3-1家族と

私の父は手描き友禅の模様師。一日中、絵筆を執ってお客の注文に応えながら自分流に色を差し、仕上げてゆく。所謂、画家ではないので自分の好きなように絵を描くことが出来ないのが模様師としての務めであり宿命だ。

 

子供の頃から父親の色を差してゆく友禅染の技術をつぶさに見ていた私。つまり父に限らず物を造り出してゆく職人さんたちの手仕事を見るのが大好き少年。学校の帰り道、畳屋さんの錐の使い方、縫い方に、魚屋さん、肉屋さんの包丁さばきに見惚れたり・・・そんな私を両親は買被り、後継ぎに!と考えていったようだ。親戚やお客様からも褒められて、本人も次第にその気になっていった。この子は大学には進学せず後を継いでくれるのだから好きなことを好きなだけさせてあげよう!という親心を良いことに、小学生の頃から家に客があればご相伴。チビリチビリと日本酒を味わう。そのうち母親が作った梅酒を台所に忍び込んで盗み酒、煙草は中学生から気取って両切りの「缶ピース」。煙草のなかの煙草といってもいい。量が増えてゆくに従い修行中は一番安い「新生」になるが独立してからは「ハイライト」を1日5箱100本は吸っていた。

 

野球少年だった私は躰を動かすことが大好き、特に水を見ると海、河、湖、沼、池、小川、あらゆる所で泳いでいた。益子に来た50年前も大雪の日、加守田先生が東京出張で留守をよいことに、裏手の宝道寺池をスッポンポンでひと泳ぎ、などと書きながら、かなりの部分が本能に忠実に生きてきたのかなと・・・。

 

イイ子にしていたのは中学時代までかな。高校は朝弁食べると隣の早稲田大学図書館に逃げ込み、ドフトエフスキーやカントやニーチェに狂い、返す刀で仏教入門関係書も調べ読み、道元や空海、親鸞を知る。その実践にと「お茶」を習い、一通りの作法を学ぶ。しかし作法優先のお茶の稽古に飽き足らず、精神的なものを求めるようになる。もっと躰で深く感じたくて16歳になると早稲田から新宿まで歩き、西口のガード下の暖簾街にある居酒屋で一杯やる高校2年生。ノーメル大学設立の時でもあった。60年安保で世間が揺れていたが同時に「旧」から「新」に移行する時代の波を受けて活気があった。世間と向かい合った最初であり、毎晩のように議論が白熱していた。

 

高校を卒業すると予定通り父親の知り合いの模様師の先生の所に弟子入り。温厚実直で優しい先生。(駒込にあった)仕事に慣れるに従い、退屈を覚える。その退屈しのぎに残った絵の具の片付けを兼ねて、抽象画的な色遊びをやっていた。その楽しさを知ってしまうと、型通りに仕上げる友禅染めの世界が小さく思えてきた。そこを飛び出し、新たな先生にもついた。しかし結果は同じ。―もっと自分らしい絵を描きたい、自分を表現したいと思う心が育っていった。

 

ある日、新たについた先生から君にはその道の方があっているようだからそちらに行ったら?と体よくクビにされた。期待してくれていた両親に破門された報告に行くとショックで母親は寝込んでしまい、黙々と筆を運びながら父の絵筆の先は震えていた。すまない。ごめんなさい。親の稼業を継げない代わりに家を出て、一切自自活自炊をすると宣言。心で詫びながら独立。

 

最初の仕事は躰ひとつあればできる石焼芋屋を選んだ。4畳半に4人ぐらいの友人が転がり込んでは安酒を片手に文学論や宗教、哲学、音楽、芝居の話に明け暮れた。その頃私はアンドレブルトンの「シュールレアリズム宣言」を愛読し、芸術を志すならこうでなければ、と思いながら重い石焼芋の屋台を引いていた。酒浸りの酒友たちにバターを塗って芋を食べさせる為でもあり、自らの健康も考えながらの芋食い生活と一升酒の毎晩。

 

春が終わると石焼芋のシーズンは終わりを告げる。芋仲間の一人が、次は浅利売りがある。と、夏バージョンの仕事を見付けてくれた。一斗籠に浅利や蜆をリヤカーに乗せ、アチコチの商店街に行く。シャッターの閉まっている店の裏口から「2~3時間、浅利売りをやらせてほしい」と頼み込んで、浅利や蜆を所場代として渡し、やおら10ケぐらいの籠を拡げ、街往く買物客の前で浅利売りのパフォーマンス。流れるように売り捌く「バイ(商売or商い)」はプロの香貝師にも褒められるほど。完売したらすっかりきれいに掃除をして、その足でなじみの酒屋で一杯。飲み代稼ぎが当時の人生の全てと言っていいほど浴びるように手当たり次第飲んでいた。中でもアヴサンとジンとウィスキーをカクテルにしてアヴジンスキーを一気に飲み、50mダッシュをする。安くて廻りの早い酩酊法。これに耐えられる友人がノーメル大学の学友として認められる。飲みに歩く場所は中野、高円寺が中心。学校の帰りは新宿歌舞伎町や西口のガード下。ある日、上野駅の近所にウマい焼鳥屋がある、と訪ね杯を酌み交わす。そうこうしているうちに茨城県の古河にイイ店がある、とトイレの中の週刊誌に載っていた。ヨシ、これから行くぞ!!と最終の東北線に乗り込み古河駅で下車。深夜、駅前は閑散としており飲み屋らしきものはない。それでは利根川にでも、と辿りついてみると真夏のこと、藪蚊の大群に襲われ、這う這うの体で駅に引き返し無断でタクシー会社の洗車専用の蛇口をひねり水浴びをしていた。そこに帰ってきた運転手に隣の交番に突き出され、始末書を書かされる。そうこうしているうちに一番電車がやってきた。浅利仲間の一人が近くに益子がある筈だ、と云う。酒の残っている勢いで、じゃあそこに行こう!と四人で益子へ向かう。

 

 焼物の「や」の字も知らない若僧が酒の勢いで転がり込んだ益子。そこで出会った生涯の師匠 加守田章二先生。ズブの素人が一年半お世話になっただけで古いレンガを集めて登り窯を築いて独立した。それを勧めてくれたのも加守田先生。師と出会わなければ現在の私は存在していない。偶然という名の必然、運命を覚える。

 

地走りといって、粘土の削りカスを揉んだり、灰を漉したり、薪割をしたり、子守など雑役全般、何度かの窯焚きを経験。料理の世界でいうと買い出しの籠持ちと皿洗い、芋の皮むきを経験しただけで店を一軒構えたようなもので、独立して初めて何も知らない自分がいることに気が付いた。

 

釉(うわぐすり)の作り方の本を読み読み、釉薬の勉強、窯炊きを年6回はやるぞ!と決めて一日15・6時間の轆轤廻し。土揉みは足で踏み、手で揉む。今は電動の轆轤や土練機があって下仕事が大変楽になったが、それも原点の作業をこなしてたからこそ使いこなせることも分かった。

 

好きなことを好きにやりたいのが芸術家。職人は客の注文に如何に応じるか、だと思っていたので躊躇なく、やりたいようにやった。

 

加守田先生もその師匠・富本憲吉も「芸術は模倣を繰り返すことではない。昨日作ったものは今日は作るな。」という教訓を胸に、カタチの模倣よりその精神の継承を目指した。

 

窯を炊いて一年、地元宇都宮の新聞社主催による若手作家シリーズの一人に選ばれ初の個展。28歳の時、青山に出来たばかりのグリーンギャラリーで東京デビュー。それまで試みていた織部釉や志野、青磁、鉄釉や辰砂・釣窯など、釉薬物は一切出品せず「紅陶」「黒陶」の作品を初めて世に問うた。その後、漆を塗ったり、箔を貼ったり、手法が進化と深化を繰り返し、現在まで続いている。

 

独立当初は真面目に(?)伝統工芸展に公募したりしていた。だが待望の子供が出来ると、子育てにのめり込み、ちょうど公募展出品時期となってしまう。迷わず子育てを選び、海、山に連れて出し遊びまわった。以後、公募展などそちら側の席に着くことはない。

 

モノ作りにはチームワークが欠かせないが責任は己にかかっている。深夜遅くまで絵筆を執っている父親の背中を見て育った私としては当然のように全ては自己責任!という思いで今日まで仕事を続けてきた。母親の明るい声と工夫を凝らした美味しい食事も私の成長を支えてくれた。現在は両親に只々感謝の日々である。

 

宇宙の中でも「地球」は奇跡の生命体であると云ってもいいだろう。我々人類も動植物も命あるものはすべて地球を構成する細胞に例えることが出来る。細胞たちの出会いと別れを繰り返し38億年という気の遠くなる時間を周回してきた。

 

人は大地に生まれ、土に還る。人も器もそれを繰り返し地球上に足跡を残してきた。

 

近年は、デジタル化が加速しているが、生命はアナログ的要素で成り立っていることを再確認してしていただきたい。

 

「甦れ!理性ある本能の復活」。以上です。

 


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