠彦『身体伝承論―手指と性器の民俗―』岩田書院 2013年
倉石忠彦『道祖神と性器形態神』岩田書院 2013年